33
祭宮は腰抜け。
そんな手厳しい噂が流れ出している事に気が付いていないわけでは無い。
父上や兄上が言うように「何か」をすべきなのかもしれない。しかし未だに何をすべきなのか見つけられずにいる。
自分の領域を侵される事を疎み、排除を試みた結果が兄貴の血の粛清。
あの事件の後、今までどこか歯止めを自分の中でかけていた(と大臣たちは言っている)兄貴だが、どのような地位にいるものでも気に入らなければ「処分」しているらしい。
らしい、というのは俺が兄貴から遠ざけられているからだ。
皆、俺が「血の穢れ」に触れることを嫌う。不浄なものに触れては水竜の怒りを買いかねないというのが理由だ。
でも俺はそうは感じていない。
兄貴が即位前には俺を玉座に着けようとしていた者たちさえも、俺が政治には不要だと判断したとしか思えない。事実、この部屋を訪れる者はごくごく限られた者だけになっている。
気のせいでは無く、祭宮の執務室内の張り詰めた空気も、今は以前のような穏やかさを取り戻しつつある。それは周囲の俺に対しての警戒心が薄らいでいる表れだろう。
それはそれで気が楽でいいのだが、心の中に澱のように積み重なっていくやりきれなさ。
唯一兄貴に文句の一つも言いそうな兄上さえ、兄貴に逆らう素振りはせずに戦の準備をしている。
まさかあの兄上が「一度は戦をしてみたかった」などという考えでいるとは思えないのだが、兄上の周囲の人間たちは非常に楽しそうに物事を運んでいる。それがまた兄貴を上機嫌にするのだ。
ぽっかりと一つだけ空いた席。本来スージが座るはずの机。
そこにいるべき人間がいなくなってから、加速度的に全ては進みだした。
既に「大戦」を始める為の小競り合いが始まっている。
何故この戦をしなくてはならないのか。全く大義のない戦だというのに、まるで皆、熱狂しているかのように戦へと進んでいく。
海軍が敵国の船を沈めたという方向が大々的にもたらされたのが数日前。
正式な戦の仕方などわからないが、そのような海賊まがいの事までさせるとは、兄貴も兄上も何を考えているのか。
この流れは止められないのか。
無力というのはこういう事なのだろう。
目の前でどんどん事態は進んでいくのを、ただ傍観するしかない。
国が動き、そして人が動いていくのを、政治には関わってはならないという立場上口を出すわけにもいかず、粛々と大祭の準備のみに終始している。
俺が動いて、何が変わるというのだろう。父上は、兄上は、俺に何を期待しているのだろう。
しかしスージの件のように迂闊に俺が動く事によって巻き込まれる他者を慮れば、熟考に熟考を重ねるべきではないかと思う。
その間も国は動き続けている、その事に対する焦りを感じないわけではない。
「でもまあ、こうやって気楽にいられるのも悪くは無いよな」
ギーを相手に城下の酒場で酒を酌み交わす。
煮え切らない自分を酒で誤魔化しているだけだとわかってはいる。だが王宮内に心の安らぐ場所など無い。
何も言わず、ギーはごくりと喉を動かして酒を流し込んでいる。
「嫁取れ攻撃も減りましたし、夜会のたびに女性陣の対応に追われることも無くなりましたから、そういった面では非常に楽になりましたよ」
列を成してやってきた「我が娘を妃に」攻撃も、夜会でのお嬢様方のお色気攻撃も無くなったのは嬉しい誤算というか、まあラッキーだった。
「早いとこ娶ればいいじゃないですか。こっちも色々面倒なんですよ」
「出来るならしてるだろ」
「……まあ、おっしゃるとおりですが」
宝石の人と呼ばれる人物が誰なのか、結論に辿り着いているギーは溜息を吐きながら俺を睨みつける。
「失礼致します、お客様」
何か言おうと口を開きかけたギーの体が強張る。それは驚きからではなく、突然声を掛けてきた相手に警戒したからだ。
唐突に話しかけてきたのはどうやら店員のようだ。
「空いているグラスや皿をお下げしても宜しいでしょうか」
「ああ、構わんよ」
幾分肩から力が抜けた口調でギーが告げると、店員は慣れた手つきで皿を自分の手の上に重ねていき、グラスもまとめて握り締める。
片付けられたテーブルの上は空間が広がり、心持ち寂しいような気分にさせられる。腹が減っているわけでもないのに、何故か口寂しい。
