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姫の状態が気になり姫本人にも主治医にもそれとなく確認する文を送ったが、共に額面どおりの答えが返ってくるだけで、現状が把握できずに王都でもやもやとした気持ちを持て余している。
あんな薬とも毒ともいえないようなものを姫が使わざるを得ないというのは、一体どういうことなのか。
そもそも、それを使うことを本人が希望しているのか。
外の人間であり、物理的にも距離があるので、どうにも確かめようがない。
だからといって今神殿に赴く事は、王宮内の権力抗争が激化しているので、避けたほうが得策だろう。
ギーやルデアに言われたからというわけではなく、実際にかなり当たりが強くなってきているのを感じる。
俺のことを次々王として推してくれている者たちからは突き上げが強くなり、王太子に公式に指名された兄貴の一派からは兄貴の立場を揺るがす気ではないかと警戒の目で見られることが増えた。
例え、個人的に一人一人に「そのようなつもりはない」と言って回ったとしても、今の混乱が解決出来るとは思えない。
多かれ少なかれ、誰もが権力欲に捕らわれて動いている。
人の心の醜さというのを感じざるを得ないが、それこそが俗世の中にあって「伏魔殿」と呼ばれることさえある王宮の醜い側面の一つだろう。
そういうことを口にすると、ギーなどは鼻で笑って「すっかり他人事ですね」と呆れ顔を見せる。
誰にも、例えギーやルデアに対しても漏らす気はないが、第三王子として生まれ何一つ不自由する事も無く、望むものは全て手に入れる事が出来る生活をしているせいだと思うが、何かを強く切望することが無い。
これが欲しいとか、あれが欲しいとか。
それは例えば服ひとつ、食べ物一つとってもそうだし、王冠だってそうだ。
自分にとって欲しいものは何も無い。どうしてもそれが無くてはならないと思うような、心を強く揺すぶられるような魅力的なものは何一つ無い。
ある意味では欲に乏しい人間なのだろう。
実際過去にライにそのようなことを言われたことがある。
のんびりとして怒るとか大笑いするとか、とにかく烈しい感情を表す事の無いスージから見ても、俺はどこか歪んでいるようだ。
悔しいとか思わないのですか。
そう言ったのはルデアだった。
軍に所属していた時、兄上の大将軍に対して小将軍と揶揄されていると知った時、俺よりもずっとルデアやギーが立腹した。けれど、俺はそう言われても仕方ないなという程度にしか思わなかった。
兄上は素晴らしい人間だから、俺が兄と肩を並べていることさえおこがましい。
それを卑屈だと言ったのはギー。
悔しいと思うなら、そう口にすればよいのにとルデアも同調していた。
けれど事実は事実なのだから、それはそれで仕方ないだろうとしか思えない。剣の腕も、戦略も、兄上には一つとして叶わなかったのだから。
あんたって何を言われても、平気な顔してんだね。そう言ったのはスージ。
いつだっただろう。何かきっかけがあったのだと思うけれど、スージと口論した事があった。その時に言われたその言葉だけがやけに頭に残っている。
口先だけの愛の言葉はいりませんわ。
まだ姫が王宮にいた頃、そんな事を言われた事がある。
いいえ、心からの言葉ですよと答えたら、ふふっと笑うだけで姫は何も答えなかった。
王冠一つ、名声一つ、女一人、心から欲した事は無い。
今更それは変わらない。
王冠を欲しいと思っていたこともある。幼い頃、兄貴や兄上と比べられるのが嫌で、そういう奴等を黙らせる為の手段として王冠が欲しかった。
けれど王になって何がしたいからといった目的を持っていたわけではない。
漠然と一番が欲しかっただけで、いざそれを目の前に差し出されると、その責任の重みから逃げ出したい気持ちで一杯になる。
ずるいかもしれないという事はわかっている。
それでも中途半端な第三王子で祭宮という立場のぬるま湯な心地よさから、自主的に抜けるつもりは無い。
火種を自分から作ることも避けたい。
それでも、姫が心配だという気持ちが拭えない。
体と心のバランスを崩してしまっているのがわかっているのに、俺は今ここでその事実から目を背けたままでいいのか。本当に?
