ライバル魔導師との仲は最悪なのに、使い魔同士が先に恋をしたので毎日くっつけられそうになっています
◆ルチア視点◆
王立魔導院の掲示板の前には、今朝も人だかりができていた。
卒業試験を前にした、最後の月例考査。その結果が貼り出される日だ。
私は人の肩越しに、一番上の行を探す。
首席、テオドール・クラインベルク。
次席、ルチア・アーデン。
……また、だ。
(また二番。これで何度目かしら)
数えるのは、とうにやめた。入学してから六年、私はほとんどずっとこの位置にいる。ごくたまに一番を取っても、翌月にはあっさり取り返される。
悔しい。けれど、負けた理由はいつもはっきりしている。
考査のあと、首席の答案は写しが図書館に置かれる。私はそれを毎月こっそり借りて、自分の帳面に一字残らず書き写し、夜中まで読み込んでいる。
無駄のない術式。どこにも力みがないのに、最後の一行で全部がぴたりと噛み合う。悔しいけれど、あれは本当に綺麗なのだ。
……もちろん、本人には死んでも言わない。
「残念だったな、アーデン」
背後から聞こえた声に、私は振り返らずに答えた。
「何がですか、クラインベルク。差はたったの二点です」
「その二点が埋まらないのが、お前の六年間だろう」
ゆっくり振り返る。
黒髪に灰色の瞳。首席だけに許された銀の留め具を襟元につけた長身の男が、腕を組んで掲示板を見上げていた。その肩には、彼の使い魔である黒猫のカシスが、だらりと乗っている。
「次は必ず抜きます」
「毎月聞いている」
「毎月言っていますから」
いつもの言い合いだ。周りの学生たちも慣れたもので、「また始まった」という顔で散っていく。
ところが今日は、いつもと少し違った。
私の肩にとまっていたペルラが、ふわりと羽を膨らませたのだ。
ペルラは私の使い魔で、雪のように白い梟だ。気位が高く、普段は誰に対してもつんと澄ましている。そのペルラが、なぜかくちばしで胸元の羽を丁寧に整え始めた。
視線の先にいるのは、テオドールの肩の黒猫。
「にゃあ」
カシスが、甘ったるい声で鳴いた。
「ホォー」
ペルラが、聞いたこともないほどかわいらしい声で応えた。
(……何かしら、今の)
テオドールも同じことを思ったらしい。眉をひそめて肩の猫を見下ろし、それから私を見た。
「お前の梟、最近おかしくないか」
「あなたの猫こそ。この前、私の研究室の窓辺で半日寝ていましたよ」
「……知っている。連れ戻しに行こうとしたら、こいつが窓枠に爪を立てて動かなかった」
使い魔は契約によって主人と結ばれている。主人から五十歩より遠くへは行けない決まりだ。
だから、カシスが私の研究室の窓辺にいたということは、テオドールも五十歩以内のどこかにいたということになる。
私の研究室は塔の東の端。テオドールの研究室は西の端。どう考えても五十歩では届かない。
(では、あの日、この人はどこにいたの?)
