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同じ音を立てるな

作者: たなかじろう
掲載日:2026/07/25

---


 臼が二度、鳴った。


 三度目を挽こうとした手を、後ろから押さえられた。


「ハツ」


 祖母の手だった。乾いていて、熱い。爪が根元まで短く削ってある。


「昨日も、この刻に挽いたろう」


 窓の外はまだ薄明るい。西の空が桃色で、井戸のほうで蛙が鳴いている。麦を挽き終えてしまいたかっただけだ、とハツは言おうとして、やめた。祖母の指が、まだ手首から離れない。


「明日にしろ」祖母は言った。「明日は朝のうちだ」


 祖母は臼の蓋を閉め、上から濡れ布巾をかぶせた。それで音は死んだ。


 その晩、麦は挽かなかった。粥は水っぽくて、ハツは二杯食べた。


---


 村の朝は、くじから始まる。


 広場の欅の下に、竹を割った札が伏せて並べてある。表には何も書いていない。裏に、墨で刻が書いてある。一の刻から八の刻まで。家ごとに一枚ずつ引く。


 ハツは背伸びをして、真ん中あたりの一枚を取った。裏を返す。


「五の刻」


「では水汲みだな」父が受け取って、腰の袋にしまった。「機は夜にまわす」


 水を汲む刻、機を織る刻、麦を挽く刻。三つとも、毎日くじで決める。前の日に何の刻を引いたかは、誰も覚えていない。覚えないようにしている。


 隣のトメ婆が二の刻を引いて、露骨に舌打ちをした。二の刻に水を汲むと、井戸端がまだ暗い。


「引き直しはきかんぞ」と父が言った。


「わかっとる」トメ婆は札を伏せ直した。「わかっとるよ。ヤスケんとこを見とるからな」


 子どもらが札をかき混ぜる。混ぜるのは子どもの役目だ。大人がやると手の癖が出る、と決まっている。ハツも小さい頃はよく混ぜた。両手で、順を考えないように、目をつぶって。


 ヤスケは、三年前に死んだ男だ。


---


 ヤスケは毎朝、日の出と一緒に井戸に来た。


 几帳面な男だった。誰よりも早く水を汲み、汲んだあとに桶を井戸の縁に置く。置くとき、必ず縁にこつんと当てる。その音で、村の者は「ああ、明けたな」と思って起きた。便利だった。だから誰も止めなかった。


 その年の夏、朝、桶の音がした。


 いつも通りの刻に、いつも通り、こつんと。


 けれどヤスケはその朝、熱を出して寝ていた。家の者が全員、それを見ていた。


 ヤスケは三日、家から出なかった。四日目の朝、寝床が空だった。


 見つかったのは、麦の中だった。仰向けに倒れて、目を開けていた。傷はどこにもなかった。血も出ていない。着物も乱れていない。


 村の者は、それを見て、体だけがある、と言った。


 ヤスケを運んだあと、村は井戸端に杭を打って、桶を縁に置くことを禁じた。桶は必ず地面に置く。地面なら、音がしない。


 ハツはその杭を、毎日見て育った。


---


 夏が濃くなった。


 夜になっても土が冷えない。板間に寝ころんでいると、床の下から熱が這い上がってくる。虫の声は厚い。厚すぎて、かえって何も聞こえないのと同じだ。ただ、その厚みは一定ではない。波のように、大きくなっては小さくなる。ふくらんで、しぼむ。それが一晩じゅう繰り返される。


 その波の向こうで、祖母が咳をした。


 ハツは目を開けた。


 次の晩も、咳をした。


 三日目、ハツは波を数えていた。十三回ふくらんで、しぼんだところで、祖母が咳をした。前の晩と、同じところだった。


 四日目も、十三回だった。


 五日目も、十三回だった。


 朝、水を汲みながら、ハツは父に言った。


「婆さまの咳、五晩とも同じ刻だった。虫の波を十三、数えたところ」


 桶の縁を握った父の指が、白くなった。


 父はしばらく黙って、それから言った。


「婆さまには、言うな」


「なんで」


「気づかせると、余計に固まる」父は桶を地面に置いた。「気にすると、人は同じことをやる。気にせんでも、やる。婆さまはもう、どっちにしても、やる」


「ヤスケさんみたいに?」


 父は答えなかった。それが答えだった。


---


 その晩から、ハツは祖母の音をぜんぶ数えるようになった。


 朝、祖母は同じ足取りで戸を開ける。敷居の同じところを踏む。うちの敷居は真ん中が減っていて、そこを踏むと、ぎ、と鳴って、それからみ、と短く鳴る。二段の鳴り方をする敷居は、村でうちだけだ。


