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僕と千影と時々オバケ

作者: 姫乃 只紫

 

 ある日のことです。家に帰ってトイレのドアを開けるとジジイがいました。頭巾を被った、見覚えのないジジイでした。

 少年はドアを閉めました。ほぼ反射でした。それからドアに背を預け、ずるずると背中を滑らせるようにして、その場に腰を下ろしました。

 しかし今のは見間違いではないか、電車の中でケータイのぷよぷよに熱中していた結果眼疲労が自身に見せた幻覚ではないか、眼精疲労と眼疲労の違いを知らない無知蒙昧な輩に前述の「眼疲労」を誤字だと思われてやしないか、いや今そんなことはどうでもいいじゃないか、それよりもジジイだ現実を見なければ、と思い直し、少年は立ち上がると、もう一度ドアを開けました。

 ジジイは変わらずそこにいました。右手にトイレットペーパーではなく巻物を、左手にトイレブラシではなく錫杖(しゃくじょう)を持ち、左右に前鬼と後鬼とかいう鬼神を従えていたところで何ら違和感のないジジイがそこにいました。下半身は洋式便器の中に隠れていて見えませんでした。

 少年はドアを静かに閉めました。今度は反射ではありませんでした。顔には引きつったような微笑が、そして額にはべとべとした(いや)な汗がそれぞれ浮かんでいました。

 こうした非日常に直面した際、常人ならばそれでも今のは幻覚である白昼夢である英語で言うとデイドリームなどと自身に言い聞かせ、どうせ尿意乃至(ないし)便意もしくは両方は一端引っ込んだのだから、ちょっと時間を置いてまた開けてみればいいじゃないか、その時もいたらその時だ、ええいままよ、と多分思うところなのでしょうが、少年はそうは思いませんでした。

 なぜならこれは少年にとって非日常ではなかったからです。

 少年は気分を落ち着かせるため、深呼吸をしました。そういえば何時ぞやの健康番組で深呼吸は心拍数を上昇させるから緊張時にするのは実は良くないんだよ、とかそんなことを言っていたのを思い出しましたが、所詮そこは気分の問題であり、医学的にどうとかそういうレヴェルじゃないでしょ、と思ったのでスルーしました。そして、居間に続くドアを開けました。

「大変だ千影(ちかげ)! トイレにジジイがいる!」

 少年の声は悲鳴に近いものでした。どうやら少年にとって、深呼吸はあまり意味を成さなかったようです。

「あら、またですか。(よう)さま」

 千影と呼ばれた少女が、手許の本に視線を留めたまま、そっけなく応えました。サイズは文庫本のようですが、黒いブックカバーのせいで何の本かまではわかりません。

 尼削ぎに切れ長の眼をした日本人形のような少女でした。ノースリーブワンピースの漆黒が、露出している肌膚(きふ)の純白をいっそう際立出せています。

「それは陽さまの想像上のお爺さまなのではありませんか?」

「……そういう人間の構造上否定しにくい返しは勘弁してくれ。あと林先生ネタは万人には通じない」

 千影が口許に手を添えて、ころころと笑いました。鈴の音を聞いているようでした。

「それにしても、陽さまは本当に色んなモノが視えるのですね。実はそちら側の住人なのではありませんか?」

 千影の平素と変わらぬイントネーションで吐かれる冗談に、少年──陽は呆れたように肩を落とします。とはいえ、そんな千影の態度に落ち着きを取り戻せたこともまた事実。それを内心感謝しつつも、陽は千影の隣に胡坐を掻きました。

「で、僕はどうすればいい?」

「どうすれば──とは?」

 そこで初めて、千影は陽に視線を向けました。

「決まってるだろ。あのジイさんをあそこから追い出すんだよ。でなきゃ落ち着いて用も足せない」

「そのお爺さまが──」

「え?」

「そのお爺さまが陽さまの排尿乃至排便もしくは両方を邪魔したのですか?」

 千影が閉じた本を床に置きました。そして、居住まいを正しました。ふざけた話の割に、千影が陽に向ける眼差しは只管(ひたすら)に真摯でした。しかし排泄は人間が生きていく上で欠かせない行為であることもまた真理。そういった意味で、この誠実な態度は場に相応しいものとも言えました。

「いや、邪魔されたって……だってトイレから生えてたんだぞ? いや、生えてるって言い方は厭だな……。キノコじゃあるまいし。下半身を便器に突っ込んでた? いや、それもそれで厭なことに変わりはないんだけど。とにかくあんな状態でまともに用を足せるわけが」