聞こうとして、やめた。
この人に何かを聞くのは、負けを認めるような気がする。
「とにかく、使い魔の管理くらいちゃんとしてください」
「お前に言われたくない」
テオドールはふいと背を向け、廊下の向こうへ歩いていく。カシスが肩の上で振り返り、ペルラに向かって尾をゆらりと振った。
ペルラが、また小さく鳴いた。
「ホォー」
私は肩の梟を見る。ペルラは知らん顔で羽づくろいを続けていた。
その日の午後、魔導院長に呼ばれた。
「卒業後の赴任先の件だがね」
院長は白い髭をなでながら、二枚の書類を机に並べた。
「北の国境の観測所と、南の港町の結界管理局。どちらも首席と次席に任せたいと先方が言ってきている。どちらへ行くかは、君とクラインベルク君で決めなさい」
北と南。馬車で十日以上は離れている。
卒業すれば、あの人とはもう二度と顔を合わせることもないのだろう。毎月の言い合いも、掲示板の前で背中越しに聞く声も、全部終わる。
それでいいはずだ。せいせいする。
そう思うのに、なぜか胸の奥が少しだけ重かった。
「……私が南へ行きます。あの人は寒いところのほうが似合いそうですから」
「そうかね。では、来週の面談で正式に署名を」
院長室を出たとき、肩のペルラがびくりと震えた。
まるで、今の話が分かったかのように。
◆ペルラ視点◆
夜の塔の屋根は、風が冷たい。
それでも、ここは私とカシスにとって特別な場所だ。真下の書庫で、主人たちがそれぞれ別の棚の前で調べ物をしている夜だけ、私たちはここで会える。互いの主人からの距離は、ぎりぎり四十八歩。
「ペルラ、今夜も綺麗だ」
カシスが、私の隣にすとんと腰を下ろした。黒い毛並みが、月明かりで艶めいている。
「毎晩同じことを言いますのね」
「毎晩綺麗だから仕方ない」
「……猫が梟を口説くなど、狩りの予告にしか聞こえませんわ」
「最初もそう言われたなあ」
カシスは喉を鳴らして笑い、尻尾を私の足に巻きつけた。
初めて会った頃、私は本気でこの猫を警戒していた。けれどこの猫は、一度も私に爪を見せなかった。
私が雨に濡れれば体を寄せて温め、私の主人の悪口を言う学生がいれば、さりげなくその足を引っかけて転ばせてくれた。
最初に言葉を交わしたのは、四年前の冬だ。
主人たちが中庭で術式の撃ち合いを始め、私たち使い魔は巻き添えを食わないよう、そろって植え込みの陰に避難していた。
「お互い、苦労するね」
隣で丸くなった黒猫が、そう言ったのだ。
私は返事をしなかった。猫と口をきくなど、梟の誇りが許さない。
けれど黒猫は気にした様子もなく、主人たちの撃ち合いが終わるまで、ずっと私の風上に座っていた。冷たい北風を、その体で遮るように。
気づいたのは、ずいぶん後になってからだ。
それからというもの、主人たちが喧嘩を始めるたびに、私たちは同じ植え込みの陰で顔を合わせるようになった。主人たちが喧嘩をしてくれないと会えないなんて、まったくおかしな話だけれど。
気づけば、私はこの猫の隣でしか、ぐっすり眠れなくなっていた。
……もっとも、そんなことは口が裂けても言いませんけれど。
「それより、聞いた?」
カシスの声が、少しだけ低くなる。
「ええ。北と南」
「馬車で十日。五十歩どころの話じゃない」
私たちは黙った。
使い魔は主人のそばを離れられない。主人が北へ行けば北へ、南へ行けば南へ。私たちの意思は関係ない。
「……あなた、平気ですの」
「平気なわけないだろ」
カシスは即答した。そういうところだけは、驚くほど素直な猫だ。
「だから考えた。ご主人たちをくっつける」
「は?」
「あの二人が恋人になれば、同じ赴任先を選ぶ。同じ場所にいれば、オレたちは毎日会える。簡単な話だ」
「簡単なものですか。あの二人、顔を合わせれば喧嘩しかしませんのよ」
「喧嘩するほど、ってやつだよ」
カシスは得意げに髭を揺らした。
「それに、オレは知ってる。うちのご主人は、お前のご主人にべた惚れだ」
私は目を丸くした。
「……本当ですの?」
「本当。六年分の証拠がある」
私は少し考えて、それから小さく息をついた。
「うちの主人も、本当はあの方の魔法を誰よりも見ていますわ。考査の結果が出るたびに、あの方の答案の写しを借りてきて、一字残らず書き写して、夜中まで読んでいますもの。悔しい悔しいと言いながら、最後には必ず『綺麗な術式ね』とつぶやくんです」
