第八話:椿のお願い
「ア、アオイ様!」
あの日の出来事から二週間ほどした頃。
夕方校門を出て、帰宅の途に就く諒と蒼に、背後から突然声を掛けてくる者がいた。
二人のアオイが振り返ると。そこには、少し息を切らせた椿が立っていた。
「あの、お話が……」
必死に息を整える椿の雰囲気に、諒と蒼は顔を見合わせた後。
互いにいつもの事かと思い、
「じゃあ、俺先に帰っておくね」
そう言い残すと、諒だけが先に歩き去っていった。
既にあの頃、蒼は呼び止められては告白をされたり、手紙を貰ったりし始めていた頃。
だからこそ、諒も蒼も、彼女もそうなのだと思ったのだが。
一人ぶらりと帰っている途中に突然、彼のスマートフォンが鳴り。
首を傾げつつ電話に出ると、蒼から
『諒。君に話があるみたいだよ?』
そんな困った声が届いた。
*****
近くの小さな公園で合流した三人は、今度は蒼が気を遣って先に家路に就き。諒と椿の二人だけが、ベンチで並んで腰を下ろしていた。
あの時の気まずさは今でも覚えている。
そもそも異性と話すのは香純位。とにかく経験がなく不慣れだったのもあったが。あの日の空気の読めなさを思い出してしまったのもあり、どう話して良いかも分からない。
何故あの日はさらりと話せたのか分からないくらい。顔を見る事もできず、諒は困った顔で沈黙してしまったのだが。
その時の第一声も最悪だった。
「あの、諒様……」
「へ? 諒様!?」
今までそんな呼ばれ方をしたことがなかった彼は、恐ろしく素っ頓狂な声を上げていたのだ。
思わず彼女を見た彼の目に映る、椿の虚を突かれたような驚きっぷり。そして、次に見せた優しげな笑み。
その見慣れない、しかし目を奪われそうなほど眩しく感じる表情に、一瞬ドキっとしたのを覚えている。
「はい。蒼様が、諒様とご一緒の時に先程のように呼ばれると勘違いするから、お名前でお呼びしなさいと」
「あ、ああ。そういう事ね」
「はい。折角です。諒様も私の事は、椿とお呼びください」
「え? あ……うん。わかったよ」
照れを隠すように視線を泳がせ、頭を掻く彼。
今考えると、あの時から椿を名前で呼び始めたのに、何処か気恥ずかしさを感じなかったのは、それ以上に恥ずかしい想いをしていたからだろうか。
ともかく、そんなやり取りが緊張を和らげたのか。彼女との会話がゆっくりと流れ出した。
「あの日は、本当にありがとうございました」
「あ、いや。俺、礼言われるような事なんて、何も……」
「いいえ。私はあの日までずっと、好きな歌など、他の方にお聴かせするものではないと決めつけておりました。ですが、諒様がそれを正してくれたのですよ」
「大袈裟だよ。俺なんてただ、脈絡もなく思いの丈を口にしていっただけだし」
「そうだとしても。私は、あの日の言葉と歌をきっかけに、皆様に歌って聴かせ、皆様と触れ合えるようになったのです。今では部員の方々に、毎日色々歌って欲しいとねだられる程。こんな素敵な日々に導いてくださった事、本当に感謝しております」
「そっか。それなら良かったよ」
嬉しそうに語る彼女を見て、諒は改めてほっとした。
自分がした事が役に立ったのだと実感して。
無意識に笑みを浮かべ、そんな話を聞いていると、ふっと彼女が真剣な顔をした。
「諒様」
「ん? どうしたの?」
「あの。実は私、部員の皆様の推薦で、来月の文化祭にて、声楽部の出し物として、歌を披露する事となったのですが……」
「へ~。やっぱり皆、椿さんの歌を相当気に入ったんだね」
彼女の歌がより皆に届く。
それが嬉しくなり、諒は微笑んだのだが。彼女の真剣さが変わらない事に気づき、少し首を傾げる。
「……で、何か問題でもあった?」
妙な気分のまま尋ねると、緊張で固くなっているのに気づいたのか。椿は慌てて首を振った。
「違うのです! あ、いえ。違うとまでは、言い切れないのですが……。お礼を述べた矢先、誠に不躾なお話で恐縮なのですが。その……お願いが、ございまして……」
困ったような顔で俯く彼女は、中々次の言葉を発しない。
「どんな話?」
その状況に困った諒が話を促すと、彼女ははっとするとまた真剣な瞳をこちらに向け直し、
「あの、一度で構いません。私と……『からおけ』、とやらに、行ってくださいませんか?」
「カラオケに?」
「はい……」
これまた、歯切れ悪く、何とも予想外な言葉を返してきた。
「私、先日皆様に今度、『からおけ』とやらに行きましょうと誘われたのですが。お恥ずかしい話。そこが歌を披露する場所とは知っておりますものの、どのような作法が必要かなど、何も分からないのです……」
「別に。それなら初めてなんだって言えば、皆が優しく教えてくれるし大丈夫だよ」
「はい。それだけであれば、そうだと思います。ただもうひとつ。諒様に、お願いしたいことがあるのです」
じっと諒を見つめる椿。
その真剣な眼差しから目を逸らしてはいけない。
