41
「殿下」
ササはまだ意識を取り戻さないのだろうか。
あれからもう三日になるのに。
やはりササの命の灯火は消えかけているのだろうか。
悪い予感ばかりが胸を過ぎる。
あそこで水竜が出てきたのだから死ぬ事なんてない。死ぬのならば水竜だって出てこなかったはずだ。
ある意味においては俺以上に巫女という存在を溺愛しているのだから。
でも、ならばなぜ目覚めないんだ。
どうしてだ。何が間違っていたというのだ。
「殿下っ。祭宮殿下っ」
体を揺すられ、はっと意識を戻す。
「……ルデア」
ふうっとルデアが息を吐き出す。
呆れられている、か。
「殿下。今日中に出なくては王都に約束の期日に戻れません」
「ああ。わかっている」
わかっていると返したものの、一歩も足が動かない。
遠くに見える神殿から目が離せない。ここから一歩でも動いたら、その瞬間に悪い報せが飛び込んでくるのではないかと思ってしまう。
自分がここにいたから何かが変わるわけではない。
わかっている。
わかっているのに、それでもここを動けない。
彼女の容態はあまり良くないと表のルートからも裏のルートからも情報が入ってきている。
意識不明の重体。
倒れてしまった時にはそれほど悪いとは思っていなかったのだが、助手の診察によると衰弱しきっているらしい。
助手から長老にはどのような事態が起こったのか伝えたという連絡も来ている。
あんたのせいで対処のしようがないという罵詈雑言の伝言付きで。
神官長からも怒りの報告が毎日届いている。
一体何をしたのかという詰問と共に。
ここにいたって針のむしろだ。責められるだけで、何も出来やしない。それでも、今はここを離れたくない。
「ルデア」
「はい」
「前に背格好の似ているのを『影』に採用したよな。用心の為にいつでも影武者として使えるようにって」
「はい」
「あれに王都行かせて」
言った瞬間、バンっと勢いを立ててルデアが抱えていた書類を投げ捨てる。
そのあまりの音に、祭宮の居城に仕える侍女たちが短い悲鳴を上げて身を竦めたほどだ。
「……下がっていていいよ」
俺の命令をほっとした顔で聞き、年若い侍女たちがそそくさと退室していく。
代わりに扉の前に陣取っていたギーが部屋の中に入ってきて、扉に鍵を閉める。
何かありましたかなどと聞く事もなく、静かに扉の前でこちらを窺っている。
床に散らばる書類に一瞥もくれない。
ただ黙って事の成り行きを見守るつもりのようだ。
ルデアはルデアで、書類を拾おうともせず、俯いたままぎゅっと拳を握り締めている。
ぎりっと奥歯を噛み締めたような動きをしたあと、ルデアが怒りに満ち溢れた目を俺に向ける。
「殿下」
「何だ」
「常々思っていましたけれど、いい加減覚悟を決めて下さい」
怒りの為だろう。体がぶるっと武者震いのように震え、そして目は真っ赤に充血している。そのように怒りを表に出すルデアを見るのは初めてだ。
窓から視線を逸らし、ルデアに向き直る。
「殿下のお傍に侍らない者ならば、影武者で欺く事も出来ましょう。しかし実の兄である陛下を欺けるとお思いですか。大臣たちを欺けるとお思いですか。近侍たちを欺けるとお思いですか。そのような事が不可能だという事くらい、殿下もご存知でしょう」
「ああ。そうかもしれないね。それでもここにいたいんだ」
本音を吐露する俺をルデアは鼻で笑って、冷ややかな視線を向けてくる。
「あなたはどこまで莫迦なんですか。今、国を動かしているのはあなたです。他でもないあなたなんですよ。たかが巫女一人の為に国を滅ぼすおつもりですか」
責め立てるルデアの言葉に溜息を吐いた。
俺は天秤に掛けたんだ。
巫女である彼女の命と、この国を。
そして国を選び取ったはずだ。それが俺の覚悟であったはずだ。
「女一人助けられなくて、国を救うことなんて出来ないよ」
脳裏には青褪めた彼女の横顔が浮かぶ。
今更あの決断が間違っていたと過去の自分の行いを訂正する事は出来ない。
事実は事実として受け止めるしかないんだ。
