34
世界が朱に染まる時。
ある者は歓喜の、ある者は悲しみの涙を浮かべるだろう。
朱に大河が染まる時、大地は沈黙し、眠りへといざなわれるだろう。
一言一言、あの蒼い瞳に見つめられて告げられた神託を王へと告げる。
兄王の大祭での愚か過ぎる振る舞いを謝罪している最中、突然巫女の瞳に蒼が宿った。そして告げられた短い神託。
巫女や神官長は気付いていないだろう。事実、朱がどういった類のものなのか誤認している。
しかし聞いた瞬間わかってしまった。これは「戦」に関わるご神託なのだと。一瞬彼女の口を借りてでも自ら告げたかった、水竜の言葉。
戦を良いとも悪いとも言ってはいない。そして謎掛けのような短い文章。
どのように読み取るかは、聞き手によって変わってしまうような抽象的すぎる表現。
思うところが無いわけではないが、憮然として未だ機嫌の悪さを隠そうともしない兄王へ、祭宮の居城の一室にて告げる。
忠実に、一言一句違わず。
踏ん反り返って酒を飲んでいた兄王は、グラスが割れるのではないかと思うほどの音を立ててテーブルに叩きつける。置くだけのつもりだったのかもしれないが、不機嫌さは消しようが無い。寧ろ隠すつもりも一切ないようだ。
膝を折り頭を垂れる俺に対し、ふんっという鼻で笑うような声が届く。
「馬鹿馬鹿しい。神託がどうした。だからなんだというのだ。それは今年の収穫についてのものだろう」
朱を起こしている張本人であるにも関わらず、兄王は意外なほどに神託に興味を示さない。
顔を上げた俺と、兄貴の視線が交差する。
腹立たしげに俺を見たかと思うと、今度はニヤリと口元を歪めて兄貴が笑う。
王らしくもない下卑た笑みだと腹の中で思うが、軽蔑するのと同時に、何かくだらない企みでもしているのだろうと直感する。
「あの巫女はいつまで巫女だ?」
言われた意味が咄嗟に掴めず返答出来ずにいると、くくっと兄貴が笑い声を上げる。
「生まれや育ちは気に入らんが、まあ見られないことも無い。巫女で無くなり次第、妾として召抱えるのはどうだろう。お前が姫を譲ってくれるのならば、あの小生意気そうな小娘で無くとも良いのだがな」
彼女を妾にだと?
くれてやるかと反感が芽生えたが、ほんの少しでも彼女に対する執着を見せてはならない。もしも俺が彼女に対して抱いている感情を見抜かれてしまったら、俺に対する嫌がらせの手段として彼女を何が何でも娶ろうとするだろう。
いつまで巫女なんかなんて俺が知りたいくらいだ。下手に任期が終わってしまうと、兄貴にその周囲を脅かされる可能性が非常に高い。現状のままでは。
暫くは巫女でいてくれたほうが好都合だな。兄貴の興味関心が薄れるまで。
姫は恐らく神殿を出ることは望まないだろう。体調不良であっても、決して神殿、いや水竜から離れようとはしないということはわかっている。そして「神官長」を代わりに出来る人材もいない。
迷宮のようなあの巨大な神殿が姫を守るだろう。自らそこから出てこない限り、こちらからは手出しのしようが無いのだから、神官長でいる限り兄の妃にということにはならないだろう。
ということは、現状不確定要素は巫女の任期がいつまでかということになるな。不確定要素、いや不安要素か。
考え込んでいる時間を、どうやら兄貴は絶句しているとでも思ってくれたようだ。俺を愚弄するかのような言葉を並べ立てて上機嫌に笑っている。
「余に必要なのは後は水竜の後ろ盾だとは思わぬか、祭宮。王冠と巫女と二つの象徴を持つなど、まるで建国王のようではないか。戦をし、国をまとめ、巫女を妻とし玉座に座る。このような子供でも考えつきそうなことが、お前には思いつかぬか、祭宮」
あほくせーな。
建国王の真似して、正当な王だと内外に訴えるつもりか。
「陛下は建国王の名を継ぐ者であり、この国の全てを統べるお方にございます。更にそのお力を顕示する必要があると思っておらず、陛下がおっしゃるような考えには至りませんでした」
嫌味っぽくなってしまったのは本音が透けて見えてしまうせいか。
しかし姫ならともかく、巫女である彼女を妾にね。それは思いもしなかったな。血統至上主義者であるにも関わらず、巫女でありさえすれば、どこの馬の骨かもわからないようなのを娶るのか。妃にしないで妾にするというのが、血統至上主義が見え隠れしている部分かもしれないが。
