19
一日の殆どを眠って過ごす彼女の傍で、日がな一日読書に明け暮れている。
こんなにのんびりと本を読む時間なんて今まで無かった。大昔に、少しは勉強してくださいとどやされた神殿史なんてものを読んでいる。
小難しい水竜の神殿史の序盤を読み終え、書庫番の司書お勧めのやたら口語体で書かれている日記のような書物に手を伸ばしかけたところで、娘がひょっこりと顔を出す。
「お父様、今、いい?」
「嫌だと言っても、お前は来るのだろう」
「ふふふっ。お見通しよね、お父様には」
全く怯む事も無く、娘は神官を従えて俺の前へと歩みを進め、円卓の空いた席に腰を下ろす。
「何読んでるの?」
「神殿史」
ふーんという興味無さそうな声が上がり、呆れたような溜息が娘の口から零れ落ちる。
「そんなの読んで面白い?」
「面白くは無いが、興味深いよ」
返答が気に入らなかったのか、娘が肩を竦める。
円卓に乗せられていた茶器が下げられ、代わりに新しいお茶とお茶菓子が目の前に広げられる。どうやら娘の話し相手をしなくてはならないらしい。
読みかけの本に栞を挟んで、ポンっと手で本を軽く叩くように閉じて娘に目を向ける。
「どうした?」
「えー。そろそろ本当に毒殺未遂事件の事を教えて貰おうと思っているの。だってお父様はぐらかしてばかりで何も教えて下さらないのだもの」
ふっと息が漏れる。
まだその事に拘っていたのか。
「別に何も面白い事実なんて無いよ。それに神官たちの評価がどん底だろうが全く気にならないから構わないよ」
本気でそう思っているのに、娘は気に入らないらしい。「もうっ」っと非難する声を上げ、王家の姫らしくもない仕草でカップを音を立ててソーサーに置く。
どうしてその一点に拘るのか、寧ろその方が疑問だった。
別に俺の評価がどうであろうと、娘や彼女の評価に響く事は無い。
奇跡の巫女で二竜に仕えし巫女である彼女と、紅竜の紅を継ぐ王家の姫である娘。まして娘はその紅と彼女の娘であるという事実から、非常に敬われていると聞く。事実、娘の御付神官や彼女の御付たちも非常に恭しく娘には接している。
つまり、神官長である彼女の業務にも、これから神官長になる娘の業務にも、俺の悪評は全くもって支障をきたさない。それなのにどうして拘り続けるのだろう。
「知ってどうなる。別に何も面白い事実なんて無いが」
それもまた、事実である。
もしもあの瞬間をやり直せるのであれば、俺はあの決断を二度としたりはしない。しかし「もしも」は有り得ない。今目の前にある事実だけが、積み重ねられてきた真実であり、その事実が覆ることはない。
あのターニングポイントで「もしも」違う選択をしていたら、運命はどのように転がっていったのだろう。
それともあの選択をしたこともまた、運命だったのだろうか。
「そうね。何も面白い事実なんて無いわ。でもとても興味深い何かがあるのではないの? お父様」
先ほどの俺の台詞を使い、娘がにっこりと微笑みながら俺を射抜くように見つめる。
そんな真っ直ぐな娘に頭を振って、否と示す。
「いいや。何も無いよ。愚か者が誤った選択をした。ただそれだけのことだ」
「えっと……」
何かを言い淀み、娘は芝居がかった仕草で指を顎にあて小首を傾げる。
ついっと視線を眠っている彼女へと向ける。
倒れた彼女を抱きしめたのは、あれが二回目のことだった。一度目で失う怖さを知っていたのに、もう一度同じ事をしてしまったのだから愚か者としか表現しようが無い。
二つに分かれた石を渡した時の誰にも渡したくないという気持ちも、巫女になろうか悩んでいる時の支えたいという気持ちも、巫女になってから守ってやりたいと思った気持ちも、全部彼女を大切にしたいという想いから生まれていたのに。
