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姫が上機嫌にクスクスと笑い声を上げていると、トントンと扉が叩かれる音が響く。
ドキっと胸が跳ねる。
それが誰なのか、問わずとも、姿が見えずともわかっている。
意図せずほころんでしまった頬をそのままに、扉の向こう側から現れた彼女に微笑み掛ける。
仕事に来てるんだから、もうちょっとしゃんとしなきゃな。
咳払いをして、でも笑みは貼り付けたまま巫女である彼女に挨拶をしていると、すっと神官長が立ち上がる。
先ほどの件について調べてくるつもりのようだ。
そんなに短時間で調べつくせるものでもないだろうに。どうしたのだろう。もしかしたら体力的にこういった席に長居するのがきついのかもしれない。
自らの不調については巫女には知らせるつもりもないだろうから、ここでその件に関して触れるのも適切ではないな。
あまり引き止めるのも得策ではなかろう。
神官長の言葉を額面どおりに受け取り、席を辞することを承諾した。
さて、目の前には巫女である彼女。
否が応でも頬が緩むのは避けようが無い。
季節の挨拶をすると、いつか王都に行ってみたいと言う。社交辞令で言っているだけかもしれないが、いつか連れて行けたらという思いが過ぎる。
「では、いつかお連れ致しましょう。王都へ」
その手を取って、春の花で飾り立てられ一年で一番美しい季節に王都を見せたいと思う。
その時一体どんな顔をするのだろう。そんな妄想が逞しくなるとはな、昔の俺なら考えられないな。
思わず苦笑が漏れるが、その事に彼女は気付いていないようだ。
「そうですね。機会があればぜひ」
そんな当たり障りのない答えが返ってくる。
まあ、そうだよな。社交辞令に社交辞令で返したって感じにしか受け取れないよな。
心の中にある淡い感情を表に出す事は禁じられている。
ここではただの祭宮で、彼女は巫女だ。
巫女の神聖を汚すような真似をするわけにはいかない。水竜に釘も刺されていることだし。
一瞬彼女の顔色が曇ったように見えたけれど、それは本当に一瞬のことだったようで、巫女付神官にお茶の入れなおしを頼み、また他を寄せ付けないような巫女の顔つきに戻る。
その心中はいかばかりなのか。
神官もいなくなり二人きりになった部屋の中、彼女の心の内を覗いてみたい欲求が湧き上がる。
多分、嫌われてはいない。寧ろ好意を持たれているのはなんとなくわかるんだけれど、夏にあった大祭の時にはよくわからないけれど怒らせてしまったし。
掴めそうで掴めない。彼女の心中。
「今日は神官長様にお願い事でいらっしゃったんですか」
二人きりの部屋の中でも、彼女の「巫女」は崩れない。なんかそれが悔しい。
くるくるめまぐるしく変わる表情が見たい。巫女じゃない素顔が見たい。
その為に「祭宮」を崩して、素の自分で彼女に対峙する。
「ええ、そうですね。お願いといえばお願いですね。気になる?」
目線が合う。
はっとしたような表情の彼女の目が泳ぎ、助けを求めるかのように奥殿の見える窓へと視線を動かす。
ちぇっ。俺よりも水竜かよ。
色々揺さぶりをかけてみるものの、彼女の巫女然とした態度は変わらない。
水竜がそうさせているような気がして、余計に腹立たしい。
「水竜の巫女ですから。祭宮様がどんな御用でいらっしゃったのか気になるのは当たり前です」
ふふんという形容が合うような表情で、指先まで神経を行き届かせた態度で答える彼女に苛立ちを隠せない。
「つまんねえの。模範解答をどーも」
まあね、期待したような答えなんて求めてないけどさ。
そこまで巫女巫女されているのも、もどかしい。いつまた神官が戻ってくるかもしれないのに、彼女の心の内には触れられないままで終わりなのだろうか。
少しの動揺も感じられない。
期待通りの反応が無い事に、もどかしさと落胆を覚え、溜息を吐き出す。
若干なりとも好意を持たれていると考えた俺が馬鹿だったか。
彼女にとって俺は「祭宮」でしかないんだろうか。好意を持たれているかもというのは、楽観的過ぎたのかもしれない。
「もうちょっと違う答えが欲しかったけどね。今日はご報告に来たんだよ。あと依頼ね」
ふうっと息を吐き出し、こちらも祭宮として対応するしかないか。
心持ち表情を引き締め、巫女である彼女に視線を向ける。
「王太子殿下が無事即位することになった」
「そうですか。おめでとうございます。今年は国中が祝賀で盛り上がりますね。子供の頃、現王陛下の即位の時、村中お祭り騒ぎでしたもの」
彼女の視線が奥殿のほうへと向けられるので、その視線を追いかけるように奥殿にいるであろう水竜へと意識を向ける。
水竜がこちらの意図を理解して、姫を王都に戻す事を了承してくれるだろうか。
