同じ音を立てるな
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臼が二度、鳴った。
三度目を挽こうとした手を、後ろから押さえられた。
「ハツ」
祖母の手だった。乾いていて、熱い。爪が根元まで短く削ってある。
「昨日も、この刻に挽いたろう」
窓の外はまだ薄明るい。西の空が桃色で、井戸のほうで蛙が鳴いている。麦を挽き終えてしまいたかっただけだ、とハツは言おうとして、やめた。祖母の指が、まだ手首から離れない。
「明日にしろ」祖母は言った。「明日は朝のうちだ」
祖母は臼の蓋を閉め、上から濡れ布巾をかぶせた。それで音は死んだ。
その晩、麦は挽かなかった。粥は水っぽくて、ハツは二杯食べた。
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村の朝は、くじから始まる。
広場の欅の下に、竹を割った札が伏せて並べてある。表には何も書いていない。裏に、墨で刻が書いてある。一の刻から八の刻まで。家ごとに一枚ずつ引く。
ハツは背伸びをして、真ん中あたりの一枚を取った。裏を返す。
「五の刻」
「では水汲みだな」父が受け取って、腰の袋にしまった。「機は夜にまわす」
水を汲む刻、機を織る刻、麦を挽く刻。三つとも、毎日くじで決める。前の日に何の刻を引いたかは、誰も覚えていない。覚えないようにしている。
隣のトメ婆が二の刻を引いて、露骨に舌打ちをした。二の刻に水を汲むと、井戸端がまだ暗い。
「引き直しはきかんぞ」と父が言った。
「わかっとる」トメ婆は札を伏せ直した。「わかっとるよ。ヤスケんとこを見とるからな」
子どもらが札をかき混ぜる。混ぜるのは子どもの役目だ。大人がやると手の癖が出る、と決まっている。ハツも小さい頃はよく混ぜた。両手で、順を考えないように、目をつぶって。
ヤスケは、三年前に死んだ男だ。
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ヤスケは毎朝、日の出と一緒に井戸に来た。
几帳面な男だった。誰よりも早く水を汲み、汲んだあとに桶を井戸の縁に置く。置くとき、必ず縁にこつんと当てる。その音で、村の者は「ああ、明けたな」と思って起きた。便利だった。だから誰も止めなかった。
その年の夏、朝、桶の音がした。
いつも通りの刻に、いつも通り、こつんと。
けれどヤスケはその朝、熱を出して寝ていた。家の者が全員、それを見ていた。
ヤスケは三日、家から出なかった。四日目の朝、寝床が空だった。
見つかったのは、麦の中だった。仰向けに倒れて、目を開けていた。傷はどこにもなかった。血も出ていない。着物も乱れていない。
村の者は、それを見て、体だけがある、と言った。
ヤスケを運んだあと、村は井戸端に杭を打って、桶を縁に置くことを禁じた。桶は必ず地面に置く。地面なら、音がしない。
ハツはその杭を、毎日見て育った。
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夏が濃くなった。
夜になっても土が冷えない。板間に寝ころんでいると、床の下から熱が這い上がってくる。虫の声は厚い。厚すぎて、かえって何も聞こえないのと同じだ。ただ、その厚みは一定ではない。波のように、大きくなっては小さくなる。ふくらんで、しぼむ。それが一晩じゅう繰り返される。
その波の向こうで、祖母が咳をした。
ハツは目を開けた。
次の晩も、咳をした。
三日目、ハツは波を数えていた。十三回ふくらんで、しぼんだところで、祖母が咳をした。前の晩と、同じところだった。
四日目も、十三回だった。
五日目も、十三回だった。
朝、水を汲みながら、ハツは父に言った。
「婆さまの咳、五晩とも同じ刻だった。虫の波を十三、数えたところ」
桶の縁を握った父の指が、白くなった。
父はしばらく黙って、それから言った。
「婆さまには、言うな」
「なんで」
「気づかせると、余計に固まる」父は桶を地面に置いた。「気にすると、人は同じことをやる。気にせんでも、やる。婆さまはもう、どっちにしても、やる」
「ヤスケさんみたいに?」
父は答えなかった。それが答えだった。
