第1話『灰の匂い』
夕暮れ、潮の匂いが戸口をすり抜ける頃、私はいつもと同じ薬箱の蓋を閉めた。色の違う瓶が小さく鳴り、硝子の香りが微かに混ざる。港町の匂いは嘘つきだ。真実を吐き出すのは、いつでも薬の方である。
「紗夜さん、今日も忙しかったですか?」
外から声がした。来栖海斗――港で働く友人の船乗りだ。笑顔は軽やかだが、目の奥にはどこか鋭い光がある。
「うん、ちょっとした屋台の相談ね。どうやらお茶に変な味がしたらしい」
「またですか……港は油断できませんね」
港町麟洲は、日常の顔と、闇の顔を二重に持つ町だ。今日も船が出入りし、外来品が流れ込み、知らぬ間に小さな事件を巻き起こす。私は薬学的観察――色、匂い、粘度、溶け方――で、微かな違和感を見抜く。
「これ、ちょっと危ないかも」私は屋台で手に取った茶袋を揺らす。指先に残る微かな粉末の感触が、異質な合成アルカロイドを告げていた。
「なんだって……そんなことが港で?」
海斗は真剣な顔を私に向ける。港は笑ってはいけない場所だ。笑いの裏には、時に死の種が隠れている。
「まずは被害者の体質を確認して……いや、これは毒殺です。量的にも、茶の味的にも間違いない」
その瞬間、町奉行の若き番頭、芹沢直が走ってきた。息を切らしながらも、目は私を真剣に見つめる。
「紗夜さん、急ぎの案件です。港に流通している“外来薬材”に不正があるかもしれません」
私は薬箱を抱え、潮風に吹かれながら決意した。小さな硝子の中に、町の真実を映す。それが私の仕事だ――誰も気づかない嘘も、逃げられない毒も。
港町の灯りが揺れる。宵薬房の明かりが、今日も小さく燃えていた。