32
三人の説明を聞くまでも無かった。
何が起こったのか、闇の青年の一言で理解した。
蒼い衣を身に纏ったまま、口の重い三人の友と対峙する。
「聞くことは一つだけだ。着いて来るか否か」
しんと静まり返った部屋の中、三人は言葉を選んでいるようで口を噤んだまま答えない。
長い沈黙に先に痺れを切らせたのは俺のほうだった。
「なら留守番してろ」
三人を避けるように扉に向かうと、ぐいっと腕を引っ張られる。
逆に引き返し、腕を掴んだままのルデアと視線を合わせる。
「どちらに」
「らしくない。愚問だな」
ばっと腕を振り払い、三人に背を向ける。
「着いてくる必要は無い。これは俺の招いた事だ。その結果をこの目で全てを確認したいだけだ」
置き土産の言葉を残して部屋の扉を開ける。
下手に巻き込みたくなかった。ギーもルデアもライも。
おおよその予測はついている。スージに何が起こったのかという事くらい。
残酷だと評され、気に入らない発言をしたものに拷問を加える兄貴がしそうな事、ましてや地下牢。
何故露見したのかという事が気に掛かりもするが、闇の中に兄貴の内通者が混ざっていたとしても不思議は無い。
そういうところばかり頭が働くし、無駄に決断も早い。その手際のよさが憎憎しいくらいだ。
いつだって俺は、兄貴や兄上の後手後手に回る羽目になる。そして決断力が無いと揶揄される。
いつものことだ。そう、いつもの事なんだ。だけれど、これは許しがたいんだ。
王宮の中の最も立派な部屋。
謁見の間と呼ばれる豪奢な部屋の中に足を踏み入れると、兄の前にジルレイ公爵が膝を付いている。
満足そうな厭らしい笑みを浮かべる兄貴が汚物のように見える。
何故ならば、兄貴は自分の親ほどの年齢のジルレイ公爵の頭を踏みつけているからだ。
「お取り込み中失礼致します」
行動を制するように寄ってきた兵や臣たちを振り払い、赤い絨毯の上を兄貴に向かって一直線に歩み進める。
公平さを表す「王の白」を纏っているはずなのに、確かにその衣は白いはずなのに、薄汚れた衣に見えるのは気のせいではない。
ニヤニヤとした笑いを強張らせ、ぴくぴくと顔の表面を動かしつつ、徐々にその瞳が俺を貫いていく。
青の衣を纏っているせいではないと思うが、その醜い苛立ちを含んだ瞳で射られても、何の感情も浮かんでは来ない。
いや、正確には嫌悪感だけが広がっていく。
「ジルレイ公爵もいらっしゃるのならば都合が良い。陛下、我が臣下であるジルレイ公爵家長男がここ最近出仕致しておりませんので、非常に困惑しております」
公爵を踏みつけるのを止め、兄貴はふんっと鼻を鳴らして俺を威嚇する。威圧しようとしているのだろうが、全く畏怖の念が浮かんでこない。
真っ直ぐに兄貴だけを見つめていると、視界の端でジルレイ公爵が立ち上がるのが映る。
視線を膝を払う事も頭髪を直す事もしようとはしないジルレイ公爵へと向け、にっこりと笑みを浮かべる。
「いつもご子息には大変お世話になっております。ご子息が出仕しなくては私の業務に滞りが生じますので、出仕するよう公爵からもお伝え頂けますでしょうか」
疲弊しきった表情の中に、驚きの色が広がっていく。予想だにしない言葉だったのだろう。
公爵だけではない。部屋中の者たちが息を呑むのがわかる。唯一人、兄貴を除いて。
「ふん。お前は何も知らぬのか」
嘲るような笑みを含んだ声に、視線を兄貴へと戻す。
何も知らない。確かに、俺に与えられた情報は闇の青年の短い言葉だけ。
だが、無駄に歩き回っている間に様々な想像をした。最も悲惨な結末まで。
見つめる先の兄貴の中には、王太子時代にも第一王子時代にも見られなかった残虐さを含んだ狂気が見える。下手に煽るのは危険だろう。
「はい、陛下。祭宮業務以外に関しましては情報に疎く、ジルレイ公爵家の子息が出仕しないのも、何か体調不良なりではないかと考えていたのですが。間違っておりましたでしょうか」
我ながら間抜けすぎる返答だと思う。だが兄貴には大変受けが良かったようだ。
はははははっという大きな笑い声を響き渡らせ、おかしくて堪らないといった様相で腹を抱えて笑い声を上げる。
俺への侮蔑を含んだ態度だろうと思うが、全く腹が立たない。寧ろ上手く網に掛かってくれたものだと、心の中で笑みを浮かべる。
そう。先王の第三王子で祭宮は無能でいい。
それでいいんだ。