「それは邪魔された内には入りません」

 千影が口を挟みました。言葉尻を奪われた陽は思わず素っ頓狂な声を上げます。

「はぁ? いや、だっておまっ……。まさかとは思うけど、ぶっかけろとは言わないよな」

「……何をですか?」

 千影が、細い眉を(しか)めました。

「小便だよ小便! それ以外に何があんだよ! 僕があんなジジイで激しい男のソロ活動にでも励むと思うのか!?」

「自慰がお厭ならば──」

「手伝わせないよ!? 絶対あんなジジイの手とかその他借りないよ!? あとそこは僕の気遣いを評価して『ソロ活動』とか『ソロプレイ』とかぼかした表現しようよ! 思いっきり自慰って言っちゃってるし! ってかそういう意味じゃないから! 第一僕が性的な意味でしてもらうとかぶっかけるとかそういうのはちか──」

 そこで、言葉は止まりました。口が餌を求める金魚のようにパクパクと動いています。

「ちか?」

 千影が小首を傾げました。口許には何やら知った風な微笑が浮かんでいました。

 陽はぐうっと喉を鳴らして、言葉を呑みこみました。火照る顔をまるで乙女のように両手で包み隠しました。

 花のように薄紅い千影の唇から妖しげな笑みが零れます。

「陽さまの語彙の豊富さには私舌を巻かずにはいられません。さて、そうまでおっしゃるのであればもう一度お訪ねになってみては?」

「……お訪ねも何も、あそこは家のトイレだ。ジジイの棲家じゃない」

「おっしゃる通りです。ですが、ここはぐっと気持を堪え、今はお爺様の棲家であると──そう仮定して下さい。そして誠実な態度で頼めばよいのです。夜分遅くに申し訳ありません。ここでキジを撃たせて下さい、と」

 我が家のトイレで用を足すだけなのに、丁寧以前にそんな古風な頼み方をしなければならぬ現状を陽は大変理不尽に感じましたが、ひっこんだ尿意が徐々に戻りつつあったことを危惧し、結果その重い腰を上げました。そして、ぱんぱんと二回左右の頬を叩くと、ぶっちゃけ泣きたいような心持で居間を後にしました。


「ガン見だったよ」

 それが、戻ってきた陽の第一声でした。

「肝心の用は足せたのですか?」

「うん、足せた。けど……ガン見だった」

 陽の口許には柔らかな笑み。けれど眼は笑っていませんでした。何か大切なモノを失ってしまった、ほんの少しばかり老いた顔をしていました。

「そうですか。邪魔はされなかったのですね」

「えっ、ああうん、まあね」

「でしたらそれは──トイレの神様でしょう」

 トイレの神様──と陽は訝しむような声音で復唱します。

「ええ、トイレには『厠』と呼ぶ以外にも『ニシ』、『ウラ』、『セッケ』、『センヤ』など多様な呼び名があります。これらはすべて家の裏側を意味する言葉なのです。これはかつての農村社会の家において、トイレは家の背後、すなわち裏に建てられていたことに因ります。『表』は玄関、言わば道に面した外の世界との繋がりを持つ場所、対して『裏』は山と接している場所のこと。そして、人々は山を動物のみならず妖怪たちが住む場所と考え、畏れていました。すなわち、電気のない時代トイレに行くことは妖怪の世界に足を踏み入れることと同義だったのです」

「……話が長いよ千影」

 陽に言われ、千影は小さく眼を見張りました。それから照れたようにもじもじと身を縮めました。用を足せたこともあり、幾分気持に余裕が生まれていたこともあってか、陽はその仕草を素直に愛くるしいなと思いました。

「──とどのつまり、トイレとは異界の入り口なのです。そして、以前も申し上げたように妖怪や神などの鬼神の類は、陽さまのような視える者に引き寄せられる傾向があります」

「で、僕みたいな体質の人間プラスただでさえ妖怪やら神様やらの霊的なあれが出やすい場所ってのが重なったからあいつみたいなのが出てきた──ってこと?」

 恐らく、と千影は頷きました。言葉の割に確信めいた表情でした。

 陽はゆっくりと溜息を吐きました。そして、再び千影の隣に胡坐を掻きます。

「千影、何であのジジイが出てきたのかはわかった。うん、わかったよ。でもね、まだ何も問題は解決していない。だってあのジジイはまだあそこに居るんだ。その瞬間は見てないけど、もう多分定位置の便器に戻ってる。僕はこれから用を足す度、あのジジイにナニをガン見されなくちゃいけないのか? すいません排泄させて下さいって頭下げなくちゃいけないのか? そんなのってないだろ? 第一僕は男だから未だいいとして千影はどうするんだ?」

