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焦って来たのかわからないが、平静を装いつつも息が上がっている。そんな彼女の様子が微笑ましくて笑みが漏れる。
わざわざ走ってきたのかな。いやいや、さすがに巫女が走ったりはしないだろう。
でも彼女ならそれもありえるか?
いつものように巫女の笑顔を浮かべる彼女に近寄って、祭宮然とした挨拶をすると、にっこりと彼女が微笑む。
うーん。これがギーが言うキュンってやつか。
胸の鼓動が逸るのも、口元が自然と上がってしまうのも「キュン」の効果なのか。
だけどどうしても彼女を見るとからかいたくなるんだよな。
「そんなに焦ってくるほど俺に会いたかった?」
耳元で囁くと、目を見開いた彼女の頬が一気に真っ赤に染まっていく。
やばいな。自分で振っておきながら、余計にどつぼに嵌まったな。これで手を出すなというのは蛇の生殺しだ。
微笑みを浮かべたままの俺を、上目遣いで彼女が見上げてくる。
触りたい。
その真っ赤に染まった頬に手を伸ばしてみたいくらい可愛い。これで更に俺が触れたら、お前、一体どんな反応するの?
……しないけど。
「お忙しいところをすみません。こちらの都合でお伺いしたのですが、巫女様にもお気を使わせてしまいましたね」
出来るだけ本音を上手く隠して取り繕い、困ったような顔で俺を見る彼女に座るようにと促す。
いつものように、彼女と神官長と俺の三者会談。
ここからまた先程までのような針のむしろが始まるかと思うと、ぞっとする。
彼女をからかって遊ぶほうが楽しいのに。
巫女権限で邪魔な神官や神官長に退出を促してくれたらいいのに、まあそういう事はしないよな。生真面目な巫女は。
俺が始めて出会った時よりもずっと落ち着いて品のある女性として、付け焼刃というのではなく身に着いた品性が所作に表れている。
あの日、巫女になるのに相応しくないと泣いていたけれど、俺の言ったとおり、何とでもなるだろう。
「祭宮様のご都合でという事でしたが、ご神託が必要というわけでは無いのでしょうか」
一瞬の動揺も上手く巫女の仮面で押し隠し、ごくごく冷静なフリをして訪ねてくる彼女がまた、ぐっとくるんだよな。
その氷のような巫女の仮面と、さっきの本心を垣間見せたかのような表情。そのギャップが無理しなくていいんだよって言ってやりたくなる感じで、庇護心をくすぐるというか。
返答をしない俺を不思議そうに見て小首を傾げる彼女に微笑み返し、本業を思い出す。
「ええ。業務上の確認の為に参りました。巫女様のお手を煩わせるような事はございません」
「そうですか」
あれ。声のトーンが硬い。何で若干ムッとした顔になってるんだ。
「しかし巫女様のお元気そうなお顔が拝見できて、とても嬉しく思っております。なかなか神殿の方々にお会いする機会がございませんので、お会い出来る幸運に巡り合えて感謝しております」
「おほほほほ。お上手ですこと」
巫女である彼女ではなく、神官長が口元に手を当てて笑い声を上げる。
ちらっと彼女に目を向けると、ふっと肩が上下に動いたので溜息でも吐いたのだろうか。
「本当はわざわざこちらにいらっしゃるのはご面倒でしょうに。ご足労をお掛けして申し訳ありませんわ」
要望を呑まなかったことをチクチクやるおつもりですか。いいですけれどね、別に。
「いいえ。とんでもない。水竜様のお許しが頂けるのでしたら、それこそ毎日でもこちらにお伺いさせていただきたいくらいです」
「まあ。本当にそう思っていらっしゃるのでしたら嬉しいですわ」
実際にそんな事したら祭宮業務が滞るので致しませんが。
しかし社交辞令というのは非常に大事だ。これで人間関係が円滑になるのならば、幾らでも心にも無い嘘も吐ける。
実際彼女に会いたい気持ちがあると言うのは嘘ではないので、全くの嘘ではないから良いだろう。
「巫女様はお変わりありませんでしたか」
しかし社交辞令の応酬というのもあまり心地よいものではないので、お茶のカップに手を掛けていた彼女に声を掛ける。
カチャっと音を立ててカップをソーサーに置き、彼女がまたにっこりと巫女の笑みを浮かべる。
「はい。とても元気にやっております。祭宮様はお変わりありませんか」
「ええ。何も変わりなく、のんびりとやっております」
嘘だけれど、神殿のゴタゴタに巻き込むつもりは一切ないし、今何かを彼女に伝えるべき時ではないので王太子指名のことなどは黙っておく。
それよりもこの巫女ですって笑顔じゃない顔が見たいな。
どうやったらさっきみたいな本当の彼女の「素」の表情が見られるのだろう。
巫女じゃない彼女自身としての笑顔が見たい。それはさすがに欲をかき過ぎだろうか。でも見たい。またどうせ何ヶ月も会いにはこられないのだから。
「祭宮様とのんびりってあまりそぐわない感じが致しますわ。本当は浮名を流していらっしゃったりしてるのではなくて?」
余計な事を口出ししないで欲しい。
ああ、彼女の表情が固まったじゃないか。先程からの明らかな悪意が感じられる発言は、嫌がらせに近いな。よっぽど腹に据えかねているという事か。
「浮名など。ありえません。そのようなだらしの無い男だと思われていたのなら心外です」