自問自答しても、答えが見出せない。
頭を抱えたままで目を閉じる。まぶたの裏に思い浮かぶのは「すいりゅうさま」と巫女を呼んだ姫の姿。
俺には決して向けられなかった好意、愛情。恋慕。
どうして化け物に恋心を抱けるんだ。それさえも理解できない。
俺は姫のことを何も知らなかった。本来はこの手で守らなくてはならない人なのに、そのような前向きな感情を自発的に抱いたことが無い。そもそも姫を理解しようとしてこなかった。
そんな俺に何が出来る。
怪しげな薬などに手を出すなと俺が言ったところで、姫が納得して聞くとも思えない。
そうだ。俺にとって姫が軽い存在だったのと同様に、姫にとっても俺はさして重要な相手ではなかったのだろう。
馬鹿だな、今更後悔して。
これが恋心でも何でもないということも、ギー流に言うならばウキウキしたりキュンとしたりする事を知った今ではわかっている。
恋でも愛でもなかったとしても、俺は姫を救いたい。今までの罪滅ぼしでしかないかもしれないけれど。
「行くことにする」
顔を上げてギーに声を掛けると、神妙な面持ちでギーが頷き返す。
「畏まりました。ではそのように手配致します」
夜も更けて照明により照らされている手元の中にある大量の書類には全て目を通してサインをした。これで数日留守にしても、業務が滞る事はないだろう。ルデアもいるし。
侍女も官吏も者たちも全て帰った後、部屋の中にはギーしか残っていない。ルデアも今日は先約があったということで定時で早々に帰宅している。
ふーっと溜息をついて背伸びをすると、クスっとギーの笑い声が部屋の中に響く。
「なんだよ」
「やっぱり疲れます? 頭脳労働」
「まあ、それなりにね」
軍に所属していた頃は筋肉痛に悩まされていたが、最近では肩こりに悩まされている。
どっちにしても肉体的な疲れには変わらないが、肩こりは頭痛を伴う事があるのが厄介だ。
「薬でも飲まれますか」
「いや。そういうのに頼るのは好きじゃないな。どちらかというと、たまには体を動かしたいな。おかしいものだな、軍にいた時は座ってする仕事がしたいと思っていたのにな」
そうですねと笑って、ギーが机の上の書類をまとめて整理し始める。
近衛に属し、筋肉隆々の体系を維持しているギーは、そのように思うことはないだろうな。
背もたれにもたれかかり、本来は文官の仕事である作業をこなすギーの様子を何の気なしに見つめている。
薬を飲まなければならないほど疲れているように見えたのだろうか。全然体を動かしていないから、貧弱になったのかもしれない。たまには剣の稽古でもしておくか。いや、そんな事をするとまた外野がうるさそうだな。
窓の外のキラキラと輝く照明に目を移し、その先にある水竜の神殿に思いを馳せる。
何故姫は薬なんか……。
「いや、待て」
思わず口をついて出た言葉に、ギーが降り返る。
「どうなさいましたか」
頭の中に浮かんだ一つの考えに、暗い予感が過ぎる。しかし、本当にそこまでするだろうか。
眉を寄せた俺の様子がおかしいと思ったのか、ギーが手を止めて歩み寄る。
はっとして息を呑むが、この考えをギーに言うべきか。もしもギーが……いや、それはないだろうが。
「あのさ」
「はい」
「誰が、あんなものを姫に勧めたんだ。本当に主治医なのか」
「……と、おっしゃいますのは」
「誰かが何らかの意図を持って、姫に一服盛ったという可能性は無いのか」
声を潜めて告げると、ギーの顔が一気に曇る。
「実際には盛られる手前で内偵のものが気付いて、姫は口にしていない。それに主治医も関与していないから問われても答えようが無いとうことは無いだろうか」
「そういう可能性が全く無いとは言えませんね」
「仮にそうだとしたら、どの勢力が神殿まで手を伸ばせると思う?」
「そういう類の事は、ルデアのほうが得意分野かと」
「だよな」
思い切り息を吐き出し、物思いに耽る。
父王、兄貴、兄上。恐らくそのどの勢力も神殿内に手を伸ばしていることは間違いない。俺がそれぞれの勢力に内偵を潜ませているのと同じように。
その中の誰が一体姫に薬を盛ったのか。
その考えに固執するべきではないとわかっているが、仮に外部勢力によってもたらされたものだとしたら、俺以外の誰かだ。
姫に薬を盛って、誰か得をするか? せいぜい俺の支持勢力が縮小するくらいだ。より濃いカイの血をという血統第一主義の連中が俺の支持をやめる程度だろう。それが誰の利益になる。
そもそも姫が誰かによって薬を盛られたという事実が露呈すれば、それはその勢力にとってはむしろ不利益になりかねない。そんなリスクを犯すか?
