第一話:新学期の始まり
それは、夢のような前日と打って変わった、現実の始まりだった。
シャーッと部屋のカーテンが開き、一気に窓から春の日差しが差し込む。
今日もまた快晴。温かな日和を予感させるそんな朝だが、未だ諒は布団に包まり寝息を立てている。
「ほら、お兄! 朝だよ! 起きて!」
と。目覚ましとは違う声に反応し、諒はゆっくりと仰向けになり、目を覚まそうと腕を上げ目を擦……らず。腕を日除け代わりに目の上に重ねると。
「……あと、五分……」
力尽きるように目を閉じる。
直後、小さなため息の後。
「ぐえっ!」
彼は蛙を潰したような声を漏らす。
思わず見開かれた目に映ったのは、掛け布団の上から腹に勢いよく馬乗りになった香純。
その表情に明からさまな不満を浮かべ、彼を見下している。
髪の毛はツインテールに束ねられ、黒のセーラー服に身を包んでいる彼女は、既に準備万端といった様子だ。
香純が突然、諒の顔の両脇に腕を突き、一気に顔を近づけた。
長い金髪がふぁさっと彼の顔を掠めるようにベッドに触れる。
真剣な表情のまま、じっと兄の顔を見た彼女は、目線を逸らさず、静かに囁く。
「早く起きないと、キスしちゃうよ?」
「……はあぁぁぁぁっ!?」
突然の一言に、一気に眠気が吹き飛んだ諒が、顔を真っ赤にしながら、思わず驚愕し叫ぶ。
声があまりにうるさかったのか。香純は顔を顰めつつ、跳ね上がるように上半身を起こした。
「もうっ! お兄。いきなり叫ばないでよ!」
「ばばば、馬鹿! お前が変なこと言うのが悪いんだろ!」
「まったく。こうでもしないと起きないかなって思っただけだよ。もう……」
抗議の声に反論されたのが不満だったのか。
はたまた、キスを拒否するような叫びを上げられたのが不満だったのか。
不貞腐れた様子で未だ馬乗りのまま、香純が両腕を組む。
そんな彼女に、諒もがしがしと少し寝癖気味の頭を掻くと、困ったようにこう返した。
「どうもこうも。お前、今までそんな起こし方したことないだろうが」
諒は正直な所、あまり寝起きが得意ではない。
昨日は特に、萌絵との予想外の泊りがけの旅行から帰ってきた事もあり、気を遣いすぎての疲労もあったのか。ベッドに潜ると何時になく早く寝付き、爆睡していたのだが。
ここ一週間ほど春休みで遅めに起きる癖がつき、生活リズムが少し狂っていたせいもあって、今朝はより目覚めが悪かった。
過去にもこうやって、香純に荒々しく起こされたりした事はある。
布団を剥がされたり。スマートフォンで大音量の音楽を流されたり。
それらも決して優しい起こし方ではなかったのだが。
馬乗りされ、あまつさえキスで脅されるなど、今までに記憶にない。
困ったように頬を掻き、恥ずかしさをごまかそうとする諒の反応を見て、香純は満足そうな顔で彼を跨いでベッドを降りる。
拘束から解かれた彼は、やっとこ上半身を起こすと、ベッドに胡座を掻いた。
「新学期だからね。サプライズ、サプライス」
先程までと違い、少しだけ顔をほんのり赤くしながら、照れを誤魔化すようにそんな言い回しをする彼女だが。
馬乗りしていた時に思い起こしていたのは、仮想恋人として日向と三人で一緒にプリクラを撮ったあの時の事。
近い顔。
恥ずかしがる兄。
あの刺激的な一幕を思い返し、思わずまた顔を覗き込んでやりたくなったのもあったのだが。
一昨日帰ってくるはずだった諒が、萌絵と泊まりになり。あまつさえ、水着とはいえ一緒に温泉に入った事実は、彼女の鬱憤を溜めたのも事実。
──これくらいは、したっていいよね。
実際はやりすぎである。
だが、それを自らの心で肯定すると。
「早く起きてよね。お母さんも下りてくるの首を長くして待ってるんだから」
言うが早いか。
くるりと身を翻し、彼女は部屋を去っていく。
「……なんなんだ、まったく」
そして。一人取り残された諒は、戸惑ったまま、ただ頭を掻く事しかできなかった。
*****
「それじゃ、行ってくるね」
「行ってきま~す!」
「気をつけていくのよ」
「うん」
「は~い!」
登校の準備を済ませた諒と萌絵は、母親に返事をすると玄関を出て、並んで道を歩きだした。
「香純もついに中学三年か」
少しずつ大きくなる妹を見てしみじみとする諒に、彼女はにっこりと笑う。
「そうだよ。早くお兄達と同じ学校に通いたいな~」