「あら。そうだったかしら」
「そうだったかしらではありませんよ。そもそも神官長様が王宮にいらっしゃる頃から、そういった噂など流れてはいなかったかと思いますが。しかしそのように誤解されていたとは、残念です」
クスクスとまるで鈴のような笑い声を上げる神官長は一体何を考えているんだか。普段はこういう話題は一切出さずにビジネスライクを突き通しているというのに。
女って面倒臭い。
いかんいかん。本音が顔を出してしまった。
直系王族として子孫を残さなくてはならないから結婚は必然だし、その相手は厳選されて然りだと思っている。その事には異論は無い。
が、だからといって女の機嫌をとって相手にしなくてはならないのは非常に面倒だ。外見も内面も並ぶものが無いとさえ言われる姫君を婚約者に持ってもなお、その考えは変わらない。寧ろ姫君であり神官長の機嫌をとって美辞麗句を並べるのは息が詰まる。
偽りの笑顔。偽りの愛の言葉。
そんなものには何の価値もないのだと、気付いてしまったから。
ただ本心をぶつけてくる相手というのは、時として苛立つ事もあるけれど、それでも心地よい。
この国でたった一人だけ「祭宮」でも「王子」でも「カイを持つもの」でもなく「ウィズ」として見てくれる彼女といる時間が恋しいと思う。だから余計に本当の仮面の下の彼女の素顔に触れたくてたまらない。
こんな上辺だけの会話なんて何の意味も成さない。
けれどいつだってそんな会話しか俺たちの間には残らない。何の話をしたのかもわからないような、どうだっていいような。
会話の合間に、ふいに目が合う。
視線を逸らそうとしたのにも関わらず、視線が絡み付いて離れない。いつまでたっても、右に動かしても左に動かしても。絡んで離れないのは、視線だけなのだろうか。
お互いに一瞬時間が止まったかのように見つめあったかと思うと、彼女が頬を染めたまま俯いてしまう。
もしかして?
その反応に心の中で拳を握った。
何とも思ってなかったら、そんな風に困ったような顔をしたりしないよな。俺の直感が「よっしゃー!」と叫んでいたのはご愛嬌。
「祭宮様?」
おっといけない、現実を忘れていた。
冷たい女王のような神官長の視線を感じ、コホンと咳払いをして立ち上がる。
「巫女様のお元気そうなお顔も拝見出来ましたし、要件は済みましたので、そろそろお暇させて頂こうかと思います」
はっとしたような顔で俺を見上げた彼女に微笑み掛ける。何かを言いたげに口を開きかけたが、彼女もまた巫女の笑みを浮かべる。
立ち上がろうと腰を浮かせた彼女に手を貸すように目の前に差し出すと、一瞬戸惑ったような表情を浮かべる。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
戸惑いの表情を見せつつも、断るわけにはいかないと判断したのであろう彼女の手がそっと重なってくる。これくらい触れるにはならないだろう。貴婦人に手を貸さないのは紳士として失格だしな、と心の中で言い訳。
ぎゅっと重ねられた手が握られて、ドキっと胸が跳ねる。けれど何も無いように平静を装って祭宮として笑みを浮かべる。
「いいえ」
再び彼女が軽く頭を下げると、重ねられた指がすっと引いていってしまう。
ほんの少しだけ感じた彼女の体温。緊張のせいか冷えていた指先。柄でもないけれど、そういった全てが愛しく思える。
「どうぞ王都までの道中お気をつけて」
「ええ。ありがとうございます」
心からの笑みを彼女に向け、憮然としたままの神官長へと向き直る。
「神官長様もどうぞお体ご自愛下さい。これからどんどんこちらは寒さの厳しい季節になりますから」
「ありがとうございます。祭宮殿下も、ご無理をなさいませんように」
「ありがとうございます。では、失礼致します」
二人の尊い存在に心からの礼をし、背を向ける。
部屋の扉に手を掛けてからふと後ろを振り返ると、巫女の表情を貼り付けたままの彼女と目が合う。
「がんばれ」
声には出さず、口だけで伝えた言葉は彼女に伝わったのだろうか。
表情を変えないまま、深く頭を下げてしまったのでよくわからないけれど。
深く考えるのは性に合わない。
だけれどわかった事がある。俺は多分婚約者の姫君に今まで恋なんてしていなかった。あるのは必然だけだ。今になってその事に気付いたのは「運命」に出会ったから。
浮かれた気持ちも、触れたくてたまらないという欲望も、誰かの力になりたい守りたいなんていう自己犠牲的感情も、今まで自分の中には無かったものだ。
恋って、好きっていう気持ちに付随して、色んな感情を自分の中から引っ張り出してくるものなんだな。
そして自分のほうを向いて欲しい。同じように想って欲しいと願ってやまない。
これが本当に「運命」の恋なのならば、いつか彼女は俺のものになるのだろうか。頬を染めて上目遣いに俺を見る彼女の姿に、いつかそうなるんじゃないかなんて一縷の希望を見出さずにはいられなかった。
あの日の、能天気な俺。
なーんにも知らない。それこそ神官たちに「無能」と評されるに相応しいお坊ちゃまで覚悟の足りない三男坊だった。
ゆっくりと一度積み上げたものが瓦解へと進んでいっていたというのに。