「はっきり申し上げます。ここにあなたがいて何が出来るんですか。あなたがここにいれば巫女は目覚めるのですか。違いますよね。こうやって無益に時間を過ごすことしか出来ていないではありませんか。あなたは何をなさるおつもりで巫女を尋ねたのです。この国を立て直す為でしょう。あの陛下の蛮行を止めるためだったのでしょう。それなのにここで手を引くのですか。それは巫女を窮地に追い込んだ事での水竜への謝罪ですか。それともそれがあなたの運命の女へのくだらない贖罪のつもりですか」
「……くだらない?」
「ええ。くだらないですよ。あなたは前に俺に言いましたね。譲れないものがあると。恋だの愛だののほうが大事だと。それがあの巫女なのでしょう。兄将軍閣下から戴いた石を割って渡したあの巫女こそが、宝石の人なのでしょう。玉座よりも何よりも欲しいものがあの巫女なのでしょう。その為にあなたは陛下を蹴落とし傀儡にしようと決めたのではないのですか」
巫女である彼女の衣を下卑た笑みを浮かべて握り締めた兄貴。
そうだ。あの瞬間に俺は兄貴を絶対に彼女に近づけない為に動き出したんだ。
「それでも彼女が死んでしまったら」
「腑抜けてるのも大概にしてくださいっ!」
部屋の中にルデアの怒号が響き渡る。
視界の端でギーが溜息を吐いた。
「あなたは今ここで何が出来ると言うのですか。あなたの大切な巫女の為に何が出来るのですかっ。論理的に説明願います。」
「……ルデア」
「さあ答えて下さい。答えられないのならば王宮に戻りますよ。感傷なんて必要ありません。巫女や水竜に申し訳ないとか思っている暇があるならば、水竜の言葉の意味をきちんと考えて下さい。水竜はあなたになんと言っていたのです。そこで腑抜けていろと言ったのですか。違いますよね。水竜はあなたに何が出来るか自分で考えろと言ったのですよ。いいですか、あなたにです。陛下でもなく兄将軍閣下でもなく、あなたにです。わかりますか? その意味が」
「ルデア」
もう一度友であり最も信頼している部下である男の名を呼ぶ。
ふうっと溜息混じりに「なんです」と不機嫌そうに言うルデアに問いかける。
ずっと疑問だった、あの事を。
「教えてくれ。彼女は助かるのか?」
「はっ。知りませんよ、そんな事。もしも助かればそれは奇跡です。神殿からの報告には瀕死の状態とあります。普通に考えてそのような状態の人間が元に戻れば『奇跡』なんですよ」
言い捨てたルデアの言葉に落胆する。
もう、彼女は元には戻らないかもしれない。もう二度と俺に笑いかけてくれないかもしれない。もう二度と会話を交わすことさえ出来ないのかもしれない。
己の想像力の無さに吐き気がする。
わかっていたはずだ。こういう事態を招きかねない事くらい。
だけれどどこかで楽観視していた。
水竜が『憑依』する事、それは即ち彼女の命に危険が及ばない事なのだと。
何故もっと考えなかったんだ。どうして安易に『憑依』に縋ったんだ。
「俺はバカだな」
「ふん。今更ですか。そういう自嘲している暇があったら王都に帰りますよ。時間はもうギリギリなんですから」
部下に愚弄されているというのに、俺はそのことよりもずっとずっと己の情けなさに腹が立っていた。
彼女のこともそうだが。国のこと。水竜のこと。
俺は一つでもまともの熟考した事があるだろうか。一度たりとも本気でそのいずれも考えた事なんてない。
「俺は覚悟の足りない者なんかじゃなくて、思慮も足りなくて情味も足りないんだろうな」
「バカな事言ってないで、とっとと荷物をまとめてください。覚悟と思慮が足りないのは認めますが、情味が足りない事なないです。むしろ余りすぎていて困るくらいですよ。どこかで兄将軍閣下のように割り切って頂かないと辛くなるのはご自身ですよ」
てきぱきと書類を手に取り、ルデアが「ああ」と呟いて振り返る。
「一つ窺っておきますが、殿下」
冷ややかな目が俺を射抜く。
ルデアの瞳に映る俺は、酷く情けない顔をしている。まるで生気の無い人形のような。いや、人形以下かもしれない。
信念も覚悟も思慮も足りない。そして後悔に押しつぶされそうな怯えた顔をしている。
「殿下の『愛おしいという気持ち』は、その程度なんですか?」
「その程度?」