その全てを打ち消すような真似が出来たのは、俺自身も切羽詰って「水竜」に「巫女」に縋りたかったのだと思う。
あの遠き日。それでいて、つい昨日のように思い出せる瞬間。あの時の肌のざわめきは、一生忘れることが出来ないだろう。
「ねえ、お父様」
「何だ」
小首を傾げたまま、娘は眉を顰めて問いかけてくる。
「あの日が奇跡の始まりだったのよね?」
娘が言うあの日とは、毒殺未遂事件の日のことを指し示しているのだろう。
「そうかもしれないな」
皮肉にも、後世へと語り継がれるような巫女の物語はあの瞬間から始まった。俺の浅はかな思いつきが、加速度的に世界を変えていった。
「お父様は奇跡を起こしたかったの? お母様が奇跡の巫女と呼ばれるような人だったからこそ妃にしたのでしょう」
「……そのどちらも違うよ。奇跡を起こしたかったわけではないし、彼女が巫女として素晴らしい人だったから妃にしたいと思ったわけではないよ」
「そうなんだ」
深く噛み締めるように呟き、娘はまたふうっと息を吐く。
「なーんかその辺りからお父様の意識と神殿側の意識の齟齬が生じているのよね。それに語り継がれる伝説の巫女とお母様の実像ってもんのすごーく乖離しているじゃない?」
「そこで俺に同意を求めるな」
くすくすっと娘が笑い声を上げ、眠ったままの彼女へ視線を向ける。
「伝説の巫女で鉄の神官長。なーんか本当にお母様って変な人」
「変?」
「ええ。変な人よ。今ここに生きていて目の前にいるのに、語られているのは赤の他人の事のように感じるわ。本当のお母様って一体どんな人だったのかしら」
それは慕情のようだ。
幼い日に母と別れ、業務上の関係として再び出会い、そして再び別れる。
娘だけが持つ複雑な感情があるのだろうけれど、どこまでも「母親像」を求め続けているように思える。
それを取り上げてしまったのは、俺にも責任のあることだから申し訳ない。
「本当がどんな人かって? それはそこに居並ぶ神官たちが一番よく知っているさ。なあ、執事」
ロマンスグレーという言葉が良く似合う彼女の御付神官に声を掛けると、執事はほんの少しだけ口角を上げ目礼で応える。
一番の理解者である執事は黙って頭を下げるだけで、本当の彼女のことについて口を開くつもりは無いようだ。
「そうだ、執事。助手。ずっと聞こうと思っていたのだが、彼女が神官長を辞めた後の身の振り方は既に決まっているのかな」
「……何で俺は飛ばすんですか」
文句を言いつつ睨み付けてくる片目には笑みで返す。
「お前は現状維持。それは決定事項だろう。フレッドもアンジェリンもそのつもりだろうしな」
「そうなんですか。紅姫様」
目を見開いて唖然とした表情の片目に、娘は鈴の音のようなと笑い声を上げる。
「どうせならここでも大道芸を披露して欲しいわ。それも考えておいてね」 くすくすと笑っていたかと思うと、次の拍子には鋭い視線へと変わっている。
「あなたのことはお兄様が決めるわ。私には決定権は無いのよ。それにお父様はあなた以外を私に譲る気は無いのだもの。ねえ、お父様」
まるで駆け引きをするかのような視線を投げかける娘に、微笑み返す。
俺が持つ複数の神殿内の影たち。それから神殿内で絶大な権力を振るっている神官長様の御付神官たち。
新たに神官長になるにあたって、娘はその全てを譲り受けたいようだ。
「自分の人生は自分で切り開くのだろう、アンジェリン。自分の力で切り開いていくといい。お前の母親がそうしたように、ね」
「お父様」
不満そうに頬を染めるアンジェリンを腕組みをして眺める。
