21
結局思い通りのご神託が降りなかった事を、父王はどのように思ったのだろう。
年明けに結果をお伝えして以来、お召しが無い。
それはそれで気になってはいるのだが、それ以上に今は厄介な問題を抱え込んでいる。
婚約者である姫を兄貴へ譲るかどうか。否を言う事は簡単だ。実際に正式な手続きを踏んで婚約をしているわけだし、兄貴の横槍が入ろうが簡単に破談になるような関係でもない。
従妹でもある姫は、叔父の一人娘で、生まれたその日から俺の婚約者と決まっていた。
両親共に王族である俺と、父の弟の娘である姫とはものすごく血が近い関係だが、昔からこのような婚姻は珍しくは無かったのでたいした問題ではない。
まあそれを言ってしまえば、兄貴と姫も従兄妹同士ということになるが。
より濃い「カイ」の血を継承していく為、王族内での婚姻は幾度となく繰り返されている。もっとも俺みたいに近親結婚の繰り返しみたいなのは珍しいかもしれないが。
カイの血の濃さと、巫女の血の濃さ。
その二つを併せ持つ事を王族は求められている。より多くの巫女を王族から輩出するために。
しかしその思惑はあまり上手くいっておらず、この五十年の間、二人の巫女しか王族からは輩出していない。それも二人とも子を為していない。
姫の場合は、まだ巫女の任期を終えたばかりで、尚且つ現在も神官長として神殿に留まっているので不可能ということになるが、先代の神官長だった方も、結局未婚を貫き通している。
既に老婆と呼ばれるに相応しい年齢に達し、今更誰も老巫女を娶ろうなどとは思ってはいないようだ。
王と竜。
二人(一人と一頭が正しいか)の最高権力者。
竜の代弁者たる巫女は、王と肩を並べるほどの影響力を持つ。
王族で巫女だった姫を兄貴が欲しがるのも、わからなくはない。
だが……。
「殿下はどうなさりたいのですか」
ルデアに問われた言葉が胸に突き刺さる。俺がどうしたいか、か。
恐らく姫こそが俺の意中の相手である「宝石の人」だと思って、兄貴も揺さぶりを掛けてきたのだろう。姫の全てが、権力欲に捕らわれた兄貴にとって魅力的だというのもあるのだろうが。
答えは出ているようで、出ていない。
考えるのだが、どうしてもこれだという答えに巡り合えない。
俺は、どうしたいんだ。
姫を渡すのか。渡さないのか。答えはその二つのいずれかなのに、どうしても答えが出ない。
いつものように執務室で書類をパラパラと捲りながら読んでいると、コンコンと扉を叩く音が部屋に響く。
来客など珍しい。
ギーに目配せをすると扉の傍に脇の短剣に手を添えながら立ち、侍女がそそくさと扉の前まで移動していく。
「どちら様でしょうか」
「北からの伝令にございます」
どう致しましょうかといったような表情を浮かべる女官に、ルデアがこくりと首を縦に振る。
北というのは神殿の隠語。しかし使うのは内偵のものに限られている。そういった人間が表立ってこの部屋を訪ねるなど、普段は無い事だ。
ルデアの部下であるその男を招きいれると、恐らく雪で濡れたのであろうフードを小脇に抱え、神妙な面持ちで入口の傍に立ち尽くしている。
「こちらへ」
ルデアの誘導により、執務用の机に座る俺の前で男が最敬礼をする。
「お忙しいところ、大変申し訳ございません」
「いや。特に立て込んでいないから気にしなくていいよ」
がちがちに固まる男に、もしや神殿に大事でもあったのではないかと緊張感が走る。
筆まめな神官長からの文にはこれといった報告は無かったが。しかしこのように表に出るはずのない男が出てくるなど、何かあったとしか思えない。
口を閉ざしたまま開かない男の様子に、ふうっと溜息を一つ吐く。
「ギー、ルデア。この客人のもてなしを頼む。他の者はちょうどお茶の時間だから休憩してきていいよ」
侍女や官吏の者たちに声を掛けると、人払いだという事はわかったのだろう。うやうやしく頭を下げて人が捌けていく。
その間も男は直立不動を崩さず、表情一つ変えないまま、俺とは目を合わせず俺の後ろにある窓の向こう側を見続けている。
ギーは全員が部屋から出ると扉の鍵を閉め、俺の右にギー、左にルデアが立って男と対峙する。
ごくりと唾を飲み込んだかのように、男の喉仏が上下する。
「さて、何があったのか聞かせて貰おうかな」
執務用の机の上に両肘をついて顎の下で両手を組む。
男を見上げるような形になり、よくよく顔を見ると髭すら剃られていないことに気がつく。
よっぽどのことがあって、慌てて来たとしか思えない。身だしなみに気を配る時間も無かったのだろう。
「中の者からの伝言です」
「何があったのかな」
努めて冷静に、なるべく余裕を崩さずに男の顔を見上げる。口角を引き上げ、意識して笑みの表情を作り出す。
ルデアもギーも一言も口を開かず、直立不動のまま微動だにしない。こういうところは軍隊で鍛えられているだけのことはある。ただ立つという動作だけで、相手に威圧感を与えることが可能だ。