 箸を置く音。鍋の縁を叩いて汁を落とす音、二回。必ず二回。三回のことは一度もない。


 夜、寝る前に腰を伸ばして、長く息を吐く音。


 ハツは一度、祖母の枕元の水差しを、そっと二尺ほど動かしておいたことがある。手が空を掴めば、拍が狂うと思った。狂えば、少しは変わると思った。


 祖母は暗闇の中で腕を伸ばし、動かした先の水差しを、迷わずに掴んだ。掴んで、飲んで、元とは違う場所に戻した。


 次の晩、祖母はまた、その新しい場所から迷わずに掴んだ。


 ハツはその晩、眠れなかった。


---


 井戸端に行ったのは、喉が渇いたからだ。


 外はぬるい。月はない。桶を落として、縄を引いて、水を汲んで、飲んだ。桶は、杭のところで地面に置いた。


 その途中で、臼の音がした。


 ご、ご、と二度。


 ハツは口を離した。家を見た。窓は暗い。父も母も祖母も寝ている。臼には布巾がかぶせてある。


 音は、家からではなかった。


 畑の向こうだった。麦の先、まだ誰も住んでいない野のほうから、ご、ご、と鳴った。


 二度で、やんだ。


 ハツが五日前に挽いた回数と、同じだった。祖母に止められて、三度目を挽かなかった、あの晩と。


 それから、敷居の音がした。ぎ、と一度、それからみ、と短く。二段の鳴り方だった。


 最後に、咳がした。


 ハツは虫の波を数えていなかったが、数えるまでもなかった。体が覚えていた。ちょうど、そこだった。


 ハツは水も桶もそのままにして、家に駆け込んだ。


 祖母は寝ていた。口を半分開けて、静かに息をしていた。咳はしていなかった。


 外で、もう一度、咳がした。


---


「野のもんだ」


 朝、父は鎌を研ぎながら言った。砥石を滑らせる速さが、昨日とは違っていた。父はわざとそうしている。ハツにはもう分かる。


「あれは、同じことを何べんも聞かされると、覚える」父は言った。「言葉は覚えん。人が同じ言葉を毎日おんなじ刻に言うことは、まずないからな。覚えるのは、決まった刻に決まって鳴るもんだけだ。桶の音、臼の音、戸の音、咳」


「覚えて、どうするの」


「その刻に、そこへ来る」


 父は刃を持ち上げて、光にかざした。


「ヤスケは几帳面だった。毎朝、独りで井戸に来た。何刻にどこで独りになるか、あれに教えとったのと同じだ」


 ハツは、竹の札を思った。子どもが目をつぶって混ぜる、あの札を。


「だから、刻をずらすの」


「ずらすんじゃない。決めんのだ」父は鎌を置いた。「決めた途端に、覚えられる。ずらす順を決めても、その順を覚えられる。だからくじを引く。子どもに混ぜさせる。順のない順にする」


「婆さまは」


「婆さまは、もうずらせん」


 父は立ち上がった。


「歳を取ると、そうなる。手が刻を覚えてしまう。頭で忘れても、手が覚えとる」


---


 野送りの夜が来た。


 夏の盛りに、年に一度だけやる。日が落ちてから、村じゅうの者が松明を持って、畑の縁をぐるりと歩く。歩きながら、板を打つ。太鼓を打つ。鍋の底を叩く者もいる。子どもは鈴を振る。


 うるさい。とにかく、うるさい。


 ハツは小さい頃、この夜が好きだった。明るくて、大声を出してよくて、誰にも叱られない。


 列の前を歩いていたトメ婆が、ハツの鈴を見て言った。


「もっと振れ。手が痛くなるまで振れ」


「なんで、一晩だけこんなに鳴らすの」


「みんなで一遍に鳴らせばな」トメ婆は太鼓を打った。「どれがどの家の音か、分からんようになる」


 ハツは列を見渡した。二百人ばかりが、ばらばらの物を、ばらばらの拍で叩いていた。ばらばらなのに、遠くから見れば一枚の音の壁だった。


 虫の声は、その下に完全に埋もれて、聞こえなかった。


 祖母も列にいた。歩けないので、荷車に乗せられて、膝の上で拍子木を打っていた。


 その拍子木が、途中から、遅れはじめた。


 周りの誰の拍とも合っていない。合っていないだけなら、それは他の者も同じだ。だが祖母の拍子木は、一定だった。狂いなく、規則正しく、村の音の壁の中で、ただ一本だけ、まっすぐな筋になっていた。