恵まれているが故に、全ては「誰か」から与えられる事を当然とし、それを享受してきたアンジェリン。ここにいるべくしている存在であり、誰もが神官長としての娘を称え、敬愛するだろう。だが、それだけでは飾り物でしかない。いつかその事に娘は気がつくのだろうか。
「望むものは自らの手で掴むものだよ。譲り受けるのではなく、欲しいものはその手で掴みに行きなさい。というわけで、話が逸れたが執事、助手」
強引に話を逸らし、娘から神官たちへと視線を移す。
二人の神官は表情を変えずに目礼するだけで、俺の言葉を待っているようだ。
「身の振り方をまだ決めていないのならば、彼女が望むのならば今後も傍にいてやって欲しい。お願いできないだろうか」
何を言われるのかはわかっていたのかもしれない。二人とも一切表情を変えず、室内には沈黙が漂う。
アンジェリンは二人がいなくなっては困るのだろう。眉根を寄せて、祈るような表情で二人を見つめている。
片目は見えるほうの瞳で、横目で二人の様子を伺っている。
娘の御付神官は、あんぐりとした表情で目を見開いて二人を見つめている。
ここを出る彼女と共にあるということ。それは神官を辞めるということに他ならない。優秀で次期長老候補でもある執事と、神殿内の医療を束ねる助手。共に神殿の中核を担う存在だけに、その答え次第では神殿が揺れることも想像に容易い。
先に口を開いたのは助手だ。
「神官長様のお体について俺以上に知る人間はいません。俺が断ったら祭宮様は神官長様をどなたに委ねるおつもりですか」
「それはこちらで手配するから、助手は気にしなくてもいいよ。幸い王都には人材も豊富だからね」
ぶつかる視線が、返答に不満があると伝えてくる。
助手はどこか彼女と似ている。感情が表に出やすくて、気が強いところが。
「妃殿下を長生きさせたいのなら、俺が行くしかないでしょう。ただし給料は弾んで貰いますよ」
敢えて妃殿下と彼女を呼んだ助手の視線の先には、眠り続ける彼女がいる。
閉じられた瞳が開く事は無く、穏やかな眠りの中で見るのはどんな夢なのだろう。
「それで構わないんだな」
「ええ。紅姫様には大変申し訳ありませんが、一度この紅竜の神殿を出たあの日より主は唯一人と決めておりますから」
さらりと言いのけ、にっこりと娘に笑いかける。
さっぱりとして迷いのない意志の強い瞳は、己の意思を曲げることが無い事を表しているようだ。それに対してアンジェリンは肩を竦めるだけで、何も言おうとはしない。
「執事は」
問われた執事の口元にうっすらと笑みが浮かぶ。柔らかな視線、微笑み。普段見ることのない執事の表情に、ぎょっとしてしまう。
それは俺だけではなかったようで、居並ぶ神官たちも目を見開いて執事を凝視する。
穏やかな表情の裏に、どんな感情が隠されているのだろう。いつもはそれさえも能面の中に隠してしまっているというのに。
「若い頃の話です。わたしは神官を辞めるつもりでした。そんなわたしに当時の神官長と長老は辞めるなとおっしゃいました。いつかまた必要とされる日がくるから、と」
遠い目は過去の情景に向けられているようだ。
しかし執事にこんな表情をさせられるのは、恐らく彼女以外にいないはずだ。彼女の片腕、腹心。影になり表になり、常に彼女と共にあり続けた執事。その執事が辞めたいと思った日があったとは。表情と発言が全く別の事柄のようだ。
「助手と同じです。わたしもまた、他の方にお仕えする意思が無かったのです。他の巫女には仕えたくは無かった」
「それは、今も変わらないのか」
ごくりと唾を飲み込む音が体の中に響く。
能面の中の本心が垣間見え、恐ろしいほど強い主従の絆を見せ付けられる。助手もそうだが、この執事の中にはどれほどまでの彼女への忠誠心があるというのだろう。
