サジタリウス未来商会と「音のない世界」
中原という男がいた。
40代半ばの音響技術者で、映画やコンサートの音響設計を手がける職人だ。
「音がすべてだ」
そう言い切る彼の人生は、音と共にあった。仕事中はもちろん、休日も音楽を聞き込んだり、新しい音響システムを研究したりして過ごしていた。
しかし、ある日を境に、中原の耳に異変が起きた。
それは、突然だった。
映画の試写会で音響チェックをしている最中、ふと音が歪んで聞こえるようになったのだ。
高音がチリチリと割れ、低音は地響きのように不快に響く。
「何だこれは……?」
最初は設備の故障だと思い、何度も確認したが、機器には問題はなかった。
不安になり耳鼻科を訪れると、医師は深刻そうな表情で言った。
「残念ですが、加齢や仕事での負担により、耳にダメージが蓄積しています。このままだと、数年以内に聴力を失う可能性があります」
「音が聞こえなくなるだって……?」
中原は愕然とした。
音が聞こえない人生など想像すらできない。音がなければ、彼の人生そのものが崩壊してしまうのだ。
どうにかして耳を治す方法がないかと必死に探したが、特効薬や画期的な治療法は見つからなかった。
そんなある夜、中原はふと奇妙な屋台を見つけた。
路地裏の一角にぽつんと明かりを灯す小さな屋台。
その看板には手書きでこう書かれていた。
「サジタリウス未来商会」
「未来商会……?」
中原は疑問を抱きながらも、その屋台に足を向けた。
中にいたのは、白髪混じりの髪に長い顎ひげをたくわえた痩せた初老の男だった。
その男は、穏やかに微笑みながら中原を見つめた。
「いらっしゃいませ、中原さん。今日はどんな未来をお求めですか?」
「未来を求めるだって?そんな抽象的なことを言われても困るな。俺は耳が悪くなってきているんだ。それを治せるものがあるなら、見せてほしい」
「もちろんです」
サジタリウスは懐から小さな装置を取り出した。それはイヤホンのような形をしており、シンプルなデザインが特徴的だった。
「これは『音の調律機』です。この装置を使えば、あなたの耳の状態を自由に調整することができます。聴力を回復させるだけでなく、普通の人間が聞こえない音まで聞き取ることができるようになります」
「本当にそんなことができるのか?」
「もちろん。ただし、注意点があります。この装置を長期間使い続けると、音に対する感覚が過剰に鋭くなりすぎ、生活に支障をきたす場合があります。それでも試しますか?」
「当然だ。俺の人生に音がなければ、何の意味もない」
中原は即座に装置を購入した。
装置を耳に装着した瞬間、中原の世界は一変した。
耳の奥がじんわりと暖かくなり、それと同時に、これまで聞こえなかった微細な音が鮮明に聞こえ始めたのだ。
車のエンジン音のかすかな振動、風がビルの隙間を通り抜ける音、さらには遠くの電線が微かに唸る音まで。
「すごい……!」
中原は感動し、その夜、自宅のオーディオルームで音楽を聞き直した。
これまで気づかなかった楽器の微妙なニュアンスや演奏者の呼吸まで感じ取れる。
「これが音の真髄か!」
しかし、数日が経つと、音の多さが次第に負担になり始めた。
スーパーでは冷蔵庫の低い唸り音が耳を突き刺し、街中では人々の足音や話し声が混ざり合って頭が割れそうになった。
何より、眠っている間も微細な音が耳に入り続け、全く休まらなくなった。
「こんなはずじゃなかった……」
中原は再びサジタリウスの屋台を訪れた。
「おい、この装置は確かにすごいが、音が多すぎて生活に支障が出ている!どうにかしてくれ!」
サジタリウスは静かに頷いた。
「それなら、調整して『不要な音を消す』モードに変更してみましょう」
彼が装置を操作すると、中原の耳に入る音が次第に減っていった。
不快だった機械音や雑踏の喧騒が消え、心地よい音だけが残った。
「これなら……快適だ」
中原は満足した。
だが、その快適さも長くは続かなかった。
数日が経つと、中原はさらに音を減らしたくなった。人の話し声やテレビの音さえ煩わしく感じ始め、装置の設定を「完全消音」に変更した。
結果、世界から一切の音が消えた。
「これはこれで悪くないな……」
最初のうちは静寂を楽しんでいたが、やがて異変が起き始めた。
音がない生活は、思っていた以上に不便だった。
人々の会話が聞き取れず、仕事でのコミュニケーションが滞る。
家族との会話も成立せず、孤立感が広がった。
「音がないのは快適かと思ったが、まるで生きていないようだ……」
中原は再びサジタリウスを訪れた。
「ドクトル・サジタリウス、この装置は便利だが、どうにも使いこなせない。俺の耳を普通に戻してくれ!」
サジタリウスはしばらく黙った後、珍しく困った表情を浮かべた。
「それができないのです。この装置を一度使用すると、元の聴力には戻れません。選択肢は、音が多すぎるか、音がないかのどちらかだけです」
「ふざけるな!そんな話、最初に聞いていない!」
中原の怒声が響く中、サジタリウスは苦笑を浮かべながら冷や汗を拭った。
「確かに説明が不足していたかもしれません。しかし、あなたが音のない世界を望んだのも事実ですよ」
中原は激怒し、装置を外して地面に叩きつけた。
その瞬間、彼の耳に微かな音が戻ってきた。
それは、遠くで鳴る風の音や木々のささやきだった。
「これは……?」
サジタリウスは静かに答えた。
「人間の耳には元々、雑音を自然に調整する力があります。装置を手放したことで、その力が蘇ったのでしょう」
「つまり、俺には最初からこの装置なんて必要なかったということか?」
「かもしれませんね。しかし、気づけたのはあなた自身の選択のおかげです」
その日から、中原は普通の耳で音を楽しむ生活に戻った。
「便利なものは必ずしも幸せをもたらすわけではない」
その教訓を胸に、彼はまた音響の世界に没頭していった。
【完】