診断
ここはとあるクリニックの診察室。
私は、人生で初めて耳にする言葉に唖然としてしまった。
「受け入れ難いのはよく分かります。まずは焦らず落ち着いて、ゆっくり養生しましょう。」
「あの、よく飲み込めないのですが、ソウキョク...何でしたっけ?」
「双極性障害です。」
「うつ病じゃなくて?」
田沢葵
22歳
大手IT企業勤務、大卒新入社員
精神科「中村クリニック」の患者として、本日は3回目の診察を受けている。
「田沢さんの場合は、ご自身のことを”うつ病”と思っていらっしゃいますよね?」
現在は2025年の9月初旬。
生まれ育った地元、広島を離れ6月に名古屋へ引っ越してきた。
「入社前に、広島の心療内科で”うつ病”と言われたんですから、そりゃあ...」
そうに決まっているでしょう? という言葉を私は飲み込んだ。
「うつ病だと思いながらも、極端に調子がよくなって活発になる日があるのでしたよね?」
「はい、突発的に家の中でじっとして居られない日があるかと思えば、仕事から帰宅した直後に倒れて...」
「お風呂にも入れず、日によっては希死念慮にも駆られて身動きできなくなります。」
日常行動がまともにできないことを口にしなければならない屈辱。自ら救いを求めクリニックを受診している分際なのだから、そんな我儘を言っていられないのだが、「当たり前」のことができない事を認める、本当は嫌で嫌で仕方がない。
「 双極性障害では、ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返します。躁状態になると、眠らなくても活発に活動する、次々にアイデアが浮かぶ、自分が偉大な人間だと感じられる、大きな買い物やギャンブルなどで散財する、といった症状がみられます。」
「私の場合は...」
「田沢さんの場合は、家に居られず夜中だろうが状況も関係なく長時間外出してしまったり、アルコール摂取しているわけでも無いのに同期と長時間に渡り、異常に高揚した状態で会話をしてしまうのが、躁状態に該当します。」
「躁状態...」
「ええ。躁状態を本人が自覚することは稀です。田沢さんも、同期の方から指摘され初めて違和感に気が付いたでしょう?」
「ええ、そうですけど...」
「周りに見守ってくださる方がいて良かった。治療は大抵6ヶ月ほどを要します。できれば休職し、養生することが望ましいでしょう。」
「...」
「業務調整もあるでしょうから、すぐにとは言いません。検討しておいてください。」
「...」
「処方箋を出しますので、待合室でお待ちください。お大事になさってください。」
私は返す言葉も見つからず、中村医師に促されるまま診察室から退出する。
社会人になって間も無い私がもし、精神障害で就労困難な状態であると上司に知れたら?
「まだ今は試用期間、クビにされても文句は言えない。」
上司にだけはバレないようにしないと奨学金の返済が遅れてしまう!何より一人前のエンジニア、エンドユーザー様の役に立つ社員となり、一日も早くチームメンバーのサポート役として貢献したいのに!
「ぎもぢわるい」
吐き気がするとはいえ、今日は午前休だから早く出社しないとミーティングに遅れる...とりあえず会計を済ませて移動しよう。
「1560円になります」
「はい」
淡々と交わされる、感情を含まぬ情報交換
現実逃避とは活きる術
異種多様とは表向き、異色さを好まぬ集合体
急かせかと早足で歩く人々の雑踏
ほら、まただ。
電車を下車し市営地下鉄の駅構内を移動中、体調不良でその場にしゃがみ込んでいる女性が1人。女性に目をやり、心配そうにしている通行人はいても手を差し伸べる者はいない。そのうち駅員が気付くだろう、と思っているのか、単に時間に急いでいるのか…応急救護できる自信が無くとも、せめて大声で叫ぶなり頼りになりそうな人を呼ぶなり119番に電話するなりすればいいのに。
女性の元へ近づき、よく覗き込むと肩からかけられている手提げ袋に赤色のヘルプマークが付いていた。内部障害や身体障害などにより、周囲からの援助や配慮を必要としている人にとって御守りでもあり命綱だ。使用者が服用している薬の情報や緊急連絡先を記載している場合が多いと、以前に聞いたことがある。
「もしもし、体調不良ですか?」
「…」
良かった、意思疎通は問題ないし頷いて返答もできている。
「ダウン症ね、合併症により中枢性甲状腺機能低下症…」
うちも遺伝で甲状腺機能低下症の因子を持っているけど、最近の治療薬は特段副作用の心配は無いし…何だろう?
