4
「ねえウィズ。あなたは覚えているかしら」
「ん?」
横たわったままの彼女のほうへと体を傾け、そして彼女の頬を撫でる。
くすぐったそうに頬を緩める彼女の表情に自然とオレの頬も緩んでいく。
「あの日、あなたが言ったこと。私は今でも覚えているわ」
「あの日っていつのことだよ」
クスクスと彼女が声を上げて笑う。ああ、まだ大丈夫だ。そう思ってほっとせずにはいられない。まだ笑える。まだここにいてくれる。
「やっぱりウィズは覚えてないんだ。残念。あの言葉をずっと大切にしてたのは私だけだったみたい」
全然残念そうにも見えないような穏やかな笑みを向ける彼女が、すっと掛け布団で自分の顔を覆うようにして目から下を隠してしまう。
「何だよ。気になるだろ。言えよ」
覆いかぶさるように布団に隠れた彼女の顔を伺う。無理に布団を引き剥がしたりはしないが。
ちらっとこちらを見る目が見えたかと思うと、また彼女は隠れてしまう。
いい年こいたオバサンが何やってるんだか。
そう思う反面、恋人としても夫婦としても同じ時間をあまり共有することの無かった俺たちは、顔を合わせればいつだって恋人の延長のような関係だったように思う。
「本当はウィズが思うよりもずっとずっとウィズのことが好きだって事、知らないんでしょ」
「ん?」
問いに対する答えとは全く異なるものが返ってきたが、それはそれで非常に興味をそそる発言だ。努めて冷静を装いつつ、続く言葉を待つ。
「あの日、ウィズは私に言ったでしょ。巫女になってもならなくても、思い通りの人生を歩めるように、俺が守るから。だから周りの事は気にするなって」
「……そんなこと言ったか、俺」
「ほら。やっぱり忘れてる。真に受けてドキドキして損したわ。しかも成長して戻って来いなんて言うんだもの。あの日からずっとウィズは私にとって特別だったのよ」
ははっと笑い声を出して誤魔化す。
前者はともかく、後者については良く覚えている。
「殺し文句にやられたか。経験少なそうなお嬢ちゃんだったから仕方ないか」
冗談で誤魔化すと、彼女もまたクスクスと声を上げて笑う。
「殺し文句だったんだ。それ、他にも通用したの?」
「さあ。他の女に言ったことないからわかんないな」
「そうなの? じゃあとっておきだったってことね」
言った言葉をまっすぐに受け取り、こっちが恥ずかしくなる。でも月日の流れた今なら冗談にも出来るし、逆に月日が経っているからこそ恥ずかしくもある。
「ねえウィズ。お願いがあるの」
「何だ。叶えられることなら聞いてやるよ」
そう応えるとふふっと彼女が頬を緩ませる。
「簡単よ。あの日あなたに教えた私の名前を呼んで。もう誰も私の名前を呼んでくれないのよ」
「……ササ」
切なそうに眉をひそめる彼女に、封印していた彼女の名前で呼びかける。
「ねえ、もういいかな?」
「何がだ」
「私、もう頑張らなくてもいいかな。泣き言言ってもいいかな。ササに戻ってもいいかな」
思いもよらない言葉に絶句してしまうと、彼女が縋るように俺の腕を掴む。
そんな風に思っていたなんて、一度たりとも思っていなかった。彼女は俺の傍よりもここでこそ輝くのだと思っていた。そしてそれを彼女自身が望んでいたのだと。俺といるよりも竜たちに寄り添って生きて生きたいと、彼女自身が思っているのだと思っていた。
「私をササに戻して。人生のほんの少しの間だけでいいから、わがままを言わせて」
「どうしたんだ、一体」
突然の変化についていけず、思わず彼女の両肩を両手で押さえてその顔を正面から覗き込む。その目はまっすぐに俺を見つめ、瞳には動揺を隠し切れない俺の顔が映っている。
「最後くらい、我侭聞いてよウィズ」
「ササ?」
「一緒にいたい。一緒にいて。もう一人は嫌」
そう言って涙を見せる彼女の震える肩を抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。
何を彼女が抱え込んでいるのかわからないが、それでもこんな風に言い出すことは今まで俺の知る限り無かった。
いつもまっすぐに前だけを見つめ道を切り開いていき、誰にも成し遂げられない事をし、それを誇りにしているように思っていた。
凛として、時として烈しいとも言える厳しさで自他ともに律してきた彼女の何が崩れてしまったのだろう。それともずっと自分を押し殺して無理をしてきたのだろうか。