「なんだ。両想いじゃないか」
「主人たちが、それを知らないだけですわ」
私たちは顔を見合わせた。
月が雲に隠れ、また出てくる。
「やるか、ペルラ」
「……仕方ありませんわね。あの二人に任せていたら、卒業どころか百年経っても進みませんもの」
カシスが嬉しそうに、私の頬に鼻先を寄せた。
私は翼で、そっとその頭を包み返した。
主人たちより、私たちのほうがずっと話が早い。
◆ルチア視点◆
翌朝、私の研究ノートが消えた。
卒業論文の下書きを全部書き込んである、大事なノートだ。机の上に置いていたはずなのに、どこにもない。
(落ち着いて。昨日の夜は確かにここに……)
研究室中をひっくり返していると、扉が乱暴に叩かれた。
「アーデン、これはお前のか」
テオドールが、見覚えのある革表紙のノートを片手に立っていた。
「それ! どこにあったんですか」
「俺の机の上だ。朝来たら置いてあった」
「……あなたが持っていったんですか」
「なぜ俺がお前のノートを盗む必要がある」
「論文の内容が気になったからでは?」
「気にならん。いや、気にはなるが、盗むほどではない」
「気にはなるんですね」
「そういう話をしていない!」
彼はノートを私の胸に押しつけ、背を向けかけて、それから足を止めた。
「……三十二頁の、結界の重ね方」
「え?」
「あれは、悪くなかった」
「読んだんですか!?」
「表紙が開いていたんだ。不可抗力だ」
「三十二頁は真ん中あたりです! 開いていたで済む場所ではありません!」
言い合いは廊下にまで響き、通りかかった教授に二人そろって叱られた。
ノートを受け取って研究室に戻ると、窓辺でペルラとカシスが並んでこちらを見ていた。
カシスの口元に、革表紙と同じ色の糸くずがついていた。
……まさか、ね。
机に戻ってノートを開く。三十二頁。夜中に何度も書き直した、自分でも一番気に入っている術式だった。
悪くなかった、と、あの人が言った。
たったそれだけで、その日は一日中、なぜか集中できなかった。
三日後には、資料室に閉じ込められた。
古い魔導書を探しに入ったら、背後で扉が閉まり、外から何かが引っかかる音がした。
振り返ると、奥の棚の陰からテオドールが顔を出した。
「……お前もか」
「あなたもですか」
「猫に呼ばれて来た。袖を引っ張るから何かと思えば」
「私は梟に。資料室の前で鳴き続けるので」
扉の外から、「ホォー」と「にゃあ」が同時に聞こえた。
私たちは顔を見合わせた。
それから、まったく同時に扉へ手をかざした。
「解錠の術式なら、私のほうが早いです」
「寝言は寝て言え」
互いに負けじと魔力を込めた結果、扉は錠ごと廊下の向こうまで吹き飛んだ。
廊下では、ペルラとカシスが羽と毛を逆立てて固まっていた。
その日、私たちは扉の修理代を折半で払わされた。
(この子たち、いったい何がしたいの?)
問い詰めても、ペルラはつんとそっぽを向くだけだった。
翌週は、卒業前の合同実技演習だった。
二人一組で、暴走した魔法陣を鎮める。組み合わせは、教授が箱から引いた名札で決まる。
「次。アーデンと……クラインベルク」
講堂がざわめいた。
私は耳を疑った。テオドールも同じ顔をしていた。
「先生、くじのやり直しを要求します」
「同じく」
「却下だ。箱の中身は公平だよ」
教授が箱を振ってみせる。その箱の陰に、黒い尻尾がちらりと見えた気がした。
講堂の梁の上では、ペルラが澄ました顔でこちらを見下ろしている。
……箱の中で、何が起きたのかは分からない。分からないけれど、だいたい想像はつく。
結局、私たちは並んで魔法陣の前に立たされた。
「足を引っ張るなよ、アーデン」
「こちらの台詞です」
言い合いながら、私は陣の外周を、テオドールは内側を、それぞれ黙って受け持った。
打ち合わせなど一言もしていない。それなのに、彼が内側を締めると、私の外周がちょうどそこで閉じる。私が魔力を流し込むと、彼の術式がちょうどそれを受け取る。
暴走していた光が、嘘のように静まった。
講堂が、しんとなった。
「……見事だ。今年一番の出来だよ」
教授が拍手をして、それからにやりと笑った。
