26
王宮は、いや国中が戴冠式でお祭りムードだ。
戴冠式用にと誂えた真新しい正装に袖を通し、着丈や袖丈の最終調整を仕立て屋たちが行っている。
冷めた瞳で外を眺めていると、どこかで花火を上げているのが見える。恐らく戴冠式で上げる花火の練習か何かだろう。
パンパンという乾いた音がしたかと思うと、雲ひとつない青空に白い火花が散っていく。
戴冠式か世継ぎである「カイ」が誕生した時くらいにしか上げられない花火だ。大衆は皆、楽しみにしているだろう。
部屋の中の女官や官吏も顔を上げて、窓の外を見つめる。仕立て屋たちの手も止まる。
どこか皆、浮ついた表情で空を見上げる。
それなのに、俺の心は一向に晴れ渡らない。
この春の澄んだ空のように、雲ひとつない晴れ晴れとしたものになればいいのに。
相変わらず神殿の状況は変わらない。
神官長は薬に頼りきったまま、巫女と神官長は疎遠のまま。神官たちの間の亀裂も深いようだ。
俺の知らぬところで何やら事件があったようで、以前よりも派閥間の対立が激しくなっていると報告を受けている。
何を馬鹿馬鹿しい事をやっているのだか、あの二人は。
婚約者である神官長と、村娘である巫女。立場だとか生育環境だとか、それ以前に性格的なところで合わないのかもしれないが、何とかならないのか本当に。
二人の関係が改善されれば、神官長の薬の量も減ってくるのではないだろうか。
そもそも神官長が少し大人になって巫女を引き立ててやれば、神官たちだって巫女を侮るような事もないだろうに。全く。
それが間接的に薬を減らすような結果になるという事に気付いてくれればいいのだが。
どういう薬をどのようなルートで神殿が手に入れて神官長に処方しているのか、それをギーとルデアの二人にそれとなく探らせている。
未だ軍に席を置くギーは軍医などにも顔が利くから、薬の入手ルートをあたることが出来る。
ルデアはその知識をもってすれば、その薬がどの辺りで生産されているものであるのか。合法なのか非合法であるのか、場合によっては裏に誰がいるのかさえ掴んでくるだろう。
友であり優秀な部下でもある二人に任せておけば、薬の問題については解明される日も近いだろう。
王宮内は戴冠式を迎えるにあたって、表面上の対立は収まっているようだ。
もうどうにもならないということが大臣や官吏たちにもわかってきたのだろう。
王の裁決は臣下の者があれこれ言おうとも、一度決まった事は揺るがない。今まで何をバタバタとしていたのだろうと思うくらい、戴冠式に向け、王宮は一枚岩になっている。
二つの問題は、一見すると片付いたように思える。憂えることは何も無い。
それなのにどうしてだろう。俺だけはお祭り気分とは程遠い。
言葉に出来ない不安感のような不快感。
頭の中に響きわたるのは「そこで運命にあうでしょう」というご神託。
一体何を求められているのだ。運命とは何なんだ。
俺の運命とやらが巫女であるササならば、戴冠式と繋がるものなど何もない。
神殿とは自主独立を基とした宗教組織。王権などとは対極にある場所。その中において最も聖なる存在である巫女。
繋がる糸はどこにも見えないのに、運命とやらが俺に何かを求めている。
漠然と感じるこの感覚が正しいのかどうかはわからないが、何かが起こるのであろうと感じている。
突然全ての権力闘争がなりを顰めたのがおかしい。
この静けさは、何かの始まりのようにしか思えない。
「青き衣。よく似合っておる」
戴冠式の日、今日をもって引退する父王に声を掛けられる。
「ありがとうございます、陛下」
静かに頭を下げる俺のことを、目を細めて見つめる顔は王のそれではなく、父のものだ。
式典を前に、直系のみが入ることを許された控え室の中、兄上は軍の大将軍に相応しいだけの勲章を付けた軍服に身を包んでいる。
父もまた沢山の勲章を身に付け、普段はあまり被ることもない王冠を頭に乗せて王の正装に身を包んでいる。
その中で俺だけがやけに軽装だ。