 父が足を止めた。


 父は荷車に近寄って、祖母から拍子木を取り上げた。ずいぶん強く取り上げた。


 祖母は怒らなかった。取り上げられた手を、しばらく見ていた。


 それから、その手が、膝の上で同じ拍を打ちはじめた。


 拍子木がなくても、音はほとんどしなくても、祖母の手は打っていた。


 ハツは鈴を振りつづけた。手が痛くなるまで振った。


---


 祖母が出ていったのは、その二晩あとだった。


 ハツは目を覚ましていた。祖母が出るなら今夜だと、なぜだか分かっていた。


 祖母は敷居を踏んだ。ぎ、と一度、それからみ、と短く。いつも通りだった。


 ハツは追った。


 麦の間を抜けて、野との境まで来て、祖母は止まった。


 その先で、鳴っていた。


 臼の音。ご、ご、と二度。敷居の音。ぎ、み。咳。虫の波が十三回ふくらんで、しぼんだところで、寸分も違わずに。


 姿は何もない。麦しかない。ただ、風もないのに、麦の穂がその拍に合わせて揺れていた。


「婆さま」


 祖母は振り向かなかった。


「あれはな」祖母は言った。「わしの音だ」


「帰ろう」


「わしがこしらえたんだ。毎日、毎日、おんなじ刻に、外へこぼしとった。おまえらにやったんじゃない。うっかりこぼした」


 祖母は袖で口を拭った。咳はしなかった。この人が咳をこらえるところを、ハツは初めて見た。


「こぼしたもんは、拾いに行くもんだ」


「そんなの、拾えないよ」


「拾えんでも、連れてはいける」祖母は言った。「あれはわしの音を追う。わしが野へ入れば、あれもついてくる。村には来ん」


「婆さまが行ったら、あれは村に来ないの」


「来ん」


「ほんとに?」


 祖母は、そこで初めて振り向いた。皺の中に、目だけがはっきりあった。


「ハツ。くじを引け。毎日だ。面倒でも、雨でも、いっぺんも欠かさずにな」


 それから、祖母は歩いた。


 麦を分けて入っていく足音は、いつもの祖母の足音とは違っていた。歩幅がばらばらだった。三歩で止まり、二歩で止まり、四歩進んで、また止まる。


 わざとだ、とハツには分かった。祖母は最後まで、自分の拍を崩そうとしていた。崩れた拍なら、覚えられないと思ったのだ。


 麦が閉じた。


 鳴っていたものが、いっぺん、黙った。


---


 朝、麦の中に、祖母の草履が片方あった。もう片方は見つからなかった。


 祖母は見つからなかった。


 父は何も訊かなかった。ハツが泣かなかったので、母が代わりに泣いた。父は鎌を研いだ。昨日とは違う速さで。


 昼、広場でくじを引いた。ハツが引いた。四の刻だった。


 その晩から、外の音は変わった。


 臼の音がする。敷居の音がする。咳がする。


 それに、袖で口を拭う音が増えた。腰を伸ばして、長く息を吐く音が増えた。


 そのぜんぶが、毎晩、同じ刻に鳴る。虫の波が十三回ふくらんで、しぼんだところで、正確に。


 祖母は最後に、歩幅を崩して歩いた。三歩、二歩、四歩。


 その足音も、聞こえる。


 毎晩、寸分も違わない三歩と、二歩と、四歩で。


 祖母は崩そうとしたのだ、とハツは思う。届かなかったのだ。あれはもう祖母の拍ではない。祖母から覚えたものが、祖母より上手に、祖母を繰り返している。


 村には来ない。それは本当だった。三年経っても、あれは野の縁から出てこない。


 ハツは毎朝、くじを引く。子どもが目をつぶって混ぜた札を、目をつぶって取る。水を汲む刻も、機を織る刻も、麦を挽く刻も、毎日ばらばらだ。一度も欠かしていない。


 ただ一つだけ、どうしてもずらせないことがある。


 夜、板間に寝ころんで、外の音を数えてしまう刻だ。


 虫の波が十三回ふくらんで、しぼむ、あの刻だ。


 ハツは息を殺して、聞いている。


 もう千日、一度も欠かさずに。


(了)

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