「顔が赤いね、おでこ触っていい?」
「うん」
「…熱があるね。ごめん、私、力が無いの。だから駅の人を呼ぶね。ここで待てる?」
私の問いかけに彼女は頷いたので、私は駅員を呼びに行った。
「ここに彼女の名前と緊急連絡先が記載されています。症状は今のところ発熱だけです。薬の副作用でも無さそうなので、ご家族に迎えに来てもらうので十分だと思います。」
「分かりました、ご協力ありがとうございました。」
次の予定が迫っているので、あとのことは駅員の男性にお任せし、私は再び歩き出した。
インターナショナルビルへの直通通路を小走りし、自動ドアを滑らかに通過、いつものエレベーターへ飛び乗る。
左手首に装備している腕時計へ視線をやると、針は12時50分を示している。
エレベーターを降り、フロアの廊下を進む。
オフィス前に辿り着き、カードリーダーに社員証をかざす。
「おはようございます」
電車を下車してからオフィスまでの間、地上の歩道は一切通行していない。屋外は梅雨時期とあって激しい雨が降っているが、衣服を濡らすことなく移動できる。洗練され、実に機能的。だが、360度、人口素材によって構成されている地下空間には無機質さがある。そういえば先日、ネットサーフィン中に偶然見つけた記事があったな。2020年、人間が作った人工物の総重量が、地球上の生物量を超えた。今後は、20年ごとに倍増するペースで増え続けるらしい。この現実を前に、海育ちの私は些か寂しさを感じているが…
今の私はエンジニアのたまご。
近々、技術的人工物をユーザーへ提供することになるんだったな。
さて、今日はどの席に座ろうか。
「おそようございます、だろw」
「いつもお寝坊さんの東くんに言われてもねぇw」
東祐弥
同期エンジニアである。
「午前休取ったの?」
「うん、少し用事があってね。今日のランチは?」
「いつもの場所。今日は鮎の塩焼き定食だったよ。」
「へー、いいね。辻先輩と一服した?」
「したした。高木さんの失敗談を教えてくれたよw」
「興味ある、退勤前に聞かせてよ。」
「もち!ところで、アオちゃんの4チーム、今日ミーティングだったっけ?」
「うん、そろそろROOM行こうかな。」
「あの…気をつけてね…」
東くんの表情に翳りが差し、2人の間に微妙な空気が流れ始める。午前中、4チームに何かあったのだろうか?
「午前中、今度は川口さんが叱責されてた。」
川口紗織さん
私のOJTリーダー、つまり指南役の女性エンジニアさんだ。
「ほう、どんな内容だった?」
怒っていたのは私の上長である、須賀仁志チームマネージャーだろうな。
須賀さんは私が入社した4月、33歳という異例の若さでマネージャー職へ昇進した方だ。
「中部青果協会について話してたよ。」
「え…」
「やっぱり。アオちゃん担当だよね…」
担当も何も、私が主担当、川口さんはサポート役としてアサインしている。
「大丈夫…?」
「だいじょばない。私も絶対怒られる。」
「何か心当たりある?」
「多分、工数積算のことだと思う…」
工数積算とは、プロジェクトや業務を完了するために必要な作業量(工数)を、細分化したタスクごとに積み上げて合計を算出すること。1人が1日または1ヶ月で行う作業量(人日・人月)を単位として、見積もり、人員配置、スケジュール作成の礎となる。
「あっちゃ…無事を祈る…」
「うん…サンキュ…」
出社してすぐにお説教タイムか…かなり厳しいスタートだが仕方ない。特に、文系学部出身、政治学選考でIT知識ほぼゼロの私となれば、尚更だ。私と川口さん、それから同じ4チームの前島さんはいつも叱責を受けてしまう。川口さんは…ほかの社員が居ようが居まいが、場所お構いなしに険しい表情になり時には怒声が上がることもある。
田沢「お疲れ様です」
??「…お疲れー」
挨拶に応じてくださったのは、入社2年目の内藤さんだ。ほかの6名のチームメンバーは皆さん作業に追われているようだ。
須賀「今日は珍しく全員揃ったね。」
我が社はテレワーク推進企業のため、チームメンバー全員が出社している日はあまり無い。
とりあえず、最も扉に近い席が空いていたため着席し、Mac Airを起動する。
須賀「田沢さん」
来た…!