察したわけではないだろうが、店員が皿の代わりにメニュー表を持ってくる。店の戦略に乗っているなと思いつつも、何かつまめる物が欲しくてメニューを開く。
手が、目が留まる。
疑いもせず店のメニューだと思って開いた物。実際に店で使われているのと全く同じものだ、見た目は。店に入ってすぐにこれと同じものを手にして注文をした。それはそんなに古い記憶ではない。
「どうなさいましたか」
「あー、何食べるか悩んでる」
一通り目を通したので、ギーのほうにメニューを手渡す。
渡されたギーはこれといって気にする素振りも見せずに目を通すと、俺のほうへとメニューを戻す。
「好きなものにしてください。俺はどれでもいいです」
「ああ」
メニューを吟味するフリをして、書かれているものに再び目を通す。
書かれているのはスージの容態。統率者を失った「闇」が幾つかのグループに分裂している事。そして今この場に兄貴の「耳」がいること。
報告のようなものと忠告。
余計な事はここで話すべきではないという事を悟ったギーは、恐らく頃合を見計らって店を出ることを提案してくるだろう。
近くを通りかかった先程の店員を手を上げて呼び止める。
顔を見ても、覚えが無い。
恐らく「闇」の一人なのだろうが、妙に愛想のよい笑みを顔に貼り付けていて、とてもとても裏稼業の人間のようには思えない。
「君のオススメはあるかな」
メニューを傾けて店員のフリをしている闇の男に尋ねると、ついっと指で一つのところを指差す。
そこに書かれているのは「耳」
「厨房に新しくコックが入りましてね、それが腕がいいんですよ。ですからどれもオススメなのですが、特にこれなんかはどうでしょう」
その人物こそが兄貴の耳だということだろう。
「ふーん、ではそれを頼むよ」
パタンとメニューを畳み、男に渡すところでギーがコインを一枚取り出す。
チップを受け取った男は何事もなかったかのような顔で、店員の業務に戻っていく。手にしたメニューはどうするのだろうと思っていると、別の客へと手渡している。
書かれている内容を思い、内心ぎょっとするが、手渡された相手の男の顔は見たことがあった。スージの居所を告げた天井裏から降り立った青年。
そ知らぬフリをして、ギーと世間話に興じる。
あの青年にしても、店員に扮した男にしても、こちらに対して敵意を持っていないようだ。
幾つかに分裂しているという「闇」の内部だが、その中でも彼らは兄貴の手足となって動いてはいない者なのだろう。或いは兄貴の手足になっていても、こちらに不利な状況を作る事はしないつもりかもしれない。
その後、食べ物や飲み物を持ってくる時には、もう「闇」として接触してくる事はない。あくまで一店員として振舞っている。そしてあの青年はいつの間にか店から姿を消していた。
「知らぬ顔ですが」
「多分優男の置き土産だよ」
先程の店員の事を暗に問いかけてきたギーに暗喩で返す。スージの置き土産。それの意味をきっとギーは察してくれるだろう。
ギーはふっと溜息を漏らし、そしてぐいっと酒を煽るように飲む。
「早くあいつとも酒を酌み交わしたいものです」
「そうだな」
恐らくそれは難しいだろう。先程の店員からの報告によると、体の機能に一部損傷があるようだ。左手の腱と右足の機能が落ちていると書かれていたが、それは出仕して今までどおりの仕事をこなすのには厳しいものだろう。そして何よりも顔に大きく残った傷。
スージの心中を思うと、気軽に出て来いとも言えない。体の傷と心の傷が癒えるまで、祭宮配下に在籍したまま休養としておくのが一番だろう。
それに何よりも、俺は他の誰かを巻き込むことに必要以上に臆病になっていた。
今目の前にいるギーにだって、いつ兄貴の嫌疑が掛かるかわからない。そしてまたスージのような事になったら。
ギーだけではない。ルデアだって、他の祭宮に仕える者たち全てを俺は守り通さなくてはならない。それが上に立つものの責任だ。スージの件を通し、権力者とは権力を行使する対価として配下の者たちを守る義務があるのだと知った。
腰抜けと呼ばれようが、今は動かない。
俺がこの手で守れる者はものすごく少ない。守りたくても守りきれない者を増やしたくはない。
戦というものを改めて認識させられたのは、執務中に受けた報告からだ。
「殿下」