「ええ。その程度です。例えばあなたが王都に戻らない事によって生まれる水竜の神殿への不信感は誰に向かうんです? 考えました? それから殿下はあの方の何をどうしたいのですか? 手に入れればご満足ですか? それならば手に入らないオモチャを欲しがる子供と何ら変わりません。水竜に取り上げられてしまったから、あの方を恋しく思うだけなのではありませんか?」
「……ルデア」
ギーの低音がルデアを制するように掛けられる。
が、一瞥しただけでルデアがギーに何かを言うことは無かった。
「そんな独りよがりな思いならば恋など捨ててしまえばいい。むしろ俺が徹底的に潰して差し上げますよ。殿下」
「どうやって?」
束になった書類をポンッと胸の辺りに押し付けられる。
それを手の中に受け取ると、にやりとルデアが口元を歪める。
「言うわけないでしょう。そんな手の内を見せるような事を俺がするとでも? まあよく考えて下さい。三十分だけ時間を差し上げますよ」
踵を返したルデアが、ギーの肩をポンっと叩いて部屋から出ていく。
何故口笛を吹いているのかが謎だが。
そんなルデアをギーは溜息交じりの苦笑いで送り出す。
「殿下」
今度は低いギーの声が響く。
「お前もお説教?」
「お説教だという自覚があるだけ素晴らしいですね」
コツコツと踵を鳴らして歩いていたギーが目の前で止まると、いきなり頬に痛みが走る。
殴られたのだと気が付いた時には、床に腰を落としていた。
まるで予期していなかったので、受身の取りようもない。口の中には血の味が広がっていく。
「ギー」
「……怒りもしないんですか」
ギーは呆れた顔で、拳を握っていた右の手を払う。
腰を落として見上げているだけの俺の前に膝を折って、ギーが俺の目線とあわせる。
「どうやったら本気になってくれます? 怒りでもいい。焦りでもいい。俺もルデアもあなたに求めているのはただ一つなのですよ」
「それは何だ?」
「言われなくてはわからないようではダメですね。考えてください。ご自分で。あなたが俺たちに何を求められているのかを。スージの宿題と一緒に考えてください。三十分間」
穏やかな口調で告げると、ギーは立ち上がって俺を見下ろす。
「どうしても譲れないものだったのではありませんか?」
彼女のことか。
ギーと王都の酒場で酒を酌み交わした時に、確かに彼女のことを「それだけは譲れない」と言った。
そのことを言っているのだろう。
「目覚めるかどうかではなく、あの方を譲らない為にどうしたらいいのか考えてみてはどうです? 国のことなんて二の次でいいですから」
「……三十分で考える宿題が山積みだな」
くすりと笑って、ギーが目の前に手を差し出した。
その手を掴むと、ぐっと引っ張り上げられ目線が交わる。
「お考え下さい」
言葉少ないギーに頷き返す。
今ここで決断をしろと、祭宮の両翼から求められている。
あとで考えるなどという誤魔化しはきかない。
「わかったよ。一人にしてくれ」
「畏まりました。では後程お伺いします」
「うん」
ぱたりと扉の閉まる音を背中の向こうで聞いた。
今何をすべきなのか。
ルデアはそれを考えるようにと突きつけた。
ここで立ち止まっているだけでは何も生まれないと。彼女に危害が加わる可能性さえあると。
今何を求められているのか。
ギーはそれを考えるようにと言った。
そして彼女を譲らない為にどうしたらいいのか考えろとも。
国と彼女のこと。それを同列で考えるような事なのだろうか。ギーに至っては国のことなど二の次で良いと言っていたが。
窓辺に立ち、薄いカーテンの向こうの窓を開ける。
風が部屋の中に入り込み、執務用の机の上に置いた書類が風にはためいて宙を舞う。
その風がまるでつむじ風のように渦を巻くので、ふいに水竜を思い出した。巫女である彼女に『憑依』する際に巻き起こった風と酷似していたから。
もしも今この部屋に入ってきた風が水竜の起こしたものならば、ヤツは俺に何を伝えようとしたのだろう。
……なんて馬鹿馬鹿しい考えだ。そのような事があるわけは無い。
自嘲しながら散らばった書類を一枚ずつ手に取っていく。
大体あいつが彼女を通さずに俺に何かを伝えてこようなどと思うわけが無い。
だけれど、でも……?
