<第4節 愛香の日常>
「ノミーっ」
「ちょ、どこ触ってんのアーニャ」
突然背後からぎゅうと抱きついてきた愛香を引き剥がし、その女子生徒は振り返った。
名前は熊野美玲。本名から「クマノミ」なんて呼ばれることが多いが、それが転じて愛香からは「ノミー」と呼ばれている。
身長は愛香より少し高いくらいで女子にしては高身長。最近あまり見なくなった腰くらいまでのロングヘアーをなびかせている。少し伏せ目がちなせいで、ことあるごとに「なんか怒っているの?」とか「眠いの?」とか言われてしまうのが悩み。
今は昼の放送が終わった4限の授業前。昼の放送を終えた愛香を迎えたところだった。生徒たちはまだ授業モードとはなっておらず、ざわざわとしている。
「放送、今日も面白かったよ」
前の席に座った愛香にありきたりな感想を告げると、彼女は自慢げに胸を張った。
「天才ですから」
「やはり天才か……」
普通の言葉にも大きなリアクションで応える。愛香の愛香たる由縁はこの辺りなのだろうな、と美玲は密かに思った。
「でも、草くんが来てから随分調子良いんじゃない?」
その美玲の言葉に、愛香は少しだけ悔しそうに、そして噛み締めるように応える。
「別にそんなこと……あるか……」
「分かるよ。何年一緒にいると思っているのよ」
愛香と美玲は小学校の時からの親友。愛香の一番の理解者だ。愛香が小学2年の遠足の時に水筒のお茶で鞄を水浸しにして大泣きしたことから、小学4年まで一人で寝られなかったこともなんでも知っている。実はアーニャの名付け親でもある。
快活な愛香とは対照的に、美玲は落ち着いた雰囲気だ。昔は凸凹コンビなんて言われたこともあったが、二人のことを知るほどお似合いであることがなぜか分かってきてしまうような、不思議な空気感が二人の間にはある。
「最初はあんなに怒っていたのに」
「いや……あれはさあ……」
「分かっているよ。思いの外鋭いツッコミが来たからテンパっちゃったんでしょ?」
心のうちを見透かされた愛香は、むうと口を尖らせる。
「前から言ってたもんね。私のボケを全部拾ってくれるツッコミが欲しいって。なんだっけ呼び方」
「ツッコミリベロね」
「そうそれ」
リベロはバレーボールにおける球を拾うことが仕事のポジションだ。良いツッコミがいてくれると、普通はあまり伝わらないことまで笑いにすることができる。つまり、ツッコミの存在によってボケの幅が広がるのだ、というお笑い論を以前美玲は愛香に聞かされたことがあった。
「なんか好き放題トークできるんだよね、草がいると。ほら、私ってシュールボケじゃん?」
「シュールボケの人、あまり自分では言わないよ? どちらかというと天然ボケじゃない?」
愛香は少し不服そうに口を尖らせる。まあ周りから思われている以上に考えてボケていることを、美玲は知っているが。
「で、実際のところどうなの?」
「どうって何が?」
「もちろん、草くんとの関係。最近結構お便りでもお節介されているでしょ」
「いやほんと。厄介だよ」
愛香はけろっとした様子で答えた。
「まあ楽しんでくれるならいいけどね。でも、草は別にただの友達って感じだからな~。向こうもそんな感じじゃない?」
その言葉に、美玲は本心以外のものを感じ取れなかった。
「(なんだ、お似合いだと思っていたのになあ)」
愛香は恋愛に興味がないタイプ、ではない。むしろ恋バナは好きな方だし、「彼氏欲しい〜」といつも言っている。
でも、愛香が特定の誰かを好きになることは一度もなかった。
理想が高すぎる、というより、誰かと恋愛関係になることが想像つかないのかもしれない。だって、前聞いた時も、よく分からなかったし。
『アーニャのタイプってどんな人なの?』
『ん〜ハートフルアウトローな人』