ギーの実父であり大公と呼ばれる財務大臣が祭宮の執務室を訪れる。一人息子であるギーをこちらの陣営に送り、尚且つ母とギーの母が従妹同士という間柄でもあり、財務大臣は祭宮一派の中心人物だ。
だが王宮内で顔を合わすことはあっても、この部屋を訪れるような事は皆無に等しい。
「珍しいな。どうした」
書類から顔をあげ、父と同世代である財務大臣を見上げる。
「これはジルレイ公爵子息よりこちらに上がっていた決裁書類です。全て確認し取り計らいましたことをご報告に参りました」
手渡された書類を見、ざっと目を通す。
大臣の言うようにスージがこちらで行っていた大祭における各地方ごとの補助金の割り振りについて書かれている。スージのサイン、俺のサインと決裁印。それに大臣の決裁印が加えられている。
二枚目以降は恐らく詳細だろうと捲ると、全く違った様式の書類が挟み込まれている。
左腕は肘をつき、右手で書類を押さえて文字を追う。
祭とは対極の戦局について書かれているそれを、脳内の戦に関する知識と照らし合わせながら読む。
こちらの領海を侵したということで、隣国の船を奇襲攻撃した。そして三隻の船を沈めた。
が、隣国も報復として沿岸の警備艇が停泊する港町を夜襲。その際に隣国により使われた火矢の炎が船のみならず、街の一部を焼き、死傷者が出ている。軽症者も含むと被害にあったのは兵士一般人含めて五十人以上に及ぶ。
幾度か同じ部分を読み、その一枚を捲る。すると出てきたのは祭宮で使われている決済用の書類。
つまり財務大臣は数日前に起こった戦乱についての報告に来たということだろう。
「何か不都合な点やご不明な点はございませんでしょうか」
一歩前に進み出た大臣は、二枚目の戦に関する書類をポンと指差す。
「特にこのあたりですが、場所につきましては大河の河口付近になりますが、この程度のご予算で宜しいでしょうか。そちらから提出された書類によりますと、水竜の祠に痛みが見えるということでしたが」
祠も焼けたか。
人として侵してはならないモノである水竜。その領域を侵されてあの化け物は何を思うのだろう。
水竜の心中を慮る必要は無い、か。人の世において信仰の象徴である「水竜の祠」が焼けてしまったのならば、祭事を預かる者として早急に再建すべきであろう。
「予算の上積みは可能なのか」
「はい。倍額でよろしければ」
「ではそれで頼む。この書類に訂正を加えて再度こちらに戻して欲しい」
書類を財務大臣に手渡すと、恭しく捧げ持つかのようにし、大臣は頭を垂れる。
「畏まりました」
それだけ言って出て行くかと思っていた財務大臣が去る気配が無い。書類を持ったまま目の前に立って俺を見つめている。
「何だ」
問いかけると大臣は表情を曇らせる。沈痛な面持ちというのはこういうものかもしれない。
ちらりとギーのほうに視線を向けると、ギーは小さく首を横に振る。ギーも何も聞いていないという事だろう。
「陛下が大将軍閣下を皇太弟に指名するそうです。戦の先頭に立つものが次期国王であれば、軍の士気も上がるであろうと」
「そうか。兄上を」
もっと何か大事でも起こったのかと思ったが。ああ、権力闘争中の大臣には大事なのかもしれないな。
しかし兄上を皇太弟に選ぶとは、兄貴も意外にまともだな。あのどこの馬の骨かもわからない息子を皇太子に選ばなかったのは評価できる。
大戦の前に兄上を皇太弟に据えるのは悪い判断ではない。寧ろ最良の決断といえるだろう。皇太弟自ら戦場に出るとなれば、兵士たちはそれこそ死に物狂いで兄上を守ろうとするだろうし、兄上の為に勝ち戦を上げようと考えるだろう。
少なくとも俺を皇太弟に据えるよりは、ずっと国益に適うだろう。
だが大臣は不満だということだな。
「皇太弟指名に伴う儀式や式典の予定はもう決まっているのか」
「いえ。行う予定は無いようです。宴を催すとのみ聞いております」
まあ兄貴が皇太子になった時もこれといった大掛かりなものは行わなかったし、それを不思議に思うことは無いだろう。
あの心の狭い兄貴が兄上の為に宴を開くだけでもかなりの譲歩だろう。
「それともう一つご報告がございます」
まだ何かあるのか。この大臣をこちらに寄越したのは恐らく国王である兄貴だろう。
皇太弟の件以外にまだあるのか、兄貴。大体大臣を寄越さなくとも、俺を呼びつければ済む事だろうに。大臣に対する嫌がらせか。