青い衣、青い石。それが俺を飾る全て。華美な装飾は一切無く、巫女の正装にどことなく似た雰囲気を持つ古い民族衣装を基にしたゆったりとした衣。
血の穢れを拒む聖なる存在である水竜に仕える者の代表である俺は、一切の刃物は手に持たない。故に飾りとして帯剣する事も無い。
また故事においては「青」は死者や別世界を表す色として忌避されてきた。現代においても、「青」は好まれて使う色ではない。
王太子で次期国王である兄貴が、大地の恵みを表す「緑」を。
全軍の指揮権を持つ兄上が、血の色を表す「赤」を。
王である父は、清廉潔白さと公平さを表す「白」を身に纏っている。
それに対して俺は、縹と呼ばれる忌むべき存在を表す「青」だ。
今更それに対して深く考えたりもしないが、こう並ぶとなかなか嫌な気分にもなる。
疎まれていたわけでは無いだろうし、迷信深い年寄り以外は「青」をむやみやたらに忌避したりはしていないが、無駄に増えた知識が俺の立ち位置を再確認させてくれる。
「青色の衣って、綺麗ですよね。空や川や、見たことはないですけれど海の色をしていて」
そうササは笑っていた。あれは確か巫女になってからだったと思う。
神殿の中は青だらけ。その中でも一際鮮やかな「蒼」を身につけることを許された彼女には、青は誇らしい色でもあるのかもしれない。
抜けるような青空を表す俺の青と、こんこんと沸き出でる泉の深さを表す彼女の青。
似ているようで似ていない二色の衣を比べて、そんな風に笑っていた。
記憶の中の笑顔が言う。青でいいのだと。
今はもう求めていない、他色の衣。それなのに、どうしてこんなにも心が曇るんだ。父の褒め言葉も素直に受け取れないほどに。
「祭宮」
静かな兄上の呼びかけに応えるように首の向きを変える。
同じように「緑」から遠ざけられたというのに、一際目を引く「赤」を身につけた兄は穏やかに笑っている。
「緊張しているのか」
「いいえ。……いや、もしかしたらしているかもしれません」
苦笑を浮かべると、兄上がくすりと笑いを漏らす。
兄上は兄の顔をして笑う。将軍の風格は漂わせているものの、どこまでも弟に甘い兄の顔だ。そんな兄上を父王は目を細めて見つめている。
「お前でも緊張する事なんかあるんだね。豪胆な、いや違うな。怖いもの知らずの三男坊の癖に」
「そんな事はありませんよ。人並みに緊張したりもしますし、そこまで考えなしではありません」
兄の言葉に、ははっと声を出して笑ったのは父王だ。
「一番とんでもない事をしでかすのは、いつだってウィズラールだったな。ジリアンがウィズラールを甘やかすから」
「甘やかされてませんよ。兄上は俺にはものすごく厳しいですよ」
にこにこと笑ったまま、ポンっと父王が俺の肩を叩くが、それ以上は何も言わなかった。ただただ微笑んでいるだけで。
兄上もまた一度肩を竦めた後は、口を閉ざしてしまった。
二人とも何かを心の中に抱えているはずなのに、子供の頃にはもっと二人の心が近かったはずなのに、今の俺には何も見えない。
見えないんじゃなくて、見ようとしていないんだよ。きっと兄上ならそう言うのだろう。
けれど、衣の色が一人一人変わっていくたび、父上も兄上も兄貴も、どんどん遠ざかっていったような気がするんだ。
戴冠式が始まる合図である大砲が打ち鳴らされる時まで、二人ともそれぞれ物思いに耽っていて部屋の中を沈黙が支配していた。
式が始まるというので控え室を出る為に腰を上げると、父王が俺たちを振り返る。
「ティティズに力を貸してやってくれ」
面と向かって言われたことがなかった言葉に息を呑む俺とは対照的に、兄上は軍隊式の臣下の礼を取る。
「畏まりました、陛下。我が忠誠は永遠に陛下のものでございます」
どこか芝居かかった兄上を父王は鼻で笑い、衣を翻して部屋の外に出る。
王の姿は何度も見ていたのに、何故かこの瞬間の父の背中が、最も王らしく見えたように思う。
王としての責務を終える最後の瞬間こそが、最も王らしいというのもおかしな話だが。
残された兄と俺は、肩を並べて回廊を進んでいく。
