駆けだした少女
その足は駆けた。十年ぶりに大地を蹴った。よたよたと馴れない速さに足を取られながらも、それでも転ぶ前に一歩を踏み出し、均衡を保ちながら、一咲は自ら手を伸ばして、ミユキに抱きついた。
将太も、全治も、ミユキも誰もが息を呑み、動けないでいた。
それからどれぐらいたっただろうか。いや、実際は数秒の静けさだったのだ。だが誰もが、悠久の時ほどに感じていた。
最初に我に返ったのはミユキだった。
拳銃を持った手で一咲の体を叩く。それでも一咲がその拘束を解くことはない。
「離せこのっ……!」
銃口が一咲の頭に突きつけられる。
「一咲ちゃん離れて……!」
その声を先に出したのは将太ではなく全治だった。彼の顔から初めて焦りが見える。
「一咲ちゃん!」
続いて将太が呼び掛けても、彼女は反応しない。ただひしと、身動ぎもせずにミユキに引っ付いている。
「殺してやる殺してやる……もとはといえば……あんたが……あんたが……」
泣きわめき、その背を叩き続けるミユキの手が、ふいに止まる。
一咲が何かを囁いているようだった。
ミユキは彼女の顔を驚いて見返していた。
何を言っているかは外野には分からなかったが、なにやら一咲が彼女を説得しているようだった。銃を持ったミユキの手がだらりと力なく下がる。
ミユキは一咲を叩くのをやめ、一咲はミユキに抱きつくのをやめた。
「ミユキさん。よかった……一咲きちゃんも足が……」
安堵に脱力し、将太は二人に歩み寄ろうと一歩前に出る。するとミユキが震えもせず、ただ、まっすぐに将太に銃口を向けた。
「来ないで」
全治と将太に交互に銃を向け、ミユキは一咲とゆっくりと崖に向かって後退していく。
「一咲ちゃん……!ミユキさん!」
「来ないで」
二度目のそれを言ったのは一咲だった。
そしてそのまま二人でずるりるりと後退していく。
その先に待つのは大きく口をあけた崖だ。
嫌な予感だけが、絶対に当たってほしくない考えが、湯水のように次々の将太の中で湧き出る。
それは全治も同じだったようで顔面は蒼白で、伸ばした指先は小刻みに震えていた。
「一咲ちゃん。早くこっちに戻ってきて」
全治がミユキを睨み付けて言う。絞り出したような声だった。
「全治」
しっかりとした声で一咲は彼の名前を呼んだ。
「俺の名前……、ああ、久しぶり呼んでくれたね。ほら、ミユキちゃんから離れなよ。君はこれから探偵に戻るんだから……」
今にも泣き出しそうな、震えた声に。一咲は眉ひとつ動かさない。
「ごめんね。私は探偵には戻らない」
響いた言葉に全治は口許をわなわなとゆがませる。いつもの笑顔を取り繕うとしているが、震えがそれを許さない。
「何言って……四人も死んでるんだぜ?」
「そんなの関係ないの。探偵役は変わったんだから。ね、将太」
名指しされ、将太の胸がどきりとなる。
「一咲ちゃん。一体何をしようとしてるの」
二人が崖の縁まで来た時。一咲はにこりと微笑んだ。とても可愛い。今までにないくらい。それはそれは年相応のとびきりの笑顔で。
「推理してよ。貴方が探偵でしょ」
その笑顔のまま、ほとんど同時に。汐崎一咲と加賀美ミユキは崖から飛び降りた。
後に残ったのは、茫然と立ち尽くす将太と崖の縁で声の限り慟哭をあげる全治だけだった。