楽しげに話す愛香を見つめ、美玲は微笑みながら告げた。
「楽しそうで良いね、部活」
その美玲の言葉に、愛香は少し眉尻を下げた。
「どうしたの? 話聞こうか?」
その声色からいつもと様子が違うことに愛香は気付く。美玲が愛香の一番の理解者であると同時に、愛香もまた美玲の一番の理解者だった。
「いやー、まあ、部活辞めようかなって」
それほど思い詰めているような喋り方ではない。それでも愛香は先ほどよりも少しだけ身を乗り出し、真剣な表情で声を細めた。
「え~でも、吹部の次期部長を期待されているって……」
「だからだよ。今しか辞めるチャンスはないから」
美玲は吹奏楽部に所属する。楽器はトランペット。演奏技術はさることながら、部を纏める役割をこなしており、今の部長からは次期部長を打診されているという話を愛香は聞いていた。
「理由、聞いてもいい?」
「うん。なんていうか、何のために吹部やっているのか分からなくなってきちゃってさ」
「何のために……かぁ……」
こういう時、愛香は安易に辞めない方が良いとかは言わない。ただ寄り添い、一緒に考えるだけだ。そんな愛香だから、美玲は全幅の信頼を寄せている。
「特にやる理由がないなら、受験勉強にシフトしてもいいわけだしさ。良い大学に入って損はないだろうから」
「確かにね~」
その美玲の主張に、愛香は一度理解を示した。そのあとで、愛香は自分の率直な思いを伝えた。
「少し考え過ぎのような気はするけどね。私だって、何のために放送部やっているのかなんて、分からないよ」
「そう、かもね」
美玲も納得した様子で数回頷く。すぐに結論は出ないということを互いに理解しているため、ここでの話はこれでおしまいとなった。
「文化祭が終わったら代替わりだから。まあ、それまでには決めるよ」
最後まで重苦しい空気にならないように、美玲は淡々と告げた。
「そんなことよりさ、チケット取れたの?」
「うん、取れた取れた」
二人が話しているのは来週末にあるお笑いライブのことだ。美玲は元々お笑いに興味を持っていなかった。だが愛香の影響で少しずつ興味を持ち、高校生になった今では自分から積極的に見るようになった。
お笑いを見るようになってから、少しだけ美玲の人間関係にも変化が現れた。中学までは部を引っ張るタイプではなかったのに、高校では部長を期待されるほどにまでなっている。
そんなきっかけをくれた愛香に、美玲は心から感謝していた。
調子に乗るから本人の前では絶対に言わないけれど。
幕間
『草くん、私は考えたのですよ。平等というものについて』
『突然どうしたんですか、アーニャさん?』
『例えば、税金。同じ金額だけ払うことはある種の平等ですよね?』
『はい』
『でも、それだと所得が多い人にとっては安いけど、所得が少ない人にとっては高い。だから所得に対する税の割合を変えている。払う金額は違うけど、これも確かにある種の平等です』
『そうですね。だから日本では累進課税制度をとっていますね』
『つまり結局のところ、真の平等というものは無いのかもしれないな、と思ったのですよ』
『確かに今の日本の累進課税制度が厳密に平等かと問われると難しいです。つまり、着目した観点によって平等は変わってくる、と。深いですね』
『でもね、一個だけ見つけましたよ、真の平等』
『ほう、ぜひ聞かせて下さい』
『ダウンタウン松本さんのお笑いです。ひ、と、し、いだけにね(ドヤッ)』
『はい、この話終わりでーす』
『待って待って! 真の自由の話もあるのに!』
『どうせサイゼリヤのドリンクバーとか言うんだろ。じゅうす、だけに』
『………………勘の良いガキは嫌いだよ!』
『続いての曲は、石の上にも三瓶さんのリクエストで、新進気鋭の高校生シンガー『Aho』で『くっせえわ』、どうぞ』