早春の瞳〜あの春、家庭教師として出会った彼女〜
塾が突然つぶれたのは、春になる少し前だった。
行き場をなくしたのは、生徒たちだけではなかった。
私自身もまた、どこへ向かえばいいのかわからずにいた。
あの子とは、もう会えないはずだった。
そんなある日、一本の電話がかかってきた。
以前教えていた生徒の母親からだった。
「もしよろしければ、家庭教師をお願いできませんか」
その生徒は、教室のいちばん後ろの席で、いつも静かにノートを取っている女の子だった。
自分から話すことはほとんどなかったが、問いかけると、少し間をおいてから正確に答えた。
家庭教師として通い始めても、その印象は変わらなかった。
数学だけを教えていた。
彼女は相変わらず口数が少なく、問題を解いているあいだも、鉛筆の先だけを見つめていた。
だが、何度か通ううちに、少しずつ変わっていった。
問題が解けたとき、小さく息をつき、ほんのわずかに口元がゆるむ。
笑っている、というほどではない。
それでも、その変化に気づくたびに、私は目をそらした。見てはいけないものを見てしまったような気がしたからだ。
ある日、帰り道に彼女の家の近くまで送ることになった。
途中から小学生の弟が合流し、三人で歩いた。
その男の子はよくしゃべる子だった。
学校のことやゲームの話をしばらく続けたあと、不意にこちらを見上げた。
「ねえ」
少し間をおいて、はにかむように言った。
「先生、お姉ちゃんのこと、好きなん?」
私は笑ってごまかすしかなかった。
子どもはすぐに別の話題に興味を移し、また先へ歩いていった。
その背中を見送りながら、春が近づいていた。
ある日、合格の知らせが届いた。
電話の声は短かったが、その奥に確かな明るさがあった。
「受かりました」
それだけ言って、彼女は少し笑ったようだった。
最後の指導の日、駅前の喫茶店に入った。
昼を少し過ぎた時間で、客もまばらだった。
彼女は制服のまま、いつもより少しだけ姿勢よく座っていた。
コーヒーにはほとんど手をつけなかった。
カップの縁にだけ指を添えていた。
「ありがとうございました」
そう言って、彼女は頭を下げた。
教えることは、なかった。
店を出ると、春の風がまだ少し冷たかった。
彼女は一度だけこちらを見て、右手を差し出した。
その手は、思っていたよりもしっかりしていた。
私はそれを握った。
短い握手だった。
それだけで、十分だった。
春のはじめになると、理由もなく、あの瞳を思い出す。
家庭教師として教えていた頃の記憶をもとに書きました。
特別な出来事ではありませんが、今でも春になると思い出す場面です。