「普段あれだけ喧嘩をしているのに、ずいぶん息が合うじゃないか」
「合っていません」
「合っていない」
声がそろってしまい、講堂中が笑いに包まれた。
私は顔が熱くなるのを感じながら、隣を見ないようにした。
けれど、ほんの一瞬だけ見えた彼の横顔は、怒っているというより、どこか困ったように赤かった。
さらに五日後、雨が降った。
講義を終えて玄関まで来たところで、私は傘立ての前で立ち尽くした。朝さしてきたはずの傘がない。
見上げると、玄関の梁の上でペルラが素知らぬ顔をしていた。その足元に、私の傘の柄がちらりと見える。
「ペルラ、降りてきなさい」
「ホォー」
「ホォー、じゃありません」
どうやって取り返そうかと考えていると、隣に誰かが立った。
テオドールだった。
彼は自分の傘を開くと、黙って私のほうへ傾けた。
「……何ですか」
「入れ。寮まで送る」
「結構です。走ればすぐですから」
「その本を濡らす気か」
腕の中には、図書館から借りた古書が三冊。確かに、濡らすわけにはいかない。
私はしぶしぶ、傘の中に入った。
雨の音が、急に大きく聞こえる。
並んで歩くと、彼の肩が思ったより高い位置にあることに気づいた。言い合うときはいつも向かい合っているから、横顔をこんなに近くで見るのは初めてかもしれない。
傘は、明らかに私のほうに傾いていた。
彼の左肩が、雨に濡れて色を変えていく。
「……あなた、濡れていますけど」
「別に」
「別に、じゃないでしょう。風邪を引いたら、卒業試験で私が勝ってしまいますよ」
「それは困るな」
テオドールは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
憎まれ口ではない声を、初めて聞いた気がした。
寮の前で傘から出ると、彼は何か言いたそうに口を開き、それから閉じた。
「……アーデン」
「はい」
「南へ行くそうだな」
どきりとした。院長から聞いたのだろうか。
「ええ。あなたは寒いところのほうが似合いそうですから」
「……そうか」
彼はそれだけ言って、雨の中を帰っていった。
濡れた左肩が見えなくなるまで、目で追ってしまった。
(……どうして、そんな顔をするの)
ほんの一瞬、彼がひどく寂しそうに見えた。
あんな顔をされたら、まるで、私に南へ行ってほしくないみたいではないか。
……そんなはずはない。あの人にとって、私はただの目障りな次席だ。いなくなれば、首席の座を脅かす者もいなくなって、せいせいするに違いない。
そう言い聞かせながら部屋に戻り、念のため古書の表紙を拭いた。一冊も濡れていなかった。濡れていたのは、全部あの人の左肩のほうだった。
窓辺では、ペルラが濡れた羽を膨らませていた。足元には、取り返した私の傘。
ペルラは私を見上げて、何か言いたげに小さく鳴いた。
◆カシス視点◆
うちのご主人は、どうしようもない。
雨の夜、ずぶ濡れで帰ってきたご主人は、着替えもせずに机の前に座りこんだ。そして、一番下の引き出しを開けた。
中には、色あせた水色の髪紐が一本。
六年前の入学試験の日、試験会場の廊下に落ちていたものだ。拾ったご主人は持ち主を追いかけて、そして、声をかけられなかった。
持ち主の女の子は、実技試験で誰も見たことのない綺麗な光の術式を組んでいた。ご主人はそれを一目見て、その場から動けなくなったらしい。
以来六年、髪紐はずっとこの引き出しの中だ。
「……南、か」
ご主人は髪紐を指に絡めて、深いため息をついた。
「カシス。俺はどうして、あいつの前だとああなんだ」
知るか、と言いたいが、オレの声はご主人には「にゃあ」としか聞こえない。
「明日こそ普通に話す。普通に、おはよう、と言う。それから、考査の答案、綺麗な術式だった、と言う。それから……」
毎晩聞いている台詞だ。
この練習が本番で成功したことは、六年間一度もない。
ご主人はあの人の前に立つと、頭の中が真っ白になるらしい。白くなった頭から出てくるのは、なぜか憎まれ口ばかり。猫のオレから見ても、器用な男じゃない。
合同演習の日の夜なんか、ひどかった。
部屋に戻るなり寝台に突っ伏して、「息が合った……」と三回つぶやき、それから「合っていない、と言ってしまった……」と五回うめいた。