こほんと咳払いをしたというよりは、裏返った声を直す為に幾度か咳き込んでから、男が口を開く。
「こちらを」
懐から丸められた書簡を取り出し、目の前に差し出す。
それをルデアが受け取って内容に目を通し、ふうっと息を吐き出す。
「書にしたためるとは、無用心ですね。次からはこのような物は現地で焼却処分なりなんなりして下さい」
「申し訳ありません」
がばっと頭を下げる男をそれ以上咎めるでもなく、ルデアが目の前に書簡を差し出す。
それを受け取って内容に目を通し、反対側のギーにも手渡す。
ギーが読み終えたところで、部屋の片隅にある暖炉の中にその書簡は投げ入れられる。ボっという音を立てて、書簡は跡形も無く消え去るのを確認し、それから男に目を移す。
「それで、どうなんです。ご容態は」
ルデアが問いかけると、男は身を小さくしてぼそぼそとした声で話し出す。
「給仕を勤める人間からの情報ですと、完全に病人食をお召し上がりになられていると言いますし、召し上がる量もかなり少なく、お体の調子が悪い事は間違いないかと思います」
「それはそうでしょうね。高熱を出して倒れた人間がもりもり食べるわけがありませんからね」
いちいち毒の篭った返答をするので、男の目は完全にきょろきょろとせわしなく動きだして焦りが表れている。
自分の放っている影の一人の動きが存外に悪く、ルデアは完全に機嫌を損ねたのだろう。
この部屋を訪ねてきた瞬間から、わざわざこのような場所までやってくるなんてとでも言いたげだ。
「で、あなたが持っている情報はそれでおしまいですか」
下賎の者を見下すかのような視線を男に向け、ルデアはきつい口調で問いただす。
雇い主であるルデアにそのように見られたのでは、男も閉口せざるを得ないだろう。と、思っていたのだが。
「いいえ。今回の一連の出来事が姫派にのみ伝えられ、お嬢派には何も伝えられていないようです」
ふーっとルデアが溜息を吐き出す。
「そうですか。とうとう確執が表面化してきましたか。まあ知ったところでお嬢には何も出来ないでしょうけれどね」
姫にお嬢。それは神殿内で使われている隠語。
神殿内では個人の過去に関する全てが俗世に通じるとし、名前さえも使用する事を禁じられている。神殿に入ったその日から生まれ変わったのだと、神殿内では神官たちに教育を施すらしい。
その為、全員が本名の代わりの通り名で呼ばれるようになっている。さすがに女官と神官合わせて数百人もいると、各個人を指し示す「名」が無くては不便なようだ。
そして今、神官長は姫、巫女はお嬢と呼ばれている。また、それぞれを支持する派閥が出来ており、姫派、お嬢派と呼ばれている。
今回の神殿流に言うのなら姫の体調不良は、お嬢派には伝わってはいない。つまるところ、対立がかなり色濃くなっており、派閥同士が互いに距離を置くようになっているということだろう。
本来そういった事態を諌める立場にある姫は、そのことに関しては無頓着のようだ。というよりは、姫自身がお嬢を疎んでいる雰囲気を周囲の神官たちが感じており、神官たちの不仲に発展したようだ。
お嬢、即ち巫女がこの事態を収めることは事実上不可能だろう。
彼女がこの事態に気付いているとは思えないし、そもそも巫女は神官たちを統治する立場には無い。巫女とは全てを超越した、神である水竜の代弁者なのだから。俗っぽい神官たちのごたごたなど、関知するわけもない。
更に現在の巫女である「お嬢」はその立場が非常に弱いと聞いている。端的に言うと、カリスマ性に欠けるといったところだろう。
カリスマ性だけで比べるのならば、先の巫女である神官長「姫」のほうが他者を魅了するものを持っている。
起きるべくして起きた問題、か。
かといって、組織外部の人間である祭宮が神官たちの事に口を挟めるわけもない。
ふうっと溜息を吐くと、ルデアの視線が止まる。ちらっと俺の方をみただけで、相変わらず腕組みをしたまま男に厳しい視線を投げかける。
「で、そのようなことを伝える為に、わざわざここへ来たと?」
「……いいえ。どちらかと言うと、体調不良に伴う精神的な不安定さが問題になっております」
「精神的な不安定さ。また随分と直接的なようで抽象的な発言ですね。具体的に説明してください」
きょろきょろと視線を彷徨わせ、落ち着きのない様子で周囲を窺い、そっと男は自らの懐に手を忍ばせる。
その動作にギーの体に緊張が走り、ルデアの表情がよりいっそう険しくなる。
このような、正直言って報告にも値しないような事柄でこちらに立ち寄ったということは、いずれかの勢力にこの男が買収されたか。
疑いを色濃くし、男の一挙手一投足から目を離さないように、瞬きさえもせずに見つめていると、懐からは小さく折りたたまれた紙が取り出される。