「陛下が水竜の大祭に参列されるとこのことです。祭宮殿下におきましては、準備恙無く行うようにとのご命令にございます」
「それで、先王陛下が大祭に?」
娘の問い掛けに「ああ」と短く返答する。
珍しく体調がいいようで体を起こしている彼女のほうに娘が向き直ると、彼女もこくりと頷き返す。
その後の全てを知っている神官たちは一様に口を閉ざしている。まるで壁になりきったかのように表情を消したままで。
「大祭に国王が参列するなんて、あまり無い事ですよね」
娘の疑問はその神官たちに向けられた。
「私はその一度しか体験しておりませんね」
長老であるかつて傭兵と呼ばれた男が返答すると、ふーんと娘が返事をする。
「そのうちお兄様が参列しそうな気がするわ」
その言葉にふわりと頬を綻ばせた長老が、ゆっくりと頭を下げる。
「その際には我々も誠心誠意おもてなしを致したいと思います」
それは息子にとって本意ではなかろうが、あの蒼い瞳を持つ者を神殿の神官たちが蔑ろにする事など出来ないだろう。それこそここぞとばかりに仕えようとするに違いない。
その光景が目に浮かぶようだ。そして息子の苦笑も。
「その先王陛下がご参列なさった大祭では神殿は何か対応したのかしら。もしそうなら先例に倣って行うべきよね」
娘の問い掛けに、長老は頭を垂れるだけで答えようとはしない。
自然と視線は俺や神官長である彼女へと向けられる。
どうするといわんばかりの彼女の視線に、俺は肩を竦めて苦笑を浮かべる。その笑みに、彼女も同じような笑みを浮かべる。
「私が答えても?」
彼女がやんわりと口を開く。部屋の中の空気が彼女が口を開いたという事実だけで変わっていく。何か特別な事を口にしたわけではないのに、神官たちの顔が引き締まっていく。
「どうぞ」
促すように俺が言うと、彼女がありがとうと囁く。彼女の座るベッドサイドに陣取っている俺以外には聞こえないような声で。柔らかな声に視線を送ると、彼女が微笑み返してくれる。その笑みが神官長としての笑みじゃないもので、心が落ち着かなくなる。
「大祭が終わって水竜と話すまで、私はあの方が国王だとは知らなかったの。当然お父様や先の神官長様はご存知だったでしょうけれど、神官たちも知らなかったわ」
「そうなの?」
娘は驚きを隠せないといった様子で俺を見る。ここで口を挟むべきか躊躇っていると、彼女の指が俺の手の上に重なる。何も話すなというように。そしてまるで俺を守るかのように。
そんな彼女の動きに静止され、娘に対して首を縦に振るに留める。
「結論から言うと、まあ、最悪だったわ」
「あれ、神官長様も最悪だと思っていらしたのですか」
口を挟んだのは片目。どうしてこういうところに口を挟むのか。いや、挟まなくてはいられないのか。今でも俺のことをあまり好ましいとは思っていないからか、もしくはからかう機会があれば逃さずにはいられないのか。
そんな片目の横槍に彼女は首を傾げるだけで答えようとはしない。
「あの暴挙をお許しになられていたのかと思っておりましたが」
言いながら俺を見るな。ったく。
頭を抱えたい気持ちというのはこういうことだろう。確かに俺の不手際だ。あのような事態を引き起こしたのは。
後に発覚する企みに気付いていなかったのは俺の落ち度だし、水竜の神殿の巫女の神性を穢すような結果を招きかねなかったのは事実だ。
「国王の事を言っているのならば、それは否よ。許す必要は全く無いわ。水竜を貶めんとする態度は許されるものではない。それは片目もわかっているでしょう」
そんな事はわかっているといわんばかりに、片目がはいと返答する。
ちらっと俺に視線を向けた片目の言いたいことは、俺のことだろう。結局のところ、まず第一に彼女が俺を夫にした事だって許しがたい事実だろう。何せ片目の立場から見れば巫女の神性を穢さんとし、その命を狙った張本人なのだから。
そしてこの大祭で起こったことは、危うく神殿の根幹を揺るがしかねないようなものだった。
「祭宮様のことをおっしゃっているのだったら、私が許したり許さなかったりするような事では無いの。だから、いいのよ」
はーっと片目が深く溜息を吐き出す。
「あなたはいつもそうだ。祭宮様に殊更甘い。我々からすると、もう少し厳罰を加えるなりしたくなるようなことでさえ、あなたはあっさり許しておしまいになる。それをどれだけ我々が歯がゆく思っていたのか、お分かりになっていらっしゃらない」