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その晩から、ハツは祖母の音をぜんぶ数えるようになった。
朝、祖母は同じ足取りで戸を開ける。敷居の同じところを踏む。うちの敷居は真ん中が減っていて、そこを踏むと、ぎ、と鳴って、それからみ、と短く鳴る。二段の鳴り方をする敷居は、村でうちだけだ。
箸を置く音。鍋の縁を叩いて汁を落とす音、二回。必ず二回。三回のことは一度もない。
夜、寝る前に腰を伸ばして、長く息を吐く音。
ハツは一度、祖母の枕元の水差しを、そっと二尺ほど動かしておいたことがある。手が空を掴めば、拍が狂うと思った。狂えば、少しは変わると思った。
祖母は暗闇の中で腕を伸ばし、動かした先の水差しを、迷わずに掴んだ。掴んで、飲んで、元とは違う場所に戻した。
次の晩、祖母はまた、その新しい場所から迷わずに掴んだ。
ハツはその晩、眠れなかった。
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井戸端に行ったのは、喉が渇いたからだ。
外はぬるい。月はない。桶を落として、縄を引いて、水を汲んで、飲んだ。桶は、杭のところで地面に置いた。
その途中で、臼の音がした。
ご、ご、と二度。
ハツは口を離した。家を見た。窓は暗い。父も母も祖母も寝ている。臼には布巾がかぶせてある。
音は、家からではなかった。
畑の向こうだった。麦の先、まだ誰も住んでいない野のほうから、ご、ご、と鳴った。
二度で、やんだ。
ハツが五日前に挽いた回数と、同じだった。祖母に止められて、三度目を挽かなかった、あの晩と。
それから、敷居の音がした。ぎ、と一度、それからみ、と短く。二段の鳴り方だった。
最後に、咳がした。
ハツは虫の波を数えていなかったが、数えるまでもなかった。体が覚えていた。ちょうど、そこだった。
ハツは水も桶もそのままにして、家に駆け込んだ。
祖母は寝ていた。口を半分開けて、静かに息をしていた。咳はしていなかった。
外で、もう一度、咳がした。
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「野のもんだ」
朝、父は鎌を研ぎながら言った。砥石を滑らせる速さが、昨日とは違っていた。父はわざとそうしている。ハツにはもう分かる。
「あれは、同じことを何べんも聞かされると、覚える」父は言った。「言葉は覚えん。人が同じ言葉を毎日おんなじ刻に言うことは、まずないからな。覚えるのは、決まった刻に決まって鳴るもんだけだ。桶の音、臼の音、戸の音、咳」
「覚えて、どうするの」
「その刻に、そこへ来る」
父は刃を持ち上げて、光にかざした。
「ヤスケは几帳面だった。毎朝、独りで井戸に来た。何刻にどこで独りになるか、あれに教えとったのと同じだ」
ハツは、竹の札を思った。子どもが目をつぶって混ぜる、あの札を。
「だから、刻をずらすの」
「ずらすんじゃない。決めんのだ」父は鎌を置いた。「決めた途端に、覚えられる。ずらす順を決めても、その順を覚えられる。だからくじを引く。子どもに混ぜさせる。順のない順にする」
「婆さまは」
「婆さまは、もうずらせん」
父は立ち上がった。
「歳を取ると、そうなる。手が刻を覚えてしまう。頭で忘れても、手が覚えとる」
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野送りの夜が来た。
夏の盛りに、年に一度だけやる。日が落ちてから、村じゅうの者が松明を持って、畑の縁をぐるりと歩く。歩きながら、板を打つ。太鼓を打つ。鍋の底を叩く者もいる。子どもは鈴を振る。
うるさい。とにかく、うるさい。
ハツは小さい頃、この夜が好きだった。明るくて、大声を出してよくて、誰にも叱られない。
列の前を歩いていたトメ婆が、ハツの鈴を見て言った。
「もっと振れ。手が痛くなるまで振れ」
「なんで、一晩だけこんなに鳴らすの」
「みんなで一遍に鳴らせばな」トメ婆は太鼓を打った。「どれがどの家の音か、分からんようになる」
ハツは列を見渡した。二百人ばかりが、ばらばらの物を、ばらばらの拍で叩いていた。ばらばらなのに、遠くから見れば一枚の音の壁だった。