「祭宮」
「はい」
「余が怖いか?」
にたにたと笑う兄貴に眉を潜めたくなったので、目線を合わせぬようにと俯いて床のカーペットの模様に目を向ける。
今の会話から何故そういう疑問が湧いてくるんだ。理解不能。
「なあに、余の言う事を聞き、余の為に働く者を罰したりはせぬ。お前の部下は余の手に噛み付いた躾のなっておらぬ犬だったゆえ、罰しただけのこと。怯えることは無い、そちは余の可愛い弟ではないか」
だから言う事を聞けと。
背いた瞬間に首を取るぞと言うわけだな。
「余に忠実であれば、そちを祭宮から軍属に戻してやってもいい。わかっておるな」
「……ありがたきお言葉、ありがとうございます」
顔を上げないまま、再び頭を深く垂れる。
「そちは余の手を噛むな。いいな」
「畏まりました。陛下」
今度は兄王の目を見つめて答えた。兄貴の望む忠実な犬であるかのように。
兄王の行啓を見送り、残務が残っていると言い訳をして祭宮の周囲の者を祭宮の所領に留めおく。
実際にこちらでやらなくてはならない事など一つも無いが、姫の機嫌取りに行くくらいはしておいたほうが良さそうだ。
今回兄王がやらかしてくれた事は、対応を間違えれば神殿と王家の間に亀裂を入れることになりかねない。神官たちはあれを王だと思っていないが、神官長だけはあれが王であると知っているのだから。
「全く面倒だ」
祭宮の正装に着替えながら呟くと、ルデアとギーが僅かに頭を垂れて同意する。
本来ならルデアは王宮で留守を守るのだが、今回王が行啓するにあたっての対応を任せるためにルデアも同行させた。
所領の城とあって、この中では多少気が抜けるというか王宮内ほど耳も目もいないので、ルデアやギーも以前のように砕けた様子で言いたい放題言ってくる。兄王が王都への帰路についてからだが。
ここでは影たちも動きやすいとあって、他の勢力が手を伸ばしてこようとするのを事前に止めることも容易いようだ。
王宮内にもそのような場を作る必要性があることを、改めてこちらに来て感じる。密談できる場所がないのは、非常に不便だ。
「面倒といえば面倒ですが、巫女様や神官長様にお会い出来るのですからいいのでは?」
にやりと笑みを浮かべながらギーが言うのを、うんうんとルデアが首を縦に振る。
「こちらに関する事は非常にご熱心に動かれる殿下ですから、何も苦になるような事はないでしょうに」
続けてルデアが応酬してくる。ったく、本当に水を得た魚のように生き生き嫌味を口にし出す。でもそれが嫌ではない。今はもう本音で話をしてくる奴など数えるほどしかいない。
二人揃ってニヤニヤと笑うので、チっと舌打ちをする。
「ご機嫌伺いだよ、姫の。今回会うのは姫だけ」
「それはそれはお可哀想に。あの巫女様にお会い出来ないなんて」
芝居がかったルデアの言葉を鼻で笑う。
「あの巫女様ってどんな巫女様に見えたんだよ、お前には。確かルデアは巫女の実物を見るのは初めてだよな?」
ふとした興味に駆られてルデアに尋ねる。彼女の姿を見るのは初めて。しかし彼女の情報はもしかしたらこの中で一番持っているかもしれない。
彼女が水竜を憑依させたことがあるという緘口令が敷かれている事実さえも。そして俺の隠している本心も見抜いているはずだ。あの蒼い石の片割れの行き先を知っていると暗に匂わせたことがあるくらいなのだから。
恐らくルデアはルデアなりに、彼女を値踏みしようという意識はあったはずだ。兄王とは異なるものであったとしても。
果たして彼女はルデアの眼鏡に適ったのだろうか。まあ仮にダメ出しをされたとしても、俺の想いはなんら揺らぐ事はないのだが。
「……率直な感想を述べても?」
「別に構わないよ」
咳払いをして、ルデアが「では」と口を開く。その様子をギーは明らかに面白がった顔で見ている。
「報告書などから推測していた野暮ったさは感じませんでした。神官たちに覇気がないと評されているので、あまり期待をしていなかったのも事実です。あなたがわざわざ全部みたいというから付き合った全ての礼拝を見て、巫女とはこういう存在なのだなと信心深くないのに納得させられるだけの何かを発しているように思いました。ギーはどう思いました?」
唐突に話を振られたギーは、寄りかかっていた壁から背中を離し、腕組みしていた腕を解いて考えるように目線を宙へと彷徨わせる。