優秀な部下たちに守り立てられているものの、覚悟の足りない、決断力の無い、浮世離れした世間知らずの三男坊。そう評されている事くらい、耳に入る。
それを額面どおりに取って貰えれば、周囲を巻き込むような展開にはならないだろう。
笑いすぎて涙が零れ、それを指で掬った後、兄貴は片方の口元を引き上げて凡そ王らしくない笑みを浮かべる。
悪人面だな。
冷静にそんなことを考える余裕がまだある。
「会いたいなら連れて来てやれ」
誰にでもなく声を掛けると、兵士たちがガシャガシャと音を立てながら数人謁見の間から姿を消す。入れ替わりに入り口傍の扉にはギーとルデアの姿が現れるが、全く気付かない素振りで兄貴に向き直る。
演技掛かった仕草に見えないように計算し、少しだけ首を捻って左手を顎へと当てて考える素振りをする。
うーんと唸り声を上げてみようかと思ったが、それはやり過ぎのような気がして押し止め、こちらをニヤニヤと見つめる兄貴に視線を向ける。
「……出仕は、していたのでしょうか」
「くくくっ。阿呆め」
はいはい。アホで結構ですよ。本当にこの悪人丸出しの王を担ぎ上げていいのか、重臣たちは。
意味がわからないといった表情を作って、居並ぶ宰相をはじめとする国の要を司るオッサンたちに目を向ける。下卑た笑みを浮かべる者もいるが、大方の者は暗い表情のまま立ち尽くしている。その中にはカイを持たない王族も含まれている。
「皆、知っていたのですか」
「何をだ」
笑いを噛み堪えた言い方が鼻につく。そんなにこの茶番が面白いのだろうか。
「いえ、出仕していた事をですが。わたしの知らない間に配置換えがあったのでしょうか」
自らの立場を軽んじるような発言が、兄貴はいたく気に入ったようだ。阿呆だ阿呆だと繰り返し、上機嫌に笑い声を上げる。
「ジリアンに言われたのではないのか? もう少し広く見聞を広げるようにと」
どこからその情報を聞いたのか。あれは兄上の私室でのことだ。どうやら兄貴も兄貴であちこちに「耳」を持っているようだ。
全くの無能であったら良かったのに、無駄に有能で嫌になる。
「将軍閣下がおっしゃっておられましたか? 恥ずかしい限りです。祭事と神殿の事で手一杯なせいもあり、見聞を広げるに至っておらず、お恥ずかしい限りです」
ぴくりと兄貴の眉が不快の色を示すかのように、片方だけ引き上がる。
嫌味を言ったつもりは無かったが、何か気に入らない事を言ってしまったようだ。
「のわりには、色々と情報収集に余念が無いようだが」
残虐なと評されるのはこういう部分かと、改めて認識させられる。
まるで狩をする動物が獲物に遭遇して舌なめずりをするかのような、罠にかけようと、隙あらば喰ってしまおうとするかのような瞳だ。
たとえ王弟だろうと、兄貴は容赦するつもりは無いらしい。
「祭宮の業務の主は予算の配分です。国内全ての村々に公平に行き渡るよう、各村の実態等を調べておりました。また国の方針と背く事の無いよう、陛下の政を参考にさせて頂くべく、王宮内の情報を収集しておりました」
二心は無いと示すかのように、胸を張って対峙する。
そして、少しおどおどと不安を装った言葉を暫くの間の後に続ける。
「もしや、ご不興を買うようなことをしてしまいましたでしょうか」
不安げに瞳を揺らしたのが正解だったのかもしれない。兄の機嫌は一瞬にして戻ったようだ。
「たまにはジリアンではなく、余を頼りにしたらいい。お前のわからない事は何でも答えてやるぞ」
「……ありがたきお言葉。ありがとうございます」
ゆっくりと頭を垂れると、頭の上に更に言葉が降ってくる。
「お前とは年が離れているせいもあって、懐いてこないのが可愛くないと思っていたが、兄を国王として敬う気持ち、余は嬉しく思う」
ばーか。何が「余」だ。形だけ国王ぶって見せてたところで、俺はあんたに懐いたりもしないし、敬ったりもしない。
これから起こるであろう出来事いかんによっては、却って反感だけが生まれるかもしれない。
心の中で舌を出しているのがわかりそうなものだが、何故気付かないのだろう。それが逆に気持ち悪くて仕方が無い。
それは不確かな揺らぎだったが、徐々に警告を発するかのように俺の中に広がっていく。
「余も祭宮の助けになるよう、そちの周囲の者を厳選し、優れた者を配するよう手配いたす」
ふーん、なるほどね。
その言葉で確信に変わった。