田沢「はい」
須賀「中部青果の工数積算見たけどさ、」
須賀「内製だからって、舐めてんの?」
田沢「申し訳ありません。問題箇所をご教授願ます。」
やっぱり怒られてしまった。須賀さんの表情はいつもポーカーフェイスだが、怒るときは今のように眉間へ深い皺が寄る。平常時から語気が強い上司だが、怒ると更に言葉が荒くなってしまう。自分は今、どの社員よりも技術力と知識量が劣っている。自分の失敗や非は、脳の記憶領域に刻み込むようにしたい。
須賀「今回はパラメータシートのみ納品で現場作業は無いけどさ、作業者が田沢さん1人、川口さんが居ない状態で、日数1日のみ。コアスイッチ含めて6台分、本当に作れるの?」
田沢「私の技量ではまず、1日では不可能です。ですが、どの積算においても階級3以上の社員が役務を行うことを想定して日数を割り出すと、川口さんから教えていただいたので、その通りにしました。」
須賀「階級2であっても1日じゃできないです。2日は要るでしょ。」
田沢「はい」
須賀「ちゃんと口があるんだから、しっかり川口さんと会話して。2人で整合性を確認してからレビュー依頼してよ?」
川口「…」
本当は川口さんと入力内容のチェックを3回した。それでも、ミスしたことには変わりないのだから。
田沢「申し訳ありません、気をつけます。」
須賀「いつも気をつけるって言ってるけど、それだと同じ失敗するよ?」
田沢「はい」
須賀「それとね、2日で見積もっても実際の日数は3日になると思うから。はっきり言ってしまうと、1年目のあなたがやる役務は赤字になる。最初はそれでいいよ、でも、今回田沢さんが収益を出さず、赤字を出していることは忘れないで。」
田沢「はい」
川口「…」
須賀「前置きが長くなったけどミーティングを始めます。」
ミーティングの冒頭は、今のように業務上の注意を受けることが多い。
田沢「?」
本題に入ったところでPCのホーム画面に、社内チャットの通知が表示された。チャットを開くと、右隣に座っている川口さんから送信されたメッセージだった。
川口(厳しいことを言われたと思うけど、あまり気にしすぎないでね。少しずつステップアップですよ!)
田沢(はい!)
喜ばしいので即レス。あれ、東くんからも届いてる。
東(定時あがりして真理子ちゃんと飲みに行かない?)
田中真理子ちゃんも同期の一人。東くんと私、真理子ちゃんはチームは違えど同じ部署のエンジニアであるため、よく一緒に飲む仲だ。
田沢(行く!)
田沢(トリキ行きたい!)
東(おけ、前回と同じ場所ね。)
田沢(ガッテン承知の助!)
私たちは趣味も少し共通していて、同じアニメを見ている。
今夜気兼ねなくお喋りできるし、このミーティングもなんとか着いていけそうだ。
あれ、つい数分前までは吐き気がして気持ち悪かったのに…今は何ともない!きっと川口さんや東くんのお陰で元気になったのかな?
(双極性障害では、ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返します。)
今のは障害によるもの…じゃないよね。そうに決まってる。