窓の外、白亜の城のようにも見える水竜の神殿を眺め見た。
普段となんら変わりないその佇まいに、やはり気のせいかと視線を逸らす。
すると眼下には水竜の神殿を目指す人の列が見える。
遠目からだからわからないが、その列は絶え間なく途切れる事なく水竜の神殿を目指しているように見える。
大祭以外では水竜の神殿の内部に立ち入る事さえ出来無いというのに。それでも人は水竜の神殿を目指すのか。
哀れ。
いや、違うな。
「あれは俺の責任か」
ふいにストンと心に落ちてきた。
兄貴を傀儡にすべく立ち回り、大地の異変以来国内政治においては主導権を握りつつあった。怯えに加え、薬により思考力を奪われつつある事により、国策は殆ど俺が決めていた。
だが、何が出来たというのだろう。
一身に縋るような思いで水竜の神殿を目指す人々を作り出している現実は、結局兄王のそれと変わらない。
今を取り繕うかのような小手先だけの指示だけで、一体何が出来たのだろう。
出来た気になっていた。救えた気になっていた。
兄王を小馬鹿にして、俺は兄王とは違う。きちんと民を慮っていると驕っていた。
そしてその小ささに気付かずに踏ん反り返っていた俺は、水竜にはどれほど愚かに見えただろう。
知っていたんだ。
戦によって引き起こされる可能性について。
何も知らなかったわけではない。悪い未来を予見していたんだ。それなのに俺は何をした? ただその時が来るのを黙って待っていただけじゃないか。
そしてすべての代償を彼女に背負わせたのだ。
何もしなかった事によって巻き起こされた災厄を「水竜」という切り札を持って制するという、ここぞとばかりに「祭宮」を活用する為に。
その命さえ、危険に晒して。
「ごめんな、ササ」
聞こえているはずも無い事はわかっている。だけれど口に出さずにはいられなかった。
覚悟の足りない俺の為に、背負わなくてもいいものまでお前に背負わせてしまったんだな。
「俺には一体何が出来るのだろうな。俺はお前を苦しめるばかりだな」
なるのか迷っていた水竜の巫女にしたのも俺。
恋人である幼馴染の近衛兵と別れるように仕立てたのも俺。
兄王が大祭に参加する事を止めさえもせず、巫女と神殿を窮地に陥れたのも俺。
そして、その命を危険に晒したのも俺。
愛おしいと思うことは事実なのに、俺がしている事は結局苦しめる事ばかりだ。
今回の事で彼女の体に支障が残るようならその責任はきちんと取るつもりだったが。
「そんなもの、望んでないよな。きっと」
俺には何が出来る。俺は何を彼女にしたい。
眼下の人の列を眺める。
あの「水竜のご加護」を求める者たちが彼女の負担にならないとは限らない。
「せめて彼女の苦痛が一つでも消せるように」
苦しめたくない。泣かせたくない。再び彼女の笑顔が見たい。
そして目覚めるという奇跡が起こった時に、彼女に恥じない自分である為に。
今のままではあわせる顔が無い。
謝罪を述べることは幾らでも出来る。だけれど謝ることは、俺の罪悪感を軽くしたいだけの行為にすぎない。それでも贖罪の言葉が溢れ出して止まらない。
しかしそれを今ここで口にする事は無駄な事だ。
それよりもすべき事がある。目覚めた彼女が穏やかな日々を過ごせるように。
彼女を守りたい。
彼女を害するすべてから守ろう。兄貴からも、取り巻く何もかもからも。
--どんな決断をしようとも、人の世では何も出来ない水竜に代わり、俺がお前を守るよ。
俺はササにそう約束したんだ。彼女を守ろうと思っていたんだ。
どこで見失ったんだろうな。自分の気持ちを。でももう見失わない。
「俺は女で人生左右される大馬鹿者でいい。だから守りたい巫女を」
そう言った俺をギーとルデアは呆れ顔で笑った。
「それで、何をするんです?」
「彼女を苦しめるすべての物を取り払う。王も戦も天変地異も、そして水竜の神殿に押しかける民たちも」
ルデアの質問に答えると、ふっとルデアが鼻で笑う。
「言うほど簡単だとは思えませんが」
「わかってる。けど、やらないよりはやるほうがましだろう? 自分が為政者には向かないって事は今回の件で良くわかった。だけれどやれるだけの事はやろうと思う」
「畏まりました。殿下」
ギーが慇懃に言い、ゆっくりと頭を下げる。
多分これで間違っていない。今度は間違えない。
彼女を今起こるすべての蚊帳の外に追いやり、あの巫女と水竜のためだけに作られたあの場所で穏やかに過ごせるように。