赤と青。
対照的な二色の衣。
軽快で動きやすく作られた赤い軍人の衣。ゆったりとしていて幾重にも衣を重ねて床すれすれに、今にも引きずりそうなほどの機能性は全く考えられていない祭宮の衣。
肩を並べて歩いているのに、全く違う世界に生きているかのようだ。
初めてこの衣を手にした時の絶望感。
世界から見放されたかのような、拒絶されているかのような、孤独と怒り。あれは一体どこへ消えたのだろう。どうやって昇華したのだろう。
兄上のようでありたかった。兄上のような軍人になりたかった。
赤い衣が、幼かった頃の夢を思い出させる。
兄の背中だけを追い続けていた俺だから、緑色の衣にも白き衣にも手が届かなかったのだろうか。
俺に相応しいのは真に相応しいのは青なのだろうか。
いや、そうじゃないな。
あの深い青と並んでも恥ずかしくないよう、俺は俺で前に進んでいかなくてはならない。政治にも軍事にも口を挟まない。祭事を執り行いながらも王家の最後の切り札になれるように。
青空の中、緑の衣が風に揺れる。王冠が光を反射して輝いている。民は大河の向こう岸で歓迎の歓声を上げ続けている。
王になり誇らしげに手を振る兄貴の横顔を見つめ、兄貴を挟んで反対側に立つ兄上に視線を移す。
兄上は軍人として、王家の者として胸を張って民に微笑みかけている。
慈愛に満ちた表情に見えるそれが、兄貴には気に入らなかったようだ。それを知るのはもう少し先のことになる。
新しい御世はどのようなものになるのか。
期待に胸を膨らませていたのは、民だけではなく官僚や大臣たちも同じなのだろう。
浮ついた空気がそこかしこから流れてくる。
今だけなのかもしれないが、仲の悪いことで有名な法務財務外務の三大臣ですら笑い合っている。
新しい御世は動き出したんだ。
俺を含む王宮で活動をする全ての人間の心中など置き去りにして。
遠く、川向こうを眺める。それから川の上流へと目を向ける。
そしてこの国のもう一人、いやもう一匹の支配者に思いを馳せる。
お前には見えているのか。この国の未来。この国の運命。そして、俺の運命。
ふわりと風が衣を揺らしていく。
夜の闇が迫りつつある真っ赤な空には白い光が大輪の花を咲かせる。
支配者の顔をして何一つ持たない俺が、王である兄貴と将軍である兄上と肩を並べて群集に手を振ったり笑みを振りまいたりしている。
これでいいのだろうか。これが俺の運命なのだろうか。
何も持たず、何もせず、さも権力者のような顔をして兄たちと肩を並べて鎮座していることが。
きっとギーやルデアに心中を吐露すれば「仕事はたっぷりありますよ」と嫌味の一つも言われる事だろう。
兄貴にとって一番輝かしいこの瞬間、俺は俺の立ち位置について考えざるを得なかった。
俺には何が求められているのだ。
国にも、民にも、水竜にも。
俺を動かす運命ってヤツは、一体何なんだ。このままここで燻っていればいいのだろうか。
目の前の熱狂的な群集とは違い、俺の心は冷める一方だった。
わからない。何も見えない。何を求められているのかわからない。
けれど民は新王とそれを取り巻く環境に歓迎を表している。
やれる限りの頃をやるしかないのだろうけれど、それが皆目見当がつかないというのはいかがなものか。
俺って結構無能だな。うん。
溜息を押し殺し笑顔を貼り付けたまま、民への新王顔見世を終えて王宮に入る。
この後晩餐会があるのだが、この格好ではどうにも動きにくい。これでダンスを一曲など到底無理だ。
だが全員が正装で列席するのだから、俺だけが軽装で出席するというわけにもいくまい。
まあこれでお嬢様方の「踊ってくださいませんか」攻撃をかわす理由が出来たと思えばいいか。
そんな事を暢気に考えつつ、護衛担当でありつつ名家の子息であるギーと肩を並べて回廊を進んでいく。
これといった会話もせず黙々と前を歩くギーの背を見つつ歩き続けると、ふいにギーが足を止める。
「どうした」
感情を排した声で問いかけると、ギーが眉間に皺を寄せつつ振り返り、たった今通り過ぎた曲がり角を指差す。