少々拍子抜けしたような表情を浮かべたギーとは対照的に、ルデアは目を見開いてそれを見つめる。
男の手の中の紙と、それから男の顔を何度も交互に見、ルデアは手の中にその紙の包みを受け取り、鼻先にそれを近づける。
「これは」
「はい。ご想像の通りです」
男の言葉に、ルデアがふうっと息を吐いてから、ギーにその手の中の物を手渡す。
受け取ったギーが同じように鼻先にそれを近づけてから顔をしかめる。深く刻まれた眉間の皺と深い溜息の後には長い沈黙が続く。
ギーとルデア。二人の視線が交差して、そして同時に俺の上へと降り注がれる。
二人が互いに視線で会話をし、そして意を決したようにルデアが口を開く。
「下がっていいですよ。後ほど私の屋敷に寄って下さい」
「畏まりました」
男は腰から折れ曲がるような最敬礼をし、暗い表情のまま部屋を後にする。
これ以上あの男からの報告は無いと判断したのだろう。
パタンと扉が閉まった後、ギーが机の上に例の紙の包みを置く。
「どうぞ、ご確認を」
目の前に置かれたそれに手を伸ばし、二人がしていたかのように鼻先に近づけると、ふわっと甘ったるいチョコレートのような臭いが鼻の奥に広がっていく。
それに、思い当たるものがある。
「……ルデア」
「はい」
「一体どんな状況でこれを使ったんだ。姫は」
「わかりません。想像する事は可能ですが」
確かにルデアの言うとおりだ。
この小さな紙片に包まれたものをどのように使ったかなど、ルデアがわかるはずも無い。けれど問わずにはいられなかった。
渋い顔は、ルデアの苦悩をそのまま表しているかのようだ。
ギーがごくりと唾を飲み込み、やはり険しい表情でルデアを見つめている。
「どうして幻覚を見る必要があるのか。それがわかりません。ただ一つ言えるのは、非常に精神的に不安定な状況にあり、医師が何らかの意図を持って投薬代わりに使用している可能性があるという事だけです。快楽の為に使用なさるような方ではないでしょうから」
「変調をきたしているのは、肉体的にというよりか精神的にと見たほうが良いということだな」
「おっしゃるとおりです。しかし常習性が無いとはいえ、このようなものを使用し続ければ何らかの不利益が高じないとは言えません。早急な対応を取る必要があるかと思われます」
机の上に置かれたそれに手を伸ばす。
そこまで追い詰められているのか。一体何に。何故俺には一言も相談も報告も無いんだ。
今更ながらに互いの距離感を意識せざるを得ない。形だけの婚約者だとしても、互いに業務上だけの付き合いだとしても、何故その心中を吐露してはくれなかったのか。
全く気がつかなかった。その事にも苛立ちが募る。
俺は一体何を見ていた。表面だけしか見ていなかったから、姫の心の中を見ようともしていなかった。聞こうともしていなかった。
周囲にその心の内を漏らせる相手などいないのに。俺以外の誰も、姫と対等に話をすることなんて出来なかったのに。何故美辞麗句や表面をさらうような世間話だけに終始して。
本当に、俺は愚かだ。
「どのような対策を講じるのが良いと思う」
問いかけられたルデアは首を左右に振る。
「わかりません。どうしてこのようなものに姫が頼らなくてはならなくなったのか、全くわかりません。あのように高貴な精神をお持ちの方が、何故」
続ける言葉を失ってしまったルデアは暗い表情を浮かべる。
誰よりも気高く美しく高貴な精神を持つ、王家に名を連ねる姫。巫女であり、今は水竜の神殿を収める長。
何がどこで狂ったのだろう。
「問題の本質を見極め、そこから距離を置くように提案する以外に方法は無いだろうな」
呟くと、ギーが頷く。ルデアはまだ顎に手を掛けたまま何か考えを巡らせているようだ。
ただの体調不良ならば、臨時の医師を派遣したり薬を運ばせたりすれば済む話だが、幻覚を見せるような薬に頼らざるを得ない精神状態に陥っているとするならば、安易な対応は姫を苛立たせてしまうだけだろう。
冬になる前から体調が良くないことは姫の主治医から報告を受けていたが、体調不良に伴う精神不安なのか、それとも。
ふいに、ある光景が頭を過ぎる。
思わず息を呑んで、意識せず背筋が伸びる。
「すいりゅうさま」
頭の中で甘ったるい声が響き、あの日の光景が蘇る。
瞳の色が蒼に変わった巫女に話しかけた神官長。あの時に見たのは、もしかしたら狂気の片鱗だったのか。
いや、あれを狂気と呼ぶのはおかしいかもしれない。
それが「真実」ならば、姫の問いかけは間違っていなかったのだから。だとすると、幻覚でも見たいのは「愛しい水竜の姿」なのか。そんなに思いつめていたのか。そんなにも巫女であり続けたかったのか。
だとしたら、俺に何が出来る。どうすれば、姫を救う事が出来る。本当の狂気の淵に落ちてしまわないように、手を差し伸べなくては。