何故かそう感じ、じっと見つめ返していると。彼女が意を決し、こう言った。
「私にもう一度、『勇気の翼』を歌ってくださいませんか?」
「え? 俺が?」
「はい」
強く頷いた彼女は語る。
「あの時、続きを歌い聴かせてくださった時、本当に勇気が湧いたのです。だからこそ、部員の皆様の前で歌う事ができたのです」
想いを強く感じるその瞳に宿る真剣さが、言葉からもはっきりと伝わってくる。
「文化祭という舞台で、より多くの皆様に、民謡ではない歌をうまく届けられるのか。私はやはり不安なのです。ですから諒様の歌で、もう一度背中を押していただけないかと……」
そんな願いを受けた諒だったが、正直迷った。
理由は、自分の歌に自信などなかったから。それ故に口にしたのは、自信なさげな言葉の数々だった。
「でも俺。あんな歌い方しかできないし、歌も下手だし──」
「そんな事はございません!」
どこか自虐的に語り、苦笑した諒の言葉を遮るように、彼女は強く否定する。
今までの椿らしからぬ剣幕に、彼が強く戸惑う中。まるであの日と立場を変えるように、彼女は熱弁した。
「私も多くの歌い手を知っております。ですが、諒様のように心に響く歌声でしっかりと歌われる方など、何人も出逢えておりません。実際に私は、貴方様の歌に勇気をいただいた一人。ですから、絶対にそんな事はございません」
確かに、香純は本当に喜んでくれた。
蒼も、諒は歌が上手いと褒めてくれた。
だが。それでも自分の歌声に引け目があった彼は、気を遣われているかも知れないと、自信を持つ事などできなかったのだが。
赤の他人だった椿の熱意が、そんな自分の歌に、少しだけ自信をくれた。
諒は思った以上の熱を向けられ、少し気恥ずかしげな笑みを浮かべる。
「……わかったよ。俺で良ければ」
「本当ですか? ありがとうございます」
それを聞き、とても嬉しそうな顔をした椿の表情は、未だに忘れられない。
それ位、素敵な笑顔を見せていた。
*****
あの日、日付と待ち合わせ場所と決め、数日後。
二人は一緒にカラオケ店に向かった。
とはいえ、男女二人きりで入れば、それは変な噂がついて回るかもしれないし、学区内では誰に見られるかもわからない。
だからこそ諒は気を遣い、中学一年ながら、多少無理して遠く離れた上社駅まで別々に足を伸ばし、そちらで合流してから近くのカラオケ店に入る事にした。
カラオケ店の独特なシステムと雰囲気に、椿は驚きながらも目を輝かせていた。
飲み物を自ら取りに行くフリードリンク制にも驚いていたが、何よりカラオケで選曲できる、新旧問わない曲の数々にも、彼女らしからぬ興奮を見せる。
椿が興奮する姿は、何とも不思議で新鮮な光景であったが。諒はそれを嘲笑うような事は勿論しなかった。
きっとお嬢様で、今まであまり皆と行動することがなかったからこそ、こういう経験もなかったのだろうと思っていたのだから。
こうして、二人きりのカラオケが始まったのだが。
たった一曲歌うだけでは時間が余るし勿体ないと、最初は二人で、交互に様々な歌を披露した。
椿の選曲は、予想以上に今どきだった。
バラードから、ミディアムテンポの曲からアップテンポなものまで。
民謡とかけ離れた曲ばかりだったが、そのどれもを彼女は見事に歌い上げる。
しかも。
諒は強く感じた。彼女の歌には心があると。
こんなに楽しく、元気を与えられるのか。
こんなに切なく、悲しくさせるのか。
様々な歌を聴く度に、その凄さを感じ。
心にその歌声が刻まれていく。
「私にも、沢山の歌を聴かせて頂きたいです」
そう椿に言われた彼も、必死に歌い上げた。
得意な女性アーティストの歌から、苦手な男性アーティストの歌まで。
「期待に応えられないかもだけど」
と、恐縮しながら、男性の歌もその声ながら一生懸命歌い切り。
「その歌声も素敵ですし、歌に合っておりますよ」
などと褒められれ、少しはにかんだりもした。
それは本当に、楽しい時間だった。
そして、最後に諒はお願いされていた『希望の翼』を歌って聴かせた。
彼女が新たな舞台に立つ勇気を奮い立たせんと。
彼女がそこで輝けるようにと。
カラオケの画面も見ず。彼女の事も見ず。
目を閉じ。心を込め。歌に集中し。しっかりと歌い上げた諒は、ほっとして目を開け、彼女を見た瞬間、唖然とした。
椿は、泣いていた。
視線に気づいた彼女ははっとすると、慌ててポケットよりハンカチを取り出し、笑みを浮かべながら涙を拭う。
「申し訳ございません。お恥ずかしい所をお見せしました」
「あ。いや。それは全然」
「先日もそうでしたが。諒様の歌は本当に心に響くのです。今も私の為を想って歌って頂っていただけた事がしっかり伝わって参りまして、
それで……」
そう言って、目を潤ませはにかむ椿を見て。
諒は自分の中の胸の鼓動が、強く高鳴ったのに気づく。
だが。その時はまだそれに対する答えを知らず。
その後に答えを知り、苦しむ事になるなど、諒は思ってもみなかった。