ではやはり、姫やその周囲がその薬を飲む事を望んだのか。
姫はそこまでして……いや、それもおかしい。
俺の知る限りでは、そのような手段を用いて幻覚を見たいと願う人ではない。
高貴で高潔であり孤高の人であるはずだ。
恋が姫を狂わせたか。はたまた陰謀か。
「答えは出ないな」
「百聞は一見にしかずというところでしょうか」
「かもな。でもまたルデアは怒りそうだ」
ふっとギーが鼻で笑う。
「そうでしょうね」
それでも、自分の目で見て確かめたい。真相が一体どうなのかを。
雪も降ることが減ってきた冬の終わり、僅かな供を連れて水竜の神殿を目指す。
姫には事前に赴く事は伝えているが、巫女には会うつもりは無い。
会いたい気持ちが無いわけではないけれど、正式に水竜からの要望があったわけでも、王家側として巫女に神託を求めに行くわけでもない。
これは祭宮としてではなく、いや祭宮だからこそなのだが、個人的に神官長である姫に会いに行くだけだ。
予想通りルデアはぶーぶー文句を言ったが、寄り道をせずに最短日数で戻ってくると約束すると、嫌々送り出してはくれた。
確かに今でも外野が煩いのだから、更に非難を浴びることは確実だし、ルデアには業務面で負担を掛ける。それは申し訳ないと思う。
が、今確かめなくては、もしもその薬に姫がどっぷり浸かった後では取り返しがつかない。
馬を走らせ、街道をひたすらに進み、水竜の神殿へと辿りつく。
その前に付くと、やはり身の引き締まる思いがする。ここが神域なのだと、肌に触れる空気が伝えてくる。
夏でもひやっと冷たくて張り詰めた空気が神殿を取り巻いている。冬の終わりの今、その空気は厳しく突き刺さるようだ。
招かれざる客って事か。
本当に俺も水竜に嫌われたもんだ。
一体何がそこまで機嫌を損ねたのか、さっぱりわからない。
やっぱり今の巫女であるササを巫女にする前に「触った」から気に入らないのか。しかし触るっていったって、別に手を出したわけでもあるまいし。巫女の純潔を汚すようなことはしていないぞ。
神様の考えることはさっぱりわからないな。
馬を下りて防寒着の雪を振り払って、いつものように神殿の入口に立つ。
無表情な神官が定型の挨拶文を述べて、ゆっくりと神殿への扉を開く。
ギーっという重厚な音を立てて開かれた扉の向こうには、頭を下げた老神官。先の神官長に仕え、現在は長老と呼ばれる神官の実力者。わざわざそのような神官が出迎えに来るとは珍しい。
「これは長老。この寒い時期にお待たせして申し訳ありません」
「いやいや。ワシが若いもんに譲ってくれとでしゃばったのじゃ。たまには体を動かさんと、体も頭も衰えるからのう」
軽口を言い、門兵を務める神官に軽く手を上げると、扉を開けた神官は扉の向こう側に姿を消す。
迷路のような回廊の入口、窓もなく薄暗い回廊には僅かな蝋燭の灯りだけが揺らめいている。
「今日はどうなさいましたかな」
ごくごく自然に切り出した好々爺は、その笑みの裏側に鋭い視線を隠し持っている。
「あまり神官長様のお加減が宜しくないと聞きまして、お顔を拝見できればとお伺い致しました」
「そうでしたか」
ほっほっほっと笑い声を響かせ、けれど一歩も動かないまま老神官はにやりと口元を横に引く。
「てっきりワシは別の理由でお越しになられたのかと穿っておりましたぞ」
「それゆえ、こちらまでお見えになられたのですか」
「さーて。そのようにお思いになられるのでしたら、そうなのでしょうなあ」
どちらとも取れるような肯定を口にし、老神官は狡猾な瞳を閉じる。
何か物思いに耽っているようにも見え、言葉を選んでいるかのようにも見える。
「もしもお二人をあなた様がお救いになられたいと願っておられるのならば、力をお貸し致しますぞ。それが我が主の願いでしたからのう」
「二人?」
主というのは聞くまでもなく、先の神官長のことを指し示しているのはわかる。しかし先の神官長が救いたいと願った二人とは。
「お嬢と姫。二人の仲がこじれるのではないかと、主は常に心配しておりました。そして姫は堕ちてしまわれた」
「堕ちた、のですか」
「残念じゃがの」
老神官が言うのは、あの薬のことに違いない。この神殿において権力を掌握している長老と呼ばれている神官が、神官長の異変に気付かないということは有り得ないだろう。
