崖の上で
館を出ると、崖のふち近く。将太たちに背を向けて全治は立っていた
「一咲ちゃんはここにいて」
玄関先に一咲を下ろし、将太はその姿ににじりよる。
「やぁ、おはよう。将太くん」
その声にびくりと、将太の体が震える。とっさに懐の拳銃に手を伸ばしていた。
「お前、手錠はどうした?」
自由になった全治の手首には片側だけに手錠がついている。
「はじめて会ったときに外してみせたでしょ。それと一緒だよ」
全治はもう片方の手からも手錠外すと、地面に落とし、後ろを向いたままひらひらと手を振る。
「こっちを向け