ギーは眉根を寄せ、うーむと呻き声のような声を上げる。
「成長が窺えるという言葉が相応しいかといえば相応しいとも思えず。かつて無かったものが巫女の中に芽生えているのか、はたまたそれもまた水竜の力なのか、水竜という人ならざるモノに仕えるに相応しいだけの気品を有しているように見えたな」
「気品、なるほど」
納得した様子でルデアがうんうんと首を縦に振る。
「陛下が巫女のお召し物の裾を掴むなどという暴挙に出た時、正直巫女はどうするのだろうと思いました。しかし一言も発せずただ見下ろすその姿は、王であると知らなかったとはいえ、下賤の者に対する侮蔑のようなものが含まれていたように思いました。そしてそのような振る舞いが出来るほどの人材だと思っていた者は、誰一人報告書を書く者の中にはいなかったはずです。ですから田舎娘で不器用な、もっと言ってしまえば器量の足りない娘だと思っていましたが、良い意味で予想が外れた事と思っております」
「それで?」
「ですから陛下があの巫女を多少なりとも気に入ったというのは理解できる気がします。巫女としての気品溢れる姿。姫のそれとは劣るかもしれませんが、王の添え物として十二分に事足りると思われたのでしょう」
ルデアの彼女に対する評価は概ね悪くないというところだろう。寧ろ想像以上で好印象といったところか。
それが同時に兄王の彼女への評価でもあるのだろう。
毎回の事だが、普段見る巫女の姿と大祭での巫女の姿に大きな乖離を感じる。蒼い瞳の時とはまた別の意味で、彼女に他を寄せ付けない神聖さを感じるのが大祭だ。
豪奢なステンドグラスから注ぐ光の効果なのか、響き渡る祝詞の声の美しさのせいなのか、居並ぶ青い衣の神官たちの気配なのか、同じ衣を纏っていても祭壇にいなければ可愛らしく思えるのに、何故かあの場にいる彼女は神々しいという形容が似合う。
「しかし王が娶るとおっしゃったそうですが、俺には単に揺さぶりを掛けてきただけでは無いかと思います」
神妙な面持ちでルデアが更に言葉を紡ぐ。
「恐らく本来の狙いは姫で間違いないでしょう。現在の巫女を妃にしてしまえば姫は巫女に戻らざるを得ない。また姫以外には神官長を担える方もいらっしゃいません。先の方も最近病がちになられたと聞いております。そうすると、姫を娶る事はかなり難しくなるでしょう」
一端話を区切ったルデアに頷き返し、話を続けるように促す。
「現在の巫女を無理やり略奪するような手を使ってまで娶ろうとはなさらないでしょう。それは即ち神殿機能の崩壊と水竜と王家の断絶を意味します。さすがの陛下もそこまでのお考えはお持ちではないと思います。殿下から窺った話から推測するに、さっさと姫を譲れという脅しだとみたほうが宜しいかと思います。まあ、本当に今の巫女を娶ろうという気が皆無というわけでもないでしょうけれどね」
「そもそもあの神殿から巫女を引きずり出すような事は不可能だろうな」
同意すると、ルデアは意を得たといわんばかりに首を縦に振る。
「年に一度だけ巫女が外部と触れる大祭の機を逃したわけですから、直接巫女に何かを仕掛けてくるとしても一年後です。巫女を退位するにしても、最短でも一年後の大祭です。巫女に関してはそれほど警戒を抱く必要は無いかと思いますが、ギーはどう思います?」
腕組みをしたまま考えこんでいたギーがふーっと深く息を吐き出す。
「巫女には何も出来ないだろう、俺もそう思う。しかし殿下、陛下が配下の『闇』をつかって姫に対して行ったように何か仕掛けてくる可能性もゼロではありません。こちらもそれなりの対処を考えておくべきかと」
「そうだな。姫に謝罪してくるついでに長老に警戒を怠るなと伝えておくか。まあ、恐らく今最も神殿で警戒されているのは俺だけどな」
ははっと笑う俺を、非常に生暖かい目で二人が見つめてくる。
本当に冗談でも言ってなけりゃ、あの神官長の相手はきついんだって。大祭の日だってギャンギャンと騒ぎまくって大変だったのに。
姫や神殿の連中は、どうやらこの騒動の発端は俺だと思っているようだ。
勝手に来るって言った挙句、王であるという身分は隠したいというので元々顔も素性も知っている神官長以外には正体をばらさないまま大祭に参加し、何を考えていたのか巫女を穢すような真似をしやがって。
あれが俺の策略だと?