兄貴は俺を信じていたりしない。そしてこの茶番にも裏があると感じている。そして今、俺の出方を探ろうとしているのだろう。
「全ては陛下の御心のままに」
頭を垂れると、予想に反して鼻を鳴らす音が耳に届く。
模範解答は不本意だったようだ。
いっそただの馬鹿だったらもっとやりやすいのに。兄貴が無駄に有能で心の機微を読むのに優れているのは、才能の無駄遣いではないだろうか。
いや、今は上手く機能していなくとも、その才を生かせば優れた王になる可能性があると父上は考えたのかもしれない。
俺には無い決断力や、王として必要不可欠な疑り深さも持ち、そして言葉巧みに相手の心中を読み取ろうとする。
ほんの一瞬、俺は兄貴に「王」が託されたのならばという考えが頭を過ぎる。
が、それは本当に僅か過ぎる時間だった。
音を立てて目の前に崩れ落ちた人物に、俺は自分の目を疑った。
貴公子然とした優男の顔には刀傷のようなものが、腕など見えるところに焼印のような火傷の痕が見える。
身につけている物は、元は貴族として、公爵の長男として相応しいものだったのだろう。僅かに見える装飾が本来の姿を窺わせる。が、全体は血の色や土気色の何かがまだらにつき、とても高貴な者が身につけるものには見えない。
擦り切れ、破れ、汚れ、それはボロのように見える。
そのような物を身に纏ったスージの瞳は鈍い色のまま、どこか宙を見つめている。
息を呑んだのは俺だけではなく、中には意識を失うかのように倒れ崩れた者もいる。
はっとしてジルレイ公爵を見つめると、その表情は苦悩に満ち溢れており、両の瞳からは涙が止め処なく零れ落ちている。
軽口を叩く幼馴染で部下は、あまりにも変わり果てた姿で俺の前に引きずり出された。
玉座を降り何をするのかと思うと、兄貴はスージの髪を捻りあげるように力一杯握って顔を上げさせ、生気を失った顔ににたりと笑みを浮かべる。
かと思うと、投げ捨てるかのようにスージの髪を離し、寝転んだまま動かないスージの腹を力一杯蹴り上げる。
耳を塞ぎたくなるような音がしたかと思うと、スージの口からは血が吐き出される。
その光景を声も無く見つめていると、兄貴は俺に向かって笑みを浮かべる。
「探し物は、これか」
物なんかじゃない。反感が湧き上がってきて口を開こうとしたが、ゆっくりとスージの手が俺と兄貴の間に差し出される。殆ど意識なんてないだろうな緩慢な動きに、まるで守るかのように掌を兄貴のほうに向けるスージに、咄嗟にしゃがみ込んでその手を握り締める。
「わたしの部下が何か粗相を致しましたでしょうか。この者は祭事の会計業務を携わっておりましたが、何かお気に召しませぬような事を致しましたか」
声が震える。怯えてではない。怒りでだ。
怒りで打ち震えるというのはこういう事なのかと身をもって知る。全身がガタガタと震え、歯の根が上手く合わさらずに音を立てる。
それが恐怖心だというように兄貴には見えたのかもしれない。
口の両端をにんまりと上げて満足そうな笑みを浮かべ、見下すかのように俺を見る。
「お前には関係の無い事だ」
そう言いながらも、瞳の色は決して心からの笑みを伝えては来ない。寧ろ推し量るかのように見つめている。
恐らく発端は『闇』が関わる姫の一件だろう。
どのようにスージが伝えたかは知らないが、姫に毒を盛った黒幕がスージだと俺に露見した事は伝え聞いているだろう。それでもなお、俺には関係ないことだと言い放つか。
「わかりました。しかし、この者は祭宮には必要な者。お返し頂いて宜しいでしょうか」
「ふんっ。もう使い物にならぬと思うがな。そのようなボロ雑巾でよければくれてやる」
怒りを面に出すな。少しでも、僅かな気配でも見せたら負けだ。
スージに視線を向けると、瞳がゆっくりと閉じられる。その手を離し、立ち上がって国王である兄貴に深く頭を垂れる。
「慈悲深いお言葉、ありがとうございます」
普段よりも時間をかけて直立不動の体勢に戻ると、兄貴と視線がぶつかり合う。なるべく表情を読ませないようにと考えなくとも、体の震えは誤魔化しきれない。
「肝の小さい男だな」
俺に向けられたその言葉は、この怒りを怯えと捕らえているからこそ出るものだろう。
会釈するかのように申し訳程度に頭を下げ、再び膝を折ってスージへと手を伸ばす。
「なりません」
鋭い言葉はスージの実父であるジルレイ公爵のものだ。
