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早春の瞳〜あの春、家庭教師として出会った彼女〜

作者: 種村朔
掲載日:2026/05/01

塾が突然つぶれたのは、春になる少し前だった。

行き場をなくしたのは、生徒たちだけではなかった。

私自身もまた、どこへ向かえばいいのかわからずにいた。

あの子とは、もう会えないはずだった。


そんなある日、一本の電話がかかってきた。

以前教えていた生徒の母親からだった。


「もしよろしければ、家庭教師をお願いできませんか」


その生徒は、教室のいちばん後ろの席で、いつも静かにノートを取っている女の子だった。

自分から話すことはほとんどなかったが、問いかけると、少し間をおいてから正確に答えた。


家庭教師として通い始めても、その印象は変わらなかった。


数学だけを教えていた。

彼女は相変わらず口数が少なく、問題を解いているあいだも、鉛筆の先だけを見つめていた。


だが、何度か通ううちに、少しずつ変わっていった。

問題が解けたとき、小さく息をつき、ほんのわずかに口元がゆるむ。


笑っている、というほどではない。

それでも、その変化に気づくたびに、私は目をそらした。見てはいけないものを見てしまったような気がしたからだ。


ある日、帰り道に彼女の家の近くまで送ることになった。

途中から小学生の弟が合流し、三人で歩いた。

その男の子はよくしゃべる子だった。


学校のことやゲームの話をしばらく続けたあと、不意にこちらを見上げた。


「ねえ」


少し間をおいて、はにかむように言った。


「先生、お姉ちゃんのこと、好きなん?」


私は笑ってごまかすしかなかった。

子どもはすぐに別の話題に興味を移し、また先へ歩いていった。


その背中を見送りながら、春が近づいていた。


ある日、合格の知らせが届いた。

電話の声は短かったが、その奥に確かな明るさがあった。


「受かりました」


それだけ言って、彼女は少し笑ったようだった。


最後の指導の日、駅前の喫茶店に入った。

昼を少し過ぎた時間で、客もまばらだった。

彼女は制服のまま、いつもより少しだけ姿勢よく座っていた。


コーヒーにはほとんど手をつけなかった。

カップの縁にだけ指を添えていた。


「ありがとうございました」


そう言って、彼女は頭を下げた。

教えることは、なかった。


店を出ると、春の風がまだ少し冷たかった。


彼女は一度だけこちらを見て、右手を差し出した。

その手は、思っていたよりもしっかりしていた。


私はそれを握った。


短い握手だった。


それだけで、十分だった。


春のはじめになると、理由もなく、あの瞳を思い出す。

家庭教師として教えていた頃の記憶をもとに書きました。

特別な出来事ではありませんが、今でも春になると思い出す場面です。

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