第六話:心の痛み
再び眠りについて、どれくらい経ったのか。
諒の耳に、聞き覚えのある声が届く。
「諒とは話したの?」
「まだです。お母さんの話だと、お昼前からずっと眠ってるみたいで」
「妹ちゃん、大丈夫だよ。そんな顔見たら、諒君心配するよ?」
「そうだよ。お母さんも一度話をした時元気そうだったって言ってらしたし。安心しよう?」
「はい。ごめんなさい……」
どこか気丈な声に、涙声。
様々な聞き覚えのある声に、諒がゆっくりと瞼を開けると。
「お兄!」
「諒君!」
彼を覗き込むようにベッドの脇で心配そうに立っていたのは香純と萌絵だった。
二人共目を潤ませ、今にも泣きそうな程心配そうな顔をしている。
その後ろでは、蒼と日向もまた、ほっとした表情で彼を見つめていた。
「皆……」
「お兄の馬鹿!」
思わず覆いかぶさるように抱きついた香純が、両腕でぎゅっと彼を抱きしめる。
「良かった……。良かったぁ……」
震える身体。耳元に届く安堵した涙声。
突然の事に驚いた諒だったが、そんな妹を見てふっと優しい笑みを浮かべると、安心させるようにゆっくり頭を撫でながら、「ごめん」と短く謝った。
「諒君。良かった……」
萌絵もまた感極まり、両手で口を覆い、思わず泣きそうになる。
それを見て、ぽんっと優しく彼女の肩を叩いた日向は。
「もう。二人共大袈裟だよ。そんなんじゃ諒君が困っちゃうよ」
そんな言葉を笑顔で掛けながら、本人も少しだけ目を潤ませていた。
「学校は?」
「無事始業式も終わったから、皆で帰りにここに寄ったんだ」
一人、普段どおりの笑みを見せる蒼が、彼の質問に答える。
「……って事は昼?」
「いや。二時位」
「え? そんなに経ってた?」
「だって。全然お兄目を覚まさないから、起こしたら悪いと思って……」
香純の声に感じるはっきりとした不安を感じて、諒は少し表情を曇らせる。
「ごめん。心配掛けちゃって」
「本当だよ。もう……」
香純はふっと両腕を離して彼を解放すると、ベッドの直ぐ側のパイプ椅子に腰を下ろし。萌絵もまた並んだもう一脚の椅子に腰掛けた。
皆が互いに安堵の笑みを交わした後。真面目な顔をしたのは日向だった。
「諒君。ごめん」
「え?」
「私、皆から簡単に事情聞いちゃった。知られたくなかったことかもしれないけど、ごめんね」
「……ううん。友達になってくれたんだし、何時かは話すべき事だったから」
今までに見せたことのない真剣さに、諒は苦笑しながら首を振る。
「やっぱり、今日のって椿さんが原因なの?」
日向のはっきりと問いかけに、諒は少しだけ表情を強張らせる。
ぐっと、何かを堪える顔。だが、そんな表情とは裏腹に。
「……違うよ。俺が、悪いだけ」
彼は気丈に、そう口にした。
「どういう事?」
「……突然再会するなんて、思ってなかったから。心構えができてなくって、パニックになっちゃって。で、少し外の空気でも吸おうって、廊下に出て階段降りようとしたら、足踏み外しちゃっただけ」
笑い話にしようと苦笑しようとするも、心が上手く付いてこない。
青ざめた顔色のまま、必死に何かを堪えるようにぐっと奥歯を噛むと、諒は視線を逸らし天井を見た。
少し、息が荒い。
片手を胸に当て、パジャマをぎゅっと掴む。
──皆がいるんだ。耐えなきゃ……。
必死に心を隠そうと、何とか笑って見せる。
だが、見え見え過ぎる程の硬い笑みでは、誰も、安心などできはしない。
「お兄……。無理しちゃダメだよ」
「大丈夫。大丈夫、だから」
「嘘だよ。だって……昔と同じ顔、してるもん……」
はっきりと色濃く不安を見せる妹。
諒はその言葉の意味を知っている。
小学生だった彼女が、一生懸命に元気づけようとしてくれた、その恩を忘れる事などできなかったのだから。
彼は、無理矢理大きく深呼吸し、何とか息を整えようとする。
と、瞬間ずきりと頭が痛み。咄嗟に片手を傷に当て、強く顔を顰めた。
「諒君!」
思わず悲鳴のような声を上げた萌絵にはっとすると、彼はまたも笑おうとした。
だが、強い痛みが耐えようとした意思を打ち消してしまったのか。
その、たったひとつの気遣いが、できなかった。
皆がいるにも関わらず、諒は頭を抑えた手を伸ばし、その腕で自らの目を覆うと、嗚咽と心の声を、漏らした。
「何で俺は、椿さんを傷つけたんだ。何で俺は、耐えられなかったんだ……」