これから彼女を通して水竜に言わなくてはならないことを思うと、気が重い。そう容易くは了承して貰えないだろうという事はわかっている。
祭事を司るものは、政治には関わらない。
それが祭宮である俺が最初に学んだ事でもある。
それ故に、玉座から遠ざけられただけではなく、王宮からも弾かれたような気がして拗ねていたわけだが。
今思えばそれは幼い考えでしかなかった。長兄ではないが、思慮が足りないと言われてもおかしくないような、表面上のことだけを見て結論を導き出していたのに過ぎない。
兄上に言われたように、一つ一つ丁寧に掘り下げていくと、色々な事柄が見えてくる。
この立場だからこそわかる事もある。
「先の大祭で水竜様が今年は穏やかな一年になるとおっしゃっていましたし、民にとってはよい年になりますね」
「そうだな。浮かれ騒いで、楽しい年になるんだろうな」
兄貴はどういう統治者になるのだろう。
しかし民にとっては即位の一年目はお祭りのようなものだろう。新しい王になって、様々な民を喜ばせる為の行事も行われる予定だ。まずは人気取りの為に。
父王の統治は決して長かったわけではない。
恐らく目の黒いうちに、自分の目の届くうちに次王に冠を譲って統治の補佐をするつもりなのだろう。
これといった実績もない王だったかもしれないが、それでも民に穏やかな時代を提供した王であったと思う。
「あまり祭宮様が浮かれている姿って、想像がつかないですね」
意識を彼女に戻し、少し砕けた話しかたをする彼女に合わせる。
「そう? そんなことはないと思うけどね。ササはどうなの」
「え?」
あ、ササって呼んでも怒らないのか。
また水竜がでしゃばってくるかと思ったけれど。
「いや、何か真面目を絵に描いたような感じだから、羽目はずしたりしなそうだなと思って」
「そんなことはないですよ。お酒を飲んで陽気になったりもしますよ」
どうでもいいような酒の飲み方談義が繰り広げられる間、彼女はほんの少し巫女の仮面を外しているように思える。
いや、巫女の仮面の隙間から本音が垣間見えているという感じだろうか。
楽しそうというよりも、真っ直ぐに言葉を受け取って、真っ直ぐに投げ返してくる。
そんなところにも彼女の生真面目さが窺い知れる。きっと不器用な人間なのだろう。今はこういう場面だからこういう話しかたをしたほうがいいと判断して切り替えることが不得意なように思える。
いつでも本音で、全力で。それでお前、辛くないのか?
羽目を外す事も出来なそうだし、誰かを頼りにすることも無いだろう。
巫女としての今だって、誰かに頼ったり甘えたりする事なんてしないだろう。恐らくは立派な巫女である事が彼女の命題であり、それから外れる事を彼女自身が許さないだろう。
「たださ、もうちょっと肩の力抜いてもいいと思うよ、俺は。抜くとこ抜かないと、しんどくなるぞ。俺でよかったらいつでも話くらい聞くからな」
俺を頼って欲しい。
その為に俺はここにいるんだ。その為の祭宮なんだ。祭宮だからってだけじゃなくて、ササの力になりたい。
伝えたかった思いをぶつけると、彼女が弾かれたように目を見開いて俺を見つめる。
次の瞬間、ふにゃっと表情が崩れる。巫女の表情があっという間に瓦解していき、目の前にいるのは森の中でどうしたらいいかわからないと泣いていたササになっている。
やっぱり強がってるだけなんだな。
「大丈夫です。ありがとうございます」
目から涙が零れ落ちそうな彼女を支えてやりたい。
伸ばしたい手をぐっと堪えて、彼女を見つめる。本当はその頬に手を伸ばして、思いっきり泣かせたい。強がっている肩を抱きしめて、全部弱音を吐き出させてしまいたい。
細い肩に乗せている重荷を、幾らかでも分けて軽くしてやれたらいいのに。
「あんまり私のペースを乱さないで下さい」
「そんなつもりは無いんだけどな」
可愛い恨み言に笑みが漏れる。上目遣いで涙目で、可愛くて溜まらない。
ほんの少し手を伸ばせば届く距離にいるのに、もどかしくって仕方が無い。
それでも、本人からしてみれば不本意だろうけれど心の内が垣間見れて嬉しい。いっつもそういう顔していたほうが可愛いのに。ああ、でもそれじゃ巫女じゃないのか。
「ササのそういう顔が見られたから、いーや」
「そういう顔って?」
「変顔」
誤魔化して言った言葉を額面どおりに取ったらしく、目の前で百面相が始まる。
深呼吸してみたかと思ったら咳払いをして、何度も何度も深呼吸して、絶対に俺と目を合わせないの。
赤くなったり青くなったり、本当のササは表情豊かだな。
「おい、冗談だから」
そう言った瞬間、鳩が豆鉄砲食らったみたいなきょとんとした顔に変わる。
え、何で? とでも言いたげな表情で、ぽかんと口を開けて。