彼女が片目に、そして他の御付神官たちに視線を巡らせる。
執事、今は長老と呼ばれている傭兵、片目、助手、熊。そしてカカシと入れ替わりに御付になった司書。
「ありがとう」
想像していなかった彼女の言葉に、俺も神官たちも毒気を抜かれる。
「いつも一番に心配してくれて助けてくれて守ってくれて。そうやっていつも心配してくれていたのね。ありがとう」
言いだしっぺの片目が口をへの字にして照れくさそうに顔を背ける。
「心配するのも神官の仕事です。お気になさらず」
執事の素っ気無いとも言える言葉に、彼女がまた微笑む。
「いつも傍にいてくれたから、私は巫女でいられたし、神官長でいられたの。だから、ありがとう」
それは終わりが見えている今だからこそ出る言葉かもしれない。
湿っぽくなりそうな空気が流れ出すと、娘がこほんと咳払いをする。
「それでお父様。お父様は先王陛下が参列する事に不安は無かったの?」
「不安は無かったが、どちらかというと面倒だと思っていたな。それと彼女が『宝石の人』だと露見しなければ良いと危惧していたよ」
「ばれると、拙かった?」
まずいかどうかと聞かれたらまずいに決まっている。
「後に知ったことだが、先王は巫女を妃に据えたがっていた。しかもその時の巫女である彼女が俺の想い人だと知られてみろ。ありとあらゆる手段を講じるのは明らかだった。だから巫女の正装を纏っている時に彼女が石を身につけていないことには安心したよ。反面腹立たしくもあったけれどね」
最後の部分は彼女を見つめながら言うと、彼女がすっと目を逸らす。言いにくい何かがあるといわんばかりに。
「まあ、昔の事だからいいけどね」
右手で彼女の髪を梳き、その手をそのまま首元まで滑らせていく。くすぐったそうに身を捩る彼女の鎖骨を撫でるようにしながら銀色の鎖を指で掬い上げる。
鎖の先に輝くのは、ずっと昔に彼女に送った俺の想いの証。
俺の右手と彼女の首元に分かれた二つの石。今は身につけているそれは、その時には確かに彼女は外していた。それは事実で覆しようも無い。
何かを言いたげに光る彼女の瞳。けれど何も言わなくともわかる。何故その時身につけていなかったのか、そして俺に今何を言おうとしているのか。
すっと指を離し、彼女の頬を撫でる。
「過去を穿り返したって意味ないだろ」
瞳のふちをなぞりながら告げると、彼女はゆっくりと瞬きをして、言いかけた言葉を飲み込む。彼女の表情が落ち着くのを見届け、再び娘に向き直る。
あきれ返った表情で椅子に踏ん反り返る娘は、ふいっと俺から視線を外して壁際の神官たちに声を掛ける。
「ねえ、毎日このラブラブな夫婦を見ていて何も言いたくならないの?」
間髪入れずに答えたのは助手。
「見慣れています」
それにぷぷっと噴き出して、片目が肩を揺らす。
「確かに王宮ではもっとすごかったからな」
そうなの? と娘の瞳がキラキラと輝きだす。ああ、また一つ話の種を増やしてくれたな。これはまた後で色々言われるに違いない。
「そのあたりは適当に吟遊詩人の詩でも参考にしておけ」
先手を打ちそれ以上の追求の手を逃れようとするが、思わぬところから余計な一言が娘にもたされる。
「常にこのような感じでしたので、私は何も思いませんが」
「常に?」
幾つもの声が重なり、発言者である執事に好奇心の目が向けられる。
「ええ。祭宮様がお越しの時は常に」
「……余計な事を」
ちっと舌打ちするのを、彼女が面白そうに、娘は興味津々といった様子で、神官たちは呆れ顔で俺を見る。
「否定しないんですかっ」
何故か焦り気味に問いかけてくる片目に対して、ふんっと鼻を鳴らす。
「キスの一つくらい構わないだろ」
「構いますっ。神職に手を出さないで下さいっ」
「だってさ」
慌てふためく片目を無視し彼女に声を掛けると、彼女は気まずそうに眉を潜める。
「次から気をつける事にするね」
ふふふっと笑う彼女と笑いあうと、背後から盛大な溜息が聞こえてくる。
どんな過去があろうとも、今あるこの幸せから目を逸らさずに生きていく。彼女以上に大切なものなどない。神官たちの溜息も娘の呆れ声も、彼女の笑顔よりも優先すべきものではない。
それが覚悟の足りない者と呼ばれた俺の選んだ道だから。