苦しげに語られる言葉の数々に、皆の表情が強い心配を顕にした、憂鬱なものになる。
そんな仲間に気づく事もできず。言葉が呼び水となり、堰を切ったように溢れ出した。
「俺は、やっぱりダメなんだ。俺がいなきゃ、椿さんは苦しまなかった。俺が声を掛けなきゃ。俺が歌わなきゃ。俺が歌を聞かなきゃ。俺なんか、人を好きになっちゃダメだったんだ。俺なんか……俺なんか……」
彼はただ悔しげに。ただ辛そうに。己を責める言葉ばかりを並べ。人目を憚らず、泣いた。
心にずっと隠してきた失恋に。
忘れようとした初恋に。
心を責め立てられながら。
蒼と香純は知っていた。
諒が、椿を好きになり。椿に振られ。失恋で強い心の傷を負った事を。
萌絵は、彼が振られたことしか知らなかった。
見てきたことしか知らなかった。
だからこそ、ここまで思い悩み、苦しんでいたことまで、知らなかった。
三人がそれぞれに彼の苦しみを感じ。何も言えず。力になれず。唇を噛みしめる中。
「諒君!」
強く声を発したのは、日向だった。
それが気付けになったのか。我に返った諒が、まだまだ溢れ出そうな言葉達を呑み込む。
パジャマの袖で涙を拭き、腕をゆっくりとどかして弱々しい視線を日向に向けると。彼女は少しの間、じっと真剣な眼差しで彼を見つめた後、こう言った。
「お願い。私達にその時のこと、聞かせて」
「日向さん!?」
「海原先輩! それはダメです! それじゃお兄が余計に──」
「諒君。お願い。聞かせて」
思わず蒼がはっきりと戸惑い、香純が思わずそれを止めさせようと必死に口にするも、彼女の意思は固い。
何故そう言われたのか分からない諒は、目を見開き唖然としたまま。
日向は、そんな彼に向けた視線を逸らそうとはしなかった。
「ずっと独りで抱え込んで、辛いのを我慢してるから苦しくなるんだよ。だから聞かせて。兄妹である妹ちゃんにも。友達である蒼君や萌絵。そして私にも。話してる内は辛いかも知れないけど。でも、何も言わず独りで抱えるのは、もっと辛いよ?」
「日向……」
萌絵が予想外の事に茫然としていると。彼女が強い視線を向ける。
「萌絵は、諒君を好きだよね?」
「う、うん……」
戸惑いながらも答えた彼女に頷き返した日向は、次に香純と蒼を交互に見た。
「妹ちゃんも、蒼君も、諒君が大事だよね」
「……うん」
「勿論」
真剣な蒼と、泣きそうな香純が同じく頷き返すと、日向はそこで初めて、諒に何時ものような笑みを見せた。
「私も、諒君が大事。いい? 私も、皆も付いてる。だから、辛いかも知れないけど話して。私達を頼って。私達にも、あなたの気持ちを共有して。そうしたらきっと、少しは楽になるから」
──日向、さん……。
日向の笑顔と言葉に、旅館で萌絵が本音を話してくれた時の事を思い出す。
彼女もまた、あの時の萌絵と同じく、自分に本音をぶつけてくれている。
友達になったばかりの自分に。
一度は毛嫌いされたはずの自分に。
それが本当に凄いと感じた。
自分のために、自分に向き合ってくれている彼女達が、本当に凄いと。
そんな気持ちが、諒の心を少し軽くし。その心に、少しだけ覚悟を生んだ。
顔を横に向け、彼は順番に彼等を見る。
じっとしたまま何も言わない蒼に、不安そうな顔を向けたまま、泣きそうな香純。
彼等は自分の傷心が癒えるまで、離れようともせず、苦しまないように想い出を避け、時間を掛け、待ってくれた優しい二人。
だからこそ、自分は今まで変わらずにやってこれたし、耐えられたのだろうと思う。
「諒君。無理だけは、しないで」
香純と同じように、目尻に涙を浮かべ、心配そうにみつめる萌絵。
自分を慕い、真っ直ぐ向き合ってくれる彼女の想いがあったから、変わろうとするきっかけをくれた少女。
そんな彼女を傷つけることになるかもしれない。だが、今の自分も、見てもらうべき弱い自分だと、改めて思う。
そして。
こんな中でも笑える日向。
きっと、こんなに強く、友達想いの彼女だからこそ。日向と萌絵は仲の良い親友のようなのだと強く感じ。同時に自分も友達で良かったと思えた。
「……皆。情けない、昔話。聞いてくれる?」
諒は、未だ涙目のまま、やはり弱々しく微笑む。
彼の言葉に、四人はそれぞれ真剣に頷き返す。
それを確認すると。
一度だけ大きく深呼吸をした後。諒は再び天井を向き、ゆっくりと語りだした。
数年前。
彼が経験した、初恋と失恋を。