「陽さま、話が長いです」

 いや、このタイミングでその返しは要らないよ、と陽は言いました。

 血色のすぐれない千影の顔に、僅かばかりの紅が差します。やはり愛くるしい娘でした。

「……しかし陽さま、私にはそのお爺さまが視えません」

「そういう問題じゃないんだ千影。僕が視える以上それじゃあダメなんだ」

「……何故でしょうか?」

 千影が心底わかりませんとばかりに首を傾げました。

 陽はその反応に戸惑いを覚えました。勘の良い千影ならなんとなく察してくれているだろうと思っていたからです。しかしこの様子を見る限りでは言葉にしないと伝わりそうもありません。思ったより鈍い女子(おなご)です。

 陽はごくりと息を呑みました。意を決しました。


「千影の『そんな姿』を僕以外の人間に見せたくない」


 ここであえて、二人の反応を記すことはしません。何だそれは手抜きじゃないのか、オイこの短編を書いたのは誰だ呼んで来い、とこれを読んでくださっている貴方さまは憤慨なさるかもしれません。しかしこればかりはご容赦下さい。明瞭に視えぬことが良い結果を招くことも世の中にはあるのです。それに、読書とは単に書いてある文字を読み進めるだけの作業ではありません。では、真の「読書」とは何ぞや? と、ここでは言及致しませんが、ただひとつ言えることがあるとすれば──それは、読書が決して受動的な行いなどではないということです。

「でも、あのジジイが神様だっていうなら──ええっと、どうすればいいんだ?」

「どうするも何も陽さまはすでにご存じではありませんか。妖怪と神様──その対処法の違いを」

 そこに(なぞら)え考えれば必ずや良い結果がついてくるでしょう、と千影はにこやかに断言します。

 妖怪と神様への対処法──「対処」という響きが、陽にはどこかバチあたりに聞こえましたが、まあ千影が言うからそういうものなんだろうと勝手に納得しました。

 ややあって、陽は大いなる天啓を得ました。

「そうか! わかったよ千影!」

 小さく手を振る千影を背に、陽は居間を跳び出すと、三度トイレへ向かいました。その際トイレノックは忘れず、静々とドアを開けました。

 やはりジジイはそこにいました。流罪にかけられても妖術で空を飛んであちこちの霊山を訪ねていそうなジジイでした。しかし、先ほどよりも心持その表情は穏やかに見えました。

 陽が口を開くよりも先に、ジジイは便器からどいてくれました。そのまま家からも出て行けよという叫びを作り笑いでなんとか殺し切り、陽は便器と向かい合いました。

 まず、陽はトイレ用洗剤を手に取ると、それを便器にかけました。眼の届きにくいふち裏の奥や隙間にまで、あますところなくかけました。本来ならばそこで二、三分ほど間を置くのですが、陽はあえてそれをせず、早速ブラシで磨き出しました。その方がなんとなく一生懸命やってる感が伝わるだろうと思ったからです。

 自分の姿をガン見してくるジジイは極力視野に入れないようにしました。一見無礼に思われるかもしれないこの態度を、それだけ熱心に掃除に向かっているのだと解釈してほしい、と陽は心から願いました。

 そう、トイレの神様だというのなら──きっと自身が日頃の掃除を怠ったが故に、このジジイは現れたのでしょう。そういえば、部屋の掃除は風呂掃除を除き大抵千影に任せきりでした。磨きながら、少年はそのことを深く反省しました。内心ちょっぴり悔しいけれど、このジジイの存在は同居人の大切さまで自分に教えてくれたのです。

 有難うジジイ。

 でももう二度と出ないでくださいジジイ。

 あと放尿中の自分のナニを見下ろして鼻で笑うのマジで止めて下さいませんかねジジイ。

 やがて──掃除が終わりました。そこには生まれたての便器がありました。我ながら阿呆な表現だとは思いますがお許しください。阿呆でも馬鹿でも間抜けでも、なんとなくニュアンスが伝わる表現ってあるでしょう?

 陽の心にはこれまでにない達成感がありました。いや、これまでにないというのは流石に言い過ぎたかもしれません。陽にとって人生最大の達成感、それは千影と初夜を過ごしたときのことだったのですが、まあこれは今の話の流れとは欠片も関係ないので割愛させていただきます。トイレという空間に那須高原を彷彿とさせる爽やかな風が流れているようでした。今ならここで深呼吸をして、空気が美味い! くらいは言えそうでした。そして、陽はゆっくりと、ジジイの方に顔を向けました。


 陽がドアを開け、帰ってきました。顔には満足げにみえないこともない笑みを湛えています。

「いかがでしたか? 陽さま」

 千影の問いに、陽はふっと落とすように笑いました。

「ジジイが小綺麗になっただけだったよ」

「それは残念です」   

 皆トイレは綺麗に使えよな!

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