「いつからご存知で」
ふうっと老神官が溜息を吐き出す。その目は憂いに満ちている。
「ワシはあれはただの安定剤じゃと聞いていた。それがまさか毒にもなるようなものとは思ってもおらなんだ。気付いた医師の一人から報告があった。おかしいと」
「そうだったのですか」
「元々姫は体が弱く、様々な薬をお飲みになられておった。それ故に、薬の量の増減が多少あっても、誰も気にはしておらなかった」
確かに王宮にいた時から数種類の薬を飲んでいたので、それを継続していたのだろう。
少し気温が低くても体調を崩す姫が、巫女という大役を勤めるのは肉体的にも並々ならぬ努力が必要だった。だから薬を用いずにはやり遂げる事が出来なかったのだろう。
「巫女をお辞めになる前からは、かなりお心が乱れておいででな。その為に不安感を抑える為に薬を使うという報告は受けていたのじゃが、状態は薬の効果もあり安定しているように見えておった。が、どこかで歯車が狂ったようじゃな」
「……では、あの薬を常用されて」
問いかけに老神官は僅かに顔を上げ、目を伏せる。それが答えのようだ。口には出さなくとも、その絶望的な表情が全てを物語っている。
一番最悪の結果だ。
せめて常用していなければ、老神官も対処のしようがあったのかもしれない。しかし中毒性の高い薬であるが故に、姫はそれに手を出さずにはいられないのだろう。
「そうですか。その事を知っている神官は」
「ごく僅かな者だけじゃ。それが毒にもなるものだと気付いているのは医師数人だけじゃな。恐らくお付きの者もその薬の正体には気付いてはおらんじゃろう」
計らずも同時に溜息を吐く。
しかし笑えるような状態でもなく、共に言葉に詰まってしまう。
何とかして姫を薬から遠ざけたいが、容易には受け入れられないだろう。
「結果論でしかありませんが、やはり先の方にもう少し神官長を続けて頂いたほうが良かったですね」
「……今となってはのう」
深い絶望が老神官を支配しているように思えた。がっくりと落とした肩が、自分を責めているかのようにも見える。
「救いたいもう一人とは」
「お嬢じゃ。きっと今回の騒動に巻き込まれてしまうに違いないからのう。もしもこの騒動がお耳に入った時、ご自分を責めてしまうのが目に見えておる」
蒼い衣に身を包んだ巫女。それでいてどこか不安げな瞳が揺れている。その姿は、風に吹かれる花のように儚げでもある。
その細い肩を守りたい。彼女を不用意に傷つけたくない。その為にはこの老神官の手を借りなくてはならないだろう。
「巫女にはこの事は決して」
「そうじゃな。お嬢のみならず、全ての神官たちの耳に入れないつもりじゃ。今後も姫以外に神官長を勤められる方もおらんしのう」
もしも事が明るみになれば、神官長である姫を不適格な者とみなし、排斥しようという流れが起きないとも限らない。しかし、先の方を除いて神官長になれる資格を持つ者がいない。しかし先の方はご高齢で、神官長の任に再び就く事は体力的にも難しい。
姫自身が望んで薬を使っていないのであれば、ごくごく内密に事を進める事が、今後の姫のためにもなるだろう。
仮に神官長を辞する時が来たとしても、決して薬などという不名誉な事実で神殿を追い払われた為などという事になってはならない。王宮での姫の名誉を守る為にも。
そのようなことになれば、王宮でも姫を受け入れることは不可能になってしまう。
「姫ご自身が、薬と距離を置くようになっていただければ良いのですが」
「それが一番なんじゃがのう」
深い溜息が、それが不可能だと言っているようにも思えた。
実際に姫にお会いして話した時にも、その薬に対してなんら疑問点を抱いてはおらず、体調は芳しくないものの、神官長業務は滞りなく行っていると話していた。
王宮からの姫の主治医から事情を聞いても、今はその薬が姫の状態にはあっているようなので、これ以上量を増やさなければ中毒性もなく、副作用もなく使用出来ると判断しているとのことだった。
しかしそれは対処療法でしかなく、本当の意味で姫の状態を良い方向に導く為には、いずれその薬とも距離を置かなくてはならない。その為にどうしたらいいのか。
道は一つしかないように思える。
神殿と距離を置く。
それが、最良の判断ではないだろうか。