「ええ。一片の曇りもなく。ですがわたしは助手とは違い、外に出ても神官長様のお役には立てません。それと水竜の神殿の建て直しをやりかけのまま放り投げてきましたので、水竜の神殿に戻るつもりです」
「水竜の神殿?」
娘が執事に疑問を投げかけると、いつもの能面よりもずっと柔らかな表情で娘に頷き返す。
「紅竜の御世に、水竜の神殿?」
もう一度問いかけるアンジェリンへ、執事はゆっくりと「はい」と答える。
紅竜がこの世に現れ水竜が姿を消した後、水竜の神殿はひっそりとその存在を忘れられたかのように佇んでいる。
何故そこに執事が拘るのか、紅竜の御世に生まれ、紅を継ぐアンジェリンには理解しがたいのだろう。困惑が手に取るようにわかる。
「ええ。わたしは今は紅竜の神殿の神官ですが、元は水竜の神殿の神官ですから」
蒼き衣を身に纏った神官たちが列を成し、儀式用の第一正装に身を包んだ水竜の巫女の後に続いて礼拝堂に入ってくる。
蒼、青。
輝く眩い蒼き竜の像。そして黄金色に彩られた祭壇。何本もの光の帯に照らされた水竜の巫女。
今もまだあの日を覚えている。
俺でさえこんなに鮮明にあの頃を覚えているのだから、神官たちの胸中には更に強く水竜の神殿と水竜の巫女の姿が甦っているだろう。
そして、どこまでも広がる空の青のような蒼い瞳。誰もを魅入って止まない容貌と、そして心に残る印象深い声音。
あれを一度でも見たものならば、忘れる事は決して出来ないだろう。
彼女への忠誠を誓っていると執事は言うが、それは水竜への信仰心から続くもののように思える。
「蒼き竜。空を舞うことの出来ない、鎖に繋がれた大河の化身」
吟遊詩人たちが語る水竜の物語の中の一説をアンジェリンが呟く。
「紅き竜。大空を自由に飛び回る炎の化身。決して共生しない二色の竜。……そういうことね? 執事」
「はい。申し訳ございません」
それで全てを納得したかのようにアンジェリンは頷く。
「ならば仕方が無いわ。でももしもお母様が執事に一緒にいて欲しいって言ったら、その時はどうするの?」
「答えは同じです。それで神官長様にはお判りいただけます」
よりいっそう執事の頬が緩む。
俺なんかが知らない彼女と執事の物語があるのだろう。そしてそれは主従の間に切れない絆になって繋がっている。
もしかしたら俺なんかよりも、ずっと執事のほうが彼女との絆が強いのかもしれない。
そんな事を口にしたら「嫉妬?」と娘に笑われそうだが。
執事と彼女をよりいっそう結びつけたのもまた、俺が起こした不祥事から始まる運命だったのかもしれない。
先王の失態から、当時一人だった彼女の巫女付神官が増やされた。
執事の他に、助手、片目、カカシ、熊、現長老でもある傭兵。今は亡き先代の長老。
運命の輪は回り続ける。
俺と彼女を中心にして。周りを少しずつ巻き込んで。
「執事。お前にとってもあの日は特別だったのか?」
「あの日、と申しますと?」
「毒殺未遂事件の」
表情を曇らせ、執事が眉間に皺を寄せる。
ふうっと息を吐き、ゆっくりと言葉を選ぶように執事が口を開く。
「ここにいる誰にとっても、あの日の悪夢は忘れることは出来ないかと思います」
「悪夢。そうだな、悪夢だな」
「はい」
同意したまま執事は口を閉ざし、他の神官たちも思い思いの思考の中に入り込んでしまったようだ。
「けれどあれこそが奇跡の始まりだったのでは」
アンジェリンの御付神官が言いにくそうに、けれど少し甲高い声を震わせながら訴えるが、神殿の幹部でもある神官長の御付神官たちに睨まれて俯いてしまう。
悪夢の始まりで、奇跡の始まり。
それはゆっくりと、しかし確実に「あの日」に向かって進行していった。