あんな事するとわかっていたならば、全力で王都に留まっていただいたよ。本当に。
変に巫女である彼女が怯えた仕草を見せたり、何らかの言葉を発したりしていたら、水竜への信仰自体が揺らぐ可能性だって無いわけではない。
大体俺が水竜の権威を失墜させて何の利点があるっていうんだ。それに水竜の神殿は敵対する存在ではなく、共存する存在だと認識している。それは建国王の選んだ道。
「何故水竜の神殿に行啓する気になったのか聞こうともしなかった俺の不手際だと言われてしまえばそれまでだ」
ついっと視線を水竜の神殿のほうへと向ける。まるで巫女や神官長が水竜の神殿の奥殿を見つめるかのように。
大祭の終わった後の神殿の周囲は通常通りの静けさが取り巻いている。大祭の熱狂はそこにはない。熱狂が消えるのと同じように、兄王の起こした馬鹿げた行為が帳消しになるのならばいいのだが、そんな事は起こりえないだろう。寧ろ神殿史の中に今回の一件が刻まれる事は間違いない。
「姫君のご機嫌伺いは殿下にお任せします。それよりもこの際ですので殿下のご意思を確認させていただきたいのですが」
視線を室内に戻すと、ルデアがこほんと咳払いをする。ギーは腕組みをして険しい顔をしている。
「いつまでこの茶番をお続けになるおつもりで」
「茶番?」
聞き返すと、ルデアが口元を歪めるようにして笑みを浮かべる。
「茶番です。何故か陛下は騙されているようですけれど、本当は何をなさりたいのですか」
茶番か。兄王の犬のように振舞っている事を言っているのだろう。確かに第三王子の矜持はどうしたと聞かれそうな振る舞いであることは間違いない。
兄王にへつらい、将軍である兄上には逆らわず。これといった明確な意思表示もしないまま数ヶ月を過ごしている。
ルデアは俺が何か考えがあったり、何かの意志を持って行っていると思っているのだろう。
「愚者に成り下がるおつもりで?」
辛辣なルデアの言葉にギーも同意しているのか、口を挟む素振りすら見せない。
何かを言うべきだというのはわかる。しかし何も言うべきではないのではないかとも思う。だがこの二人こそが「祭宮の両翼」と呼ばれている腹心中の腹心。思うところを告げても構わないかもしれない。
「愚者か。そう呼ばれるのも良いかもしれないな。それよりは寧ろ道化と呼ばれるかもしれないがな」
くすりと笑みを浮かべると、あからさまな落胆の表情を浮かべてルデアが溜息を吐きだす。
「もう二度とスージのような者が出ない事を俺は願う。もし媚びへつらうことでそれを無くすことが出来るのならば、俺の頭一つなんて安いもんだ」
「……殿下。殿下がどう思われようとも、殿下は先王陛下の第三王子であり、祭宮であらせられるのです」
「うん。わかっているよ」
はーっと吐き出された二つの溜息が、ああ俺のことを心配してくれているのだなと思えて目元が緩む。口元も緩んで笑みの形になるのを、ギーは呆れ顔で見つめている。
ルデアは片手で頭を抱えてしまう。
「どうやったらあなたにわかっていただけるのでしょう」
「何をかな」
「我々の虚しさです。どんなにあなたを守り立てようとしても、あなたは玉座を欲しない。人に蔑まれても平気な顔をしている。それをどれだけ我々が歯がゆく思っているのか、どうしておわかりにならないのでしょうか」
眼鏡を押し上げながら言うルデアの表情は苦渋に満ち溢れている。
すまないと思う。ルデアはいつも俺に言う。玉座を獲れと。だが兄王のように戦を起こしてまで欲しいものではない。
人の血を流してまで欲しいものなど、俺には無い。
「玉座はいらない。だが国は守りたいと思うよ。だからまずは兄王が俺に警戒心を無くすところから始めようと思う」
「だからといって、あなたが頭を垂れる必要はない!」
「……そうかな? 油断は意外に悪くない」
激昂するかのようなルデアに冷笑を浴びせ、指をパチンと弾く。
部屋の中にはいつぞやの闇の青年が降りてくる。
ギーは眉を潜め、ルデアは驚きで目を見開いている。祭宮配下の見知った「影」以外が天井裏に潜んでいるとは思っていなかったのだろう。
「裏から王宮を掌握する。意味はわかるな? ルデア、ギー」
「……殿下」
「玉座を飾り物にしてしまえ」
にやりと笑う俺に、ギーとルデア、そして闇の青年が頭を垂れる。
世界が朱に染まる時。
ある者は歓喜の、ある者は悲しみの涙を浮かべるだろう。
朱に大河が染まる時、大地は沈黙し、眠りへといざなわれるだろう。
手出しをしては成らないモノに触れてしまったこと、後悔させてやる。
俺の領域を侵さなければ、こちらも手を出すつもりなど無かったのに。スージ、巫女、神殿。それは全て「俺のもの」だ。それさえ守れるのならば大人しくしているつもりだったのにな。
眠っていた俺の中の「カイの血」が動き出す。