「殿下は祭宮であらせられまする。血の穢れに触れてはなりませぬ」
俺の代わりにジルレイ公爵がスージを抱きかかえるように起こし、その腕を自らの肩にもたれ掛けさせる。痛そうに顔を歪めるスージだが、一切の不満を漏らさずされるがままになっている。
ジルレイ公爵を助けようという者は誰もおらず、広い謁見の間は静まり返ったままだ。
触れるなと言われれば、俺には出来る事が何一つない。
「御前、失礼致します」
兄貴に最敬礼をし、ジルレイ公爵と肩を並べるようにして、いつもよりも長く感じる毛足の長い赤い絨毯を踏みしめ、青褪めて言葉も出ないギーとルデアの脇を通り過ぎて謁見の間の重厚な扉の外へと出る。
背後でバタンという音が聞こえたのを確認して振り返ると、ギーとルデアが駆け寄ってきて、ギーがジルレイ公爵の反対側からスージの体を支える。
「君たちは関わらない方がいい」
ギーを拒絶するジルレイ公爵の言葉に、ギーは首を横に振る。
「大事な友であり同僚でもある男を放っておく事は出来ません」
静かに意思を述べるギーに、ジルレイ公爵は一度は姿を潜ませた大粒の涙をぽたぽたと零していく。
「それでも、当家の事に君たちを巻き込むわけにはいかないんだ。わかってくれ」
悲痛な叫びのような言葉だったが、ギーは揺るがない。
無視を決め込んで、一歩前へと足を踏み出す。
「やり方を間違えたのはこちらの不手際です。大切なご子息をこのような目に合わせてしまい、申し訳ございませんでした」
ルデアがジルレイ公爵に向かって直角に頭を下げる。
「リーエル伯、あなたが頭を下げる必要はありませんよ。私が間違えたのです」
「それでも」
顔を上げて反論しようとするルデアを視線だけで制し、ギーには笑みを浮かべる。
「ありがとう。君たちの気持ちは嬉しかった」
その言葉だけを残し、ジルレイ公爵は長い回廊を息子であるスージと二人で歩いていってしまう。
それをただ、何も言えずに見つめるしか出来ずに立ち尽くしていた。
「全部、知っていたのか」
身を清め、着替えを済ませた後、私室にギーとルデアを招く。
二人も同じように着替えまで済ませてから現れたので、その頃には夜はとっぷりと更けていた。
人払いをした部屋の中。天井裏の住人を除けば、他には誰もいない。
本来なら伯爵の身分であるルデアがこの部屋に立ち入る事は難しいが、今日中に必要な印があるという事で許可を捻じ込んできた。本当は印など必要の無い書類の束は、無造作に置かれたままになっている。
暗い表情の二人に声を掛けると、先に顔を上げたのはルデアだった。
「はい。スージとの連絡が取れなくなったのを不審に思い、殿下からのご用命を頂く前に調べておりました」
「そうか。……何故、と聞くまでも無いな」
溜息とも深呼吸ともつかない深い息を吐き出し、ルデアが首を縦に振る。
「はい。将軍閣下も同じ考えをお持ちでいらっしゃったとは思いもしませんでしたが」
ふんっと鼻を鳴らし、自嘲的な笑みを浮かべる。
「兄上もお前たちも俺に対して過保護すぎるんだよ。俺はそんなに子供じゃないし、兄貴が言うほど阿呆でもないよ」
それだけ信用に足りないという事なのかもしれない。まだあの兄貴と対峙するのは危険だと思われているのだろう。
俺を守る為に、スージを犠牲にする事を躊躇わないのが腹立たしい。そこまでして守られるだけの価値が、果たして俺にあるか?
自分に対する苛立ちと、周囲に対する苛立ち、そして兄貴への決して消えぬ憤り。
その全てが俺が未熟だと責めているかのようだ。
「ジルレイ公爵家に王立医学院の者を向かわせろ。経費は惜しまない」
丸テーブルから立ち上がり、二人に背中を向けて寝室に向かう。
これ以上話すことは何も無い。
どうせスージには、ジルレイ公爵家には関わるなと言われるだけだ。だが、俺はスージを見捨ててはおけない。幾ら話し合いをもっても平行線なままだ。
「殿下」
静かに糾弾するかのような声音でギーが呼びかけてくる。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
「うるさい、黙れ!」
その後に続く言葉は理性で辛うじて止める事が出来た。
肩で息をしなくてはならないほどの湧き上がる憤りを二人にぶつけても何も解決しない。
「放っておいてくれ」
バタンと必要以上に音を立て、すべてを拒むかのように寝室の扉を閉じた。