ならばそれに気付かなかったのならば、俺の落ち度と言えるだろう。
最愛の彼女の心に抱える闇に、俺は気付いていなかったのだから。
「どうした。俺は今ここにいるじゃないか」
ぶんぶんと腕の中で彼女が首を横に振る。
「そうじゃない。そうじゃないの。朝起きたらおはようって言いたいし、眠る時にはおやすみって言いたいし、一緒にご飯だって食べたい。たまには喧嘩したっていい。そういう家族になりたかったのよ」
不意に触れた彼女の心の一端に、言葉さえも失ってしまう。
「私が巫女じゃなかったら、ウィズが祭宮じゃなかったら、そういう風になれたのかなって思うと、もっと一緒にいたかったって苦しくなるの。物分りのいいフリなんてしなければ良かった」
「おま、いや、ササは後悔しているのか。自分で選んだ巫女を宮妃を神官長を」
その問いにまた首を横に振る。
「……してない。してないけど、もっとウィズと同じ時間を過ごしたかったの。だから無理を言って呼んでもらったの。ウィズにどうしても会いたくなって」
まるでそれが別れの時を予期しているかのような気がして、ぐっと喉のあたりに込み上げてくる。
ゆっくりとそれを飲み込んで、腕の中で涙を流している彼女の髪を撫でる。
その髪には白いものが混じるようになった。あの頃の野暮ったい少女はどこにもいない。神々しいばかりの巫女もいない。優雅な宮妃もそこにはいない。神官たちを束ねる支配者もいない。
「帰ろう。雪が解けて暖かくなったら」
俺の言葉に顔を上げた彼女の顔にも老いの影が忍び寄ってきている。そして……。
答えずに瞳に涙を湛えたままの彼女の頬の涙の跡を撫で、もう一度腕の中に抱きすくめる。
「戻って来い、俺のところに。そう約束したじゃないか。十分に頑張ったよ。もうこれ以上頑張らなくていい。成長しすぎてびっくりしたくらいだ」
冗談めかしに言うと、彼女の肩がまた震えて涙声が零れてくる。
「もういいよ。よく頑張ったね、ササ」
隠し切れない泣き声が、広い神官長の居室の中に広がっていった。
彼女を抱きしめながら思う。
もしかしたら俺以上に、彼女は「運命」に翻弄されていたのだろうか。本当にあの日、彼女を巫女にしてしまって良かったのだろうか。
運命に抗って彼女の背を押さなければ、人並みの幸せを彼女は掴んでいたのだろう。
幼馴染の男と結婚して、子供を生んで。
そうしたら俺と人生が交わることは無かったのだろうが。
こうやって悩むこと自体がくだらなすぎるが、いつもどこかで「もしも」が頭をもたげる。
もしも巫女になっていなかったら。もしもあの時彼女の命を天秤に掛けなければ。もしも彼女を諦めていたのならば。
沢山の「もしも」が頭の中に浮かんでくる。
ただそれでも一つだけ言えることがある。「もしも」彼女が巫女にならなかったとしても、彼女を諦める事は出来なかっただろう。
あの日、彼女が俺の腕を掴んだあの瞬間、それを無かったことには出来ないから。
泣きつかれたのか再び眠りについた彼女の横顔を眺めながら、あの日のことを思い出す。
巫女候補が巫女になるまでには、王家側の儀式と神殿側の儀式の二種類がある。
その中でも出身地で行う儀式は両方の側面を備えているものなので、必然的に巫女候補と祭宮は絡む機会が増える。
出身地で行う一つ目の儀式は、使者による次代の巫女との宣告と、王家の代表である祭宮の承認。
決して広くは無い村長の屋敷の中の一部屋に通された俺は、巫女候補がどんな女なのか興味津々だった。
あの絶世の美女と名高い婚約者の後釜だ。それなりの美少女に違いない。そういう俗物的な興味も併せ持っていた。
しかし薄暗い部屋の中に入ってきたのは、予想外の人物だった。
早朝に出会った、これといった特徴も無いササという村娘。まさか彼女が次代の巫女だったとは。
新鮮な驚きと同時に、疑念が生まれた。彼女は何を迷っているのだ、と。
自分が巫女に選ばれなかったから不満なのだと思っていたけれど、巫女に選ばれたのが彼女自身なのだから、俺の思惑は外れたということになる。
何を悩んでいる。何を迷っている。
その答えを解き明かしたくて、また「辞退」という言葉に瞳を不安げに揺らせた彼女に俺自身も不安を覚え、不必要だとわかっていたにも関わらず彼女と接触することを選んだ。
「女だったら誰でも口説く癖はどうにかなりませんかね」
そう嫌味を言った部下のことなど無視して。