「あははははは」
ダメだ、笑いが堪えきれない。
からかうつもりなんてまるで無かったけれど、想像以上に反応が良すぎて。
俺が笑っているのが気に入らないらしくて、今度はぷりぷりと怒り出す。
笑ったり怒ったり慌てたり泣きそうになったり。
彼女を見ていると、生きているんだなと実感する。閉塞感たっぷりの王宮とは違って、何もかも真っ直ぐで裏表なんか無い。こういう表情を作らなくてはいけないのだと意識しなくていい。
俺がずっと求めていたのは、そういう「自由」だったのかもしれない。彼女の持つ「自由」に惹かれて止まないのかな。
けれど、そんな楽しい時間はあっという間に終わる。
今回の来訪の目的を彼女に問われると、重たい現実に溜息を吐き出したくなる。
言わなくてはならない事実が彼女に面倒を掛ける事はわかっている。そしてそれを彼女の背後に控えている水竜が容易く受け入れることは無いという事も。
神託が必要かと聞く彼女に、神殿の人に戴冠式に出て欲しいとさらりとした事実を伝える。
その瞬間、彼女の表情に変化が現れる。ぴくりと肩が揺れ、先ほどまでのササの表情は一変し、巫女の表情に様変わりする。
こういう時の切り替えの早さは見事だな。
「そうおっしゃるという事は、そのような慣例は過去にはないということなんですね」
的確に事実を察した彼女に頷き返す。
「少なくとも、城の記録にはなかった。でも、もしかしたら城の記録にはなくても、神殿の記録には有る可能性も無い訳ではないだろう」
「それを神官長様に調べるように依頼されたんですね」
短い会話でそこまで導きだしたか。
意外にというか、思った以上に聡明な彼女に対し、どのように伝えたらいいのだろう。
下手なことを言えば、神官長である姫の体調不良や精神的な不安定さ、そしてそれに伴う薬の服用などを見破られてしまうかもしれない。
それだけは避けなくてはなるまい。
「俺は、というか王宮の人間は、神官長様に参加して欲しいんだ」
言葉を選んで慎重に、こちらの都合であるということを前面に打ち出して話しかける。
実現はかなり難しいであろうということは父王も俺もわかっている。それでも、出来る事ならば姫を王宮で静養させたい。
どのように言えば、巫女は、水竜は首を縦に振るだろうか。
「今まで随分長い間神殿を出ていないから、ご両親も心配しているし、俺もお体の事が心配だし、一度責務を離れて休養するのも良いだろうと思うんだ」
休養し、薬に頼らずに業務をこなす事が出来るようになるほうが、神殿の為にもなるだろう。
この会話を聞いているであろう水竜に、どうやったら伝わるのだろうか。
神官長が肉体的にも精神的にもギリギリの状態であるということが。
様々な言葉で神官長の体調不良を訴えるものの、巫女であるササの反応はいいとは言えない。
快諾とまではいかなくとも、目に見えている姫の変化を認識して貰えれば静養の必要性は伝わるだろうと思っていたのだが。
姫とササの仲が芳しくないせいもあるのかもしれないが、ササは表面上の姫の変化にさえ気付いていないようだ。
どうして気が付かないんだ。いくらあまり関係が良いもので無いとはいえ、神官長と巫女なのだから日々会話くらい交わすだろうに。
ササにみならず、本当に全神官が姫の体調のことに気が付いてはいないのではないだろうか。
巫女だった時から頻繁に体調を崩して寝込んでいたというのに。
姫は恐らく誰に問われても「大丈夫よ」とかわしてしまうだろうし、周囲も元から体の弱い方だという認識があるだろう。それにしたって、この冬の間にかなり痩せてしまっているではないか。
このようなことを対抗勢力の巫女である彼女に伝えても仕方がないのかもしれないが、巫女の言葉だからこそ重みを持って受け止められるのではないか。
もう少し姫にも心配りをするようにと。
「あとさ、水竜にもお願いできないか、神官長様のこと」
「は?」
上手く伝わらなかったか。改めて静養のことをわかりやすく切り出す。
「だからさ、戴冠式に神官長様が出席出来るように」
「何をおっしゃっているんですか」
「だから、もし前例がなくても神官長様に王都にお越し頂けるよう、お口添えして欲しいんだ」
瞬きをした後、ササの周囲の空気が変わる。
目線の先は奥殿。
水竜と会話をしているのだろう。
俺には全く水竜なんてものの声は聴こえないけれど、巫女を注視していれば、巫女が水竜の声を聴いているということがわかる。
不可思議な存在。けれど国の礎を作り、何百年もの間この国を支え続けている。
水竜、俺の声も聴こえているのだろう。お前を支える柱の一つである「水竜の神殿の神官長」が倒れる前に、ほんの少しの間でいいから、姫を助ける手伝いを俺にさせて欲しい。
決してその神聖を汚したりはしないから。