虫の声は、その下に完全に埋もれて、聞こえなかった。
祖母も列にいた。歩けないので、荷車に乗せられて、膝の上で拍子木を打っていた。
その拍子木が、途中から、遅れはじめた。
周りの誰の拍とも合っていない。合っていないだけなら、それは他の者も同じだ。だが祖母の拍子木は、一定だった。狂いなく、規則正しく、村の音の壁の中で、ただ一本だけ、まっすぐな筋になっていた。
父が足を止めた。
父は荷車に近寄って、祖母から拍子木を取り上げた。ずいぶん強く取り上げた。
祖母は怒らなかった。取り上げられた手を、しばらく見ていた。
それから、その手が、膝の上で同じ拍を打ちはじめた。
拍子木がなくても、音はほとんどしなくても、祖母の手は打っていた。
ハツは鈴を振りつづけた。手が痛くなるまで振った。
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祖母が出ていったのは、その二晩あとだった。
ハツは目を覚ましていた。祖母が出るなら今夜だと、なぜだか分かっていた。
祖母は敷居を踏んだ。ぎ、と一度、それからみ、と短く。いつも通りだった。
ハツは追った。
麦の間を抜けて、野との境まで来て、祖母は止まった。
その先で、鳴っていた。
臼の音。ご、ご、と二度。敷居の音。ぎ、み。咳。虫の波が十三回ふくらんで、しぼんだところで、寸分も違わずに。
姿は何もない。麦しかない。ただ、風もないのに、麦の穂がその拍に合わせて揺れていた。
「婆さま」
祖母は振り向かなかった。
「あれはな」祖母は言った。「わしの音だ」
「帰ろう」
「わしがこしらえたんだ。毎日、毎日、おんなじ刻に、外へこぼしとった。おまえらにやったんじゃない。うっかりこぼした」
祖母は袖で口を拭った。咳はしなかった。この人が咳をこらえるところを、ハツは初めて見た。
「こぼしたもんは、拾いに行くもんだ」
「そんなの、拾えないよ」
「拾えんでも、連れてはいける」祖母は言った。「あれはわしの音を追う。わしが野へ入れば、あれもついてくる。村には来ん」
「婆さまが行ったら、あれは村に来ないの」
「来ん」
「ほんとに?」
祖母は、そこで初めて振り向いた。皺の中に、目だけがはっきりあった。
「ハツ。くじを引け。毎日だ。面倒でも、雨でも、いっぺんも欠かさずにな」
それから、祖母は歩いた。
麦を分けて入っていく足音は、いつもの祖母の足音とは違っていた。歩幅がばらばらだった。三歩で止まり、二歩で止まり、四歩進んで、また止まる。
わざとだ、とハツには分かった。祖母は最後まで、自分の拍を崩そうとしていた。崩れた拍なら、覚えられないと思ったのだ。
麦が閉じた。
鳴っていたものが、いっぺん、黙った。
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朝、麦の中に、祖母の草履が片方あった。もう片方は見つからなかった。
祖母は見つからなかった。
父は何も訊かなかった。ハツが泣かなかったので、母が代わりに泣いた。父は鎌を研いだ。昨日とは違う速さで。
昼、広場でくじを引いた。ハツが引いた。四の刻だった。
その晩から、外の音は変わった。
臼の音がする。敷居の音がする。咳がする。
それに、袖で口を拭う音が増えた。腰を伸ばして、長く息を吐く音が増えた。
そのぜんぶが、毎晩、同じ刻に鳴る。虫の波が十三回ふくらんで、しぼんだところで、正確に。
祖母は最後に、歩幅を崩して歩いた。三歩、二歩、四歩。
その足音も、聞こえる。
毎晩、寸分も違わない三歩と、二歩と、四歩で。
祖母は崩そうとしたのだ、とハツは思う。届かなかったのだ。あれはもう祖母の拍ではない。祖母から覚えたものが、祖母より上手に、祖母を繰り返している。
村には来ない。それは本当だった。三年経っても、あれは野の縁から出てこない。
ハツは毎朝、くじを引く。子どもが目をつぶって混ぜた札を、目をつぶって取る。水を汲む刻も、機を織る刻も、麦を挽く刻も、毎日ばらばらだ。一度も欠かしていない。
ただ一つだけ、どうしてもずらせないことがある。
夜、板間に寝ころんで、外の音を数えてしまう刻だ。
虫の波が十三回ふくらんで、しぼむ、あの刻だ。
ハツは息を殺して、聞いている。
もう千日、一度も欠かさずに。
(了)