オレが箱の中の名札をすり替えるのに、どれだけ苦労したと思っているんだ。教授の袖に潜り込んで、爪の先で名札を一枚ずつ選り分けたんだぞ。
そのせっかくの機会に、出てきた言葉が「合っていない」。
ペルラに報告したら、梟のくせに頭を抱えていた。
それに、ご主人は用もないのに、あの人の研究室の前の廊下を何度も行ったり来たりする。オレがあの人の窓辺で半日昼寝できたのも、そのおかげだ。
本当は、北と南の話も、ご主人は先に院長から聞いていた。
「アーデンが好きなほうを選べばいい。俺は残ったほうでいい」
そう言ったのだ。
そのくせ夜になると、南の港町の地図をこっそり広げて、ため息ばかりついている。
オレはご主人の膝に飛び乗った。
「なんだ、慰めてくれるのか」
違う。腹が立ってるんだ。
あんたが一言「行くな」と言えば済む話なのに。あんたが言わないせいで、オレはペルラと離れることになる。
ご主人の指先が、オレの背中をなでる。
「……あいつの梟、綺麗だよな。お前、あの梟が好きなんだろう」
オレは顔を上げた。
「見ていれば分かる。お前、あの梟の前だとずいぶん行儀がいい」
ご主人は少しだけ笑った。
「お前のほうが、よほどうまくやっているな」
当たり前だ。オレは毎日、ペルラに好きだと言っている。
あんたも言えばいいんだ。
オレは決めた。ご主人がダメなら、オレがやる。
翌朝、オレは屋根の上でペルラに言った。
「面談の日だ。そこで決める」
「何をですの」
「あの二人を、同じ場所に集める。それで、うちのご主人の隠しごとを、お前のご主人の目の前にぶちまける」
ペルラは少し黙ってから、静かに言った。
「……カシス。もし、それでも駄目だったら?」
「そのときは」
オレは尻尾を揺らした。
「そのときは、そのときだ」
ペルラは何か言いかけて、やめた。
白い羽が、ほんの少しだけ震えていた。
面談の朝、ご主人は引き出しから髪紐を取り出して、上着の内ポケットにしまった。
「……今日こそ返す。返して、それから」
その先は、いつものように声にならなかった。
まあいい。ポケットに入っているなら、オレの前足でも届く。
◆ペルラ視点◆
面談の朝。
主人は鏡の前で、いつもより念入りに髪を整えていた。結い紐は、どこにでも売っている紺色のもの。六年前になくした水色の紐の代わりに、ずっと使っているものだ。
「南の港町はね、ペルラ。夏になると、海の上を渡り鳥が群れで飛ぶんですって」
主人は明るい声で言った。
「あなたも、きっと気に入るわ」
気に入るはずがありませんわ、と私は思った。
そこには、黒い毛並みの猫がいない。
主人は鏡越しに、少しだけ笑った。その笑い方が、あの雨の夜のテオドールの顔とよく似ていることに、主人自身は気づいていない。
本当は、この人だって行きたくないのだ。
あの方と離れるのが嫌なのだ。
それなのに、「せいせいする」なんて言って、自分で自分の気持ちに蓋をしている。
カシスの作戦は、二人を同じ場所に集めること。テオドールの面談は午後。主人の面談は午前。
……間に合わない。
主人が署名をしてしまえば、それで終わりだ。
私は主人の肩の上で、そっと翼をたたみ直した。
五十歩を越えたら、どうなるかは知っている。けれど、知っていることと、怖くないことは違う。
それでも。
あの猫の隣で眠れなくなるくらいなら、一度くらい、梟の誇りを捨てて無茶をしてみてもいいかもしれない。
「行きましょうか、ペルラ」
主人が扉を開けた。
私は小さく鳴いて、窓の外の、西の空を見た。
◆ルチア視点◆
面談の日は、よく晴れていた。
院長室には、北と南の二枚の書類が並べられている。テオドールの面談は午後で、私は午前。署名すれば、それで決まりだ。
(南の港町。海が見えるそうね)
悪くないはずだ。結界管理局は待遇もいい。首席になれなかった私には、十分すぎる赴任先だ。
「本当に南でいいのかね」
院長が、白い髭の奥から私を見た。
「クラインベルク君は、君が選ぶほうを先に決めさせてやってくれと言っていたよ。自分は残ったほうでいい、とね」
「……あの人らしいですね。どちらでも勝てる自信があるんでしょう」
「さて、どうだろうね」
院長は意味ありげに笑ったけれど、それ以上は何も言わなかった。
ペンを手に取る。
肩の上のペルラが、落ち着かない様子で足踏みをした。
「ペルラ、じっとしていて」
ペン先をインクにつけ、署名欄に当てる。
その瞬間、ペルラが私の肩を蹴って飛び立った。
「ペルラ!?」
開いていた窓から、白い翼が外へ飛び出していく。
西へ。塔の西の端へ。
テオドールの研究室がある方角だ。
背筋が凍った。院長室から西の端までは、どう少なく見積もっても百歩以上ある。
「待ちなさい、ペルラ! そっちは駄目!」
使い魔は、主人から五十歩以上離れると、契約の魔力が途切れる。離れれば離れるほど体は重くなり、羽ばたけなくなる。無理に越えれば、命に関わる。
ペルラが、それを知らないはずがない。
私は院長の制止も聞かずに部屋を飛び出した。
廊下を走る。階段を駆け下りる。息が切れても止まれない。
(どうして。どうしてそんな無茶を)
中庭に出たとき、空の上でペルラの羽ばたきが乱れるのが見えた。白い体が、ぐらりと傾く。
まだ遠い。私の足では間に合わない。
ペルラが、落ちていく。
「ペルラ——!」
叫んだ瞬間、西の塔の窓から黒い影が飛び出した。
カシスだ。黒猫が窓枠を蹴り、壁を駆け下りながら、落ちてくるペルラの真下へ走っていく。
その後ろから、テオドールが窓を乗り越え、風をまとって中庭へ飛び降りてきた。
彼が着地しながら片手を振るう。浮遊の術式。けれど距離がありすぎて、ペルラまでわずかに届かない。
私も走りながら手を伸ばした。
風の術式。落下を受け止める柔らかな気流。私一人でも、やはり届かない。
でも。
(あの人の術式なら、知っている)
六年間、毎月読んできた答案の写し。あの人がどんなふうに魔力を編むのか、私は誰よりもよく知っている。
あの演習の日、打ち合わせもなしに陣が閉じたのは、偶然なんかじゃなかった。
テオドールの浮遊の術式に、私の風を重ねる。
彼の魔力が、一瞬驚いたように揺れて、それから私の風を受け入れた。
二つの術式が一つに編み上がり、淡い光の網になる。
その網が、地面すれすれでペルラの体をふわりと受け止めた。
カシスが網の下に滑り込み、ペルラの体に自分の体をぴったりと寄せた。
私とテオドールは、ほとんど同時にペルラのそばに膝をついた。
ペルラは目を閉じて、ぐったりしていた。私が手を触れると、契約の魔力が流れ込み、白い胸がゆっくりと上下を始める。
「……よかった」
声が震えた。
ペルラがうっすらと目を開けて、私ではなく、隣の黒猫を見た。
「ホォー」
弱々しい声だった。カシスが「にゃあ」と答えて、ペルラの頬をなめる。
ペルラはカシスの体に頭をすり寄せて、安心したようにまた目を閉じた。
その姿を見て、ようやく分かった。
研究室の窓辺。消えたノート。資料室。隠された傘。
「……この子たち、ずっと」
「ああ」
隣で、テオドールが低く言った。
「会いたかったんだろう。俺たちが離れるたびに、こいつらも引き離されていた」
そして、私が南の書類に署名しようとしたから。
北と南に分かれたら、二度と会えなくなるから。
だからペルラは、五十歩の決まりを破ってまで、あの人のもとへ飛んだのだ。
「馬鹿な子……」
ペルラの背中をなでながら、涙がこぼれた。
テオドールが、黙って私の手の甲に自分の手を重ねた。
驚いて顔を上げると、彼はまっすぐ私を見ていた。いつもの皮肉な顔ではなかった。
そのとき、カシスがテオドールの上着の内ポケットに前足を突っ込んだ。
引っかけられたものが、ぱさりと地面に落ちる。
水色の髪紐だった。
色はあせているけれど、見間違えるはずがない。
「これ……私の」
入学試験の日になくした、母の形見の髪紐。どこを探しても見つからなかった。
「どうして、あなたが」
テオドールは髪紐とカシスを交互に見て、観念したように目を閉じた。
「試験の日に拾った。返そうとして、声をかけられなかった」
「六年も?」
「六年も、だ」
彼は髪紐を拾い上げ、私の手のひらにそっと乗せた。
「アーデン。……いや、ルチア」
初めて、名前を呼ばれた。
「俺は、入学試験の日からずっと、お前しか見ていない。お前の術式を見て、こんなに綺麗に魔法を組む人間がいるのかと思った。それからずっと、お前に負けたくなくて、お前に見ていてほしくて、首席にしがみついていた」
言葉が、出てこない。
「北でも南でもいい。お前が行くほうに、俺も行く。……だから、一人で決めないでくれ」
頭が真っ白になった。
口を開けば、きっと憎まれ口が出てくる。六年間、ずっとそうだったから。
でも、膝の上でペルラとカシスが寄り添っているのを見たら、なんだか全部が馬鹿らしくなった。
この子たちは、命がけで会いに行ったのだ。
私は二点の差を言い訳に、六年も何をしていたのだろう。
「……私も」
声が掠れる。
「私も、あなたの答案、全部書き写して持っています。悔しくて、でも綺麗で。毎月、夜中まで読んでいました」
テオドールが、目を見開いた。
「綺麗な術式ねって、毎回つぶやいていました。……ペルラしか聞いていませんでしたけど」
彼の耳が、見たことがないほど赤くなった。
私は手のひらの髪紐を見下ろして、それから、そっと彼に差し出した。
「……結んでもらえますか。六年分、遅れた分です」
テオドールは一瞬固まって、それからおそるおそる髪紐を受け取った。
首席の魔導師とは思えないほど、指先がぎこちない。二度ほど結び目がほどけて、三度目でようやく、私の髪に水色の紐が収まった。
「……似合う」
ぽつりと落ちた声に、今度は私の顔が熱くなった。
「『悪くない』以外の褒め言葉、初めて聞きました」
「六年間、毎晩練習していた」
「何をですか」
「普通に話す練習だ。……一度も成功しなかったが」
思わず笑ってしまった。笑いながら、また涙がにじんだ。
膝の上で、ペルラがうっすら目を開けて、満足そうに鳴いた。
「ホォー」
◆ペルラ視点◆
面談は、仕切り直しになった。
主人たちは院長の前で二人並んで頭を下げ、「同じ赴任先を希望します」と申し出た。
院長は白い髭をなでながら、「ようやくかね」と笑った。どうやら六年分、全部お見通しだったらしい。
行き先は南の港町。北の観測所には、ちょうど三番手の学生が手を挙げたそうだ。
港町の宿舎は、隣り合った二部屋。間の壁には扉が一つあって、その扉は、引っ越した初日から開けっぱなしになっている。
……もっとも、主人たちはまだ手をつなぐだけで真っ赤になっている。
「ル、ルチア。荷ほどき、手伝うか」
「け、結構です。テオドールこそ、本棚を組み立てるんでしょう」
名前を呼ぶたびに、二人そろって目をそらす始末だ。六年もかけてこれなのだから、先が思いやられる。
それでも、少しずつ変わってはいる。
今朝、テオドールは扉の向こうから顔を出して、「おはよう」と言った。六年間練習してきた、あの一言だ。
主人は目を丸くして、それから小さく「おはようございます」と返した。水色の髪紐を揺らして。
たったそれだけのことで、テオドールは朝から本棚の板を三回も逆さまに打ちつけている。
「なあ、ペルラ」
窓辺で、カシスが私の隣に丸くなった。
「ご主人たち、あれでうまくいくのかね」
「いきますわ。あの二人、意地を張るのをやめたら、驚くほど似た者同士ですもの」
「オレたちみたいに?」
「……私たちは似ていませんわ」
「そうか? 素直じゃないところとか、そっくりだと思うけど」
私はくちばしで、カシスの耳を軽くつついた。
カシスは嬉しそうに喉を鳴らした。
開けっぱなしの扉のそばには、テオドールが自分で作った寝床が二つ並んでいる。白い羽毛を敷いた小さな止まり木と、黒い毛布を敷いた籠。
ぴったりくっつけて、置いてある。
「……ご主人も、たまには気が利くな」
カシスが籠に飛び込み、私を見上げた。
私は止まり木から降りて、その隣に体を寄せた。もう、五十歩を数える必要はない。
あの日、墜ちていく途中で、私は確かに見た。
中庭を走ってくる主人と、窓から飛び降りてくるテオドールと、壁を駆け下りてくる黒い猫。
二人と一匹、そろってひどい顔をしていた。
思い出すと、今でも少しだけ胸の奥がくすぐったい。梟の誇りを捨てた甲斐は、十分すぎるほどあったようだ。
窓の外には、海が光っている。
主人たちは、まだぎこちなく本棚の前で言い合いをしている。けれどその声には、もうどこにも憎まれ口の響きがなかった。
まったく。
私たちのほうが、よほど上手に愛し合っていますわ。
それでも、あの二人が追いつくのを、のんびり待ってあげることにしましょう。
カシスの温かい毛並みに顔をうずめて、私は目を閉じた。
(完)