「まあその為にも、ちゃんと受験に合格しないといけないな」
「そうだよね~。……あっ」
羨ましそうに見てくる彼女に、諒も笑い返していると。
ふっと妙案が思いついたのか。何かを閃いた顔をかすみが見せた。
「ねえねえ。どうせだしお兄が受験勉強教えてくれる?」
「俺が?」
「うん。この間の恋人指南のお返しって感じで」
それを聞き、諒は少し目を泳がせた後、在らぬ方に視線を逸らすと、少し顔を赤くする。
今朝もそうだったが。彼もまたあのプリクラの一件が頭に過り、気恥ずかしさが一気に押し寄せていた。
「あ、あれのお返しなんて、思う必要ないけど。別に普通に手伝うって」
誤魔化すように頬を掻く彼に、香純も心情を察したのか。嬉しそうな顔で「うん」と頷いて見せた。
二人が十字路を曲がると、その先にある理髪店の前に、蒼が電柱に寄り掛かって、スマートフォンを眺めている姿が目に留まる。
「蒼先輩! おはようございます!」
遠間から香純が元気な声を掛け手を振ると、それに気づいた彼はスマートフォンをYシャツの胸ポケットに仕舞うと、小さく手を振り返し、爽やかな笑みを浮かべる。
「諒。香純ちゃん。おはよう」
「おはよう。じゃ、行こうか?」
「そうだね」
こうして三人は諒を挟むようにして歩き出した。
共に歩き出してすぐ。諒が軽く欠伸を見せると、蒼はくすっと笑う。
「なんだか眠そうだね?」
「ん。ああ。ちょっと昨日一昨日と色々あってね」
「ああ。萌絵ちゃんとお泊まりしたってやつだよね?」
「ぶっ!」
突然の蒼の衝撃発言に思わず吹き出す諒。
それもそうだ。その話どころか、萌絵と出掛けた話など、彼には一切話をしていないのだから。
思わず「犯人はお前か!?」と言わんばかりに驚愕しながら香純を見るが。
「わ、私は何も話してないよ? 本当だよ!?」
これまた思いっきり狼狽える彼女の反応を見る限り、嘘をついている雰囲気はない。
となれば、残る犯人は親か。それとも……。
──多分……。
少しだけ考え込んだ諒は、その答えを口にする。
「蒼。それ絶対、日向さんから聞いたよね?」
「流石。諒も彼女の事よく分かってるね」
正解した彼の何とも複雑そうな表情に、蒼どこか楽しげに笑う。
彼が人の良い人間だと、諒も香純も長い付き合いで知ってはいるのだが。
流石にその話題が広まるのはいけないと感じたのだろう。
「蒼先輩。その話は皆にしちゃダメですよ?」
「分かってるよ。念の為日向さんにも釘は刺しておいたから」
香純の心配に対し、彼は誠実さを感じる笑顔でそう応えた。
「でも……」
と。少しだけ蒼は何かを考え込むと。
「どちらかというと、ボウリング場の一件のほうが噂にならないか心配ではあるけどね」
そんな懸念に口にする。
「あ……」
瞬間。思わず諒と香純は顔を見合わせた。
確かに、あの日店内は学生も多かった。
あまり他の生徒に興味を持たない諒ではあるが、日向や萌絵、香純に蒼と、皆に華があり十分目立つ。
そんな彼女達とボウリング場にいて、しかも最後は萌絵に抱きしめられているのだ。
それを誰かに目撃され、噂になったりすると、彼女達に迷惑が掛かるのでは。そんな気持ちが彼を不安にさせる。
「多分、日向先輩がうまくやってくれそうな気もしますけど」
「まあ、その時は僕もうまくフォローするよ」
「悪い。頼むよ」
思わず両手を合わせて願い出る諒に、蒼はしっかり頷く。
そんな話をしながら歩いていた三人は、駅に向かう商店街の大通りに出た所で、香純が二人に向かい合った。
諒達二人は駅に向かうが、中学は大通りを反対に向かわねばならない。
「それじゃ、行ってきます」
「ああ。気をつけてな」
「またね。香純ちゃん」
「はい! それじゃ!」
笑顔で三人は手を振りあうと、香純はくるりと振り返り、一人反対方向に歩き出す。
そんな背中を見ながら。
「来年は一緒に通えるかな?」
蒼が、静かにそう呟く。
「まあ、案外成績は悪くないし、大丈夫だと思うけど。もしもの時はお前も勉強見てやってくれる?」
「勿論。力になってみせるよ」
親友同士。互いの顔を見て笑みを交わすと。
「じゃ、俺達も行きますか」
「そうだね」
二人は駅に向け歩き出した。
新学期の初登校。
皆が色々と不安や期待を見せるその日が、彼等にとって予想外の展開を迎える事など、未だ知ることもなく。