無言の主張に細い角のほうに目を向けると、呼び止められた風なスージがルデアと立ち話をしている。
ルデアは生家が若干格が下がるので、ルデアの父以外は正式な招待状は届いておらず、今日の戴冠式には出席していない。晩餐会も正餐の形式で行われるので、更に列席者は絞られている。そこにルデアの席はない。今日は一日休みを取っているはずだ。
それなのに何故ここに。
祭宮の政務用の塔からも離れているし、あの先にあるのは議会の会議場か? そのようなところに今日何故ルデアが行く必要がある。
腕組みをして、ルデアとスージからは見えないように壁に寄りかかり考え込んでいると、ギーがゆっくりと首を横に振る。
とんとんとんと手にした懐中時計を指差すので、時間があまり無い事が伝わってくる。
今考えても仕方ないな。
ふうっと一つ息を吐いて、再び玉座の据えられた王の間と呼ばれる部屋を目指す。
正式な行事や外国からの使者を招く時などにしか使われない部屋で、通路を挟んで向かいには社交場も兼ねた広い部屋がある。
長く気の張る時間が待っているので、ここでルデアのことに頭を使う余裕は無い。
もしかしたら薬関係で何かを掴んだのかもしれないな。それとも、兄貴が神殿内に手を伸ばしているような気配があり、スージに確認でもあったのか。
ルデアもスージもかなりの情報通だ。何か互いの情報を確認しなくてはならないような事が発生したのかもしれない。だとすれば、後日報告が上がってくるだろう。
そのように結論付け、王の間へと進んでいく。青の衣を翻しながら。
「祭宮様」
談笑していた集団から声を掛けられる。
誰かと思ったらライだった。周囲にはライと同じ法務大臣一派の連中がニコニコと笑っている。
法務大臣一派は表立っては誰を支援するとは表明していなかったが、兄上に対しての支援はかなりしていると聞く。
「本日はおめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
王になった兄貴への賛辞を弟として受け止める。
ライはまだ春だというのに暑そうに汗を拭きながらニコニコと笑みを浮かべる。
「今日の良き日が新王陛下の御世において長く続くと良いですね」
「そうだな。そうなる事を祈っているよ」
再び揉め事など王宮内で起こされても面倒だ。新王の御世になったばかりなのに王宮内で分裂したりされては、治世にも影響が出る。
それは王族に名を連ねる者として、あまり好ましくない事だと認識している。
子供ではないので兄貴がいけ好かない野郎だとしても、それを表立って表明したり王政の足手まといになるような事をするつもりはない。
王になったのならば、民にとって国にとって最もよい政治を行うべきであると思うし、それを臣下の者としては手助けするのが当たり前の事だ。
しかし俺が余計な口出しをすることでも無い。
兄を守り立てて欲しいなどということは俺が言うべき言葉ではなく、それは先王である父のみが言える言葉だ。
「皆は晩餐には出席しないのか」
「いえ、我々も出席致します。本日の素晴らしい戴冠式について雑談を交わしておりました。遅くなるといけませんので、どうぞお先に」
全員倣ったかのように頭を下げるので、その横を擦り抜けていく。
ライの横を通り抜ける時「気をつけろ」と囁くような声が耳に届く。
どういう意味があるのか聞くこともなく、何事も無かったかのように通り抜ける。
ライの言葉は、恐らくその場にいた連中には何の事かわかっているだろうし、俺に対して言った言葉も聞こえているだろう。
法務大臣一派が、どうして俺に警告を?
晴れの日だというのに、水面下では何かが動き出しているようで、暢気に酒を飲んではいられなそうだ。
「ギー」
前を歩くギーに声を掛けるが振り返らない。
「今晩残業」
「畏まりました」
歩いたまま言葉を交わす。
次第に聞こえてくる宴を待つ人々の声。浮ついたその声だけが、今日がめでたい日なのだと俺に教えてくれているようだ。