口説こうなんてこれっぽっちも思っていなかった。寧ろ何とか説得して巫女になってもらわなくてはやばいと直感的に思った。
「俺はね、ササとちゃんと向き合いたいんだ。ササと同じ高さで、ササの決断の手伝いがしたい」
他人行儀に振舞う彼女の心を解きほぐして真実が知りたくて告げると、彼女が困ったような顔をする。
いきなり王族と対等に話せと言っても難しいことはわかっている。それでも、彼女の隠した本心を知る為には対等にならなくてはならないと思った。
儀式の時の彼女の態度に迷いを感じたことを素直に口にし、世間話を織り交ぜながら確信へと近づいていく。
迷いの正体。
それは「巫女らしい立ち居振る舞いが出来ないこと」だった。
くだらない。そんな程度のことで巫女を辞退するだと。
彼女の可愛らしい悩みに、心の中で笑みが漏れる。
誰だって最初から立場に相応しい振る舞いが出来るわけじゃない。俺や彼女の前の巫女である姫は、生まれた時から立場に見合った振る舞いをするように教育されている。
そんな十年以上掛けて培ってきたものを数ヶ月で出来るようになるわけがない。出来るようになるほうがおかしい。
神官たちだって、徐々に巫女らしくなればいいと思っているだろう。その為の基礎を叩き込んでいただけで。
しかしそんな理由で巫女を辞退されては、こっちの立場としてはたまったもんじゃない。
一応立場上口出ししてはいけないことになっているが、暗に巫女へと押し出すように誘導をしつつ話を進める。
彼女を前向きに巫女にする為にと思って口にした言葉が、何故か俺自身へと返ってくる。
祭宮としての仕事の意義。どうやって祭宮になるか。祭宮らしくなるか。
真剣に悩む彼女と共に考えるうちに、自分の中で燻っていたものの答えが見えてきたような気さえしてくる。
俺は、こうやって悩む巫女候補たちが答えを導き出していけるように手助けしていく為にいるのかもしれないと。
人を動かし、国を動かす。それが国王なのだと思う。
祭宮とは人心を動かし、ひいては国を動かしていく存在なのかもしれない。巫女を作り上げることによって。
そう結論付けつつあった俺にとって、予想外の人間が行く手を阻んでくれた。
彼女の幼馴染で恋人。そして俺の部下。
夕方からの儀式を行うにあたって、警護上の問題もあり彼女に行動を共にするように提案した後、服装を気にするので神官に話をつけて衣装を手配してもらい、そのついでだから気が紛れればと思って部下と顔合わせをさせたら……とんでもない相手だった。
まさか巫女候補に求婚する馬鹿がいるとは思っていなかった。
しかし見たところ彼女にその気が無いように見えたので、あっさり玉砕して貰おうと思って席をはずそうとした瞬間、彼女が俺の腕を掴んだ。
ぎょっとして彼女を見ると、必死に訴えてくる。「行かないで」と。
何で俺? どうして俺に言うんだ?
疑問で頭の中が真っ白になっていると、指先に篭った力が抜け、するりと腕から彼女の手が離れていく。疑問とは裏腹に、その手を引き止めたくなる衝動が湧き上がってくる。けれどそれは押さえ込んだ。
運命に会うでしょうというご神託の続き、「ただし決して触れてはなりません」という言葉が続いていた事を思い出したせいだろうか。
だけれど自分の感情を止められなかった。
彼女を部屋の中に残して扉の外で様子を伺っていると、しゃくりあげる声が微かに聞こえてくる。
何か言いたげな部下と、求婚したと告げた下っ端を放置し、再び部屋の中へと足を踏み込むとその手を掴んでいた。
「そんなに苦しいなら辞めていいんだよ」
本当に言いたい言葉はそれだったのに、言えなかった。言ってしまえば彼女が巫女を諦めてしまう気がして。
どうしてそんな風に泣くのかさえわからなかったけれど、泣く彼女を守りたいという思いだけが育っていった。
同時に、幼馴染への恋心から泣くのかと思ったら、胸が苦しくなった。
夕方の儀式を彼女と並んで見ている間、その横顔を見つめていたら秘めておくことさえ出来なくなった。
「どんな決断をしようとも、人の世では何も出来ない水竜に代わり、俺がお前を守るよ」
今まで婚約者の姫に告げたどんな愛の言葉よりも、ずっとずっと俺にとっては価値のある言葉だった。彼女の心にどのように届いていたのかは定かではないが。
でもきっと、届いていたのだろう。
彼女自身が言っていた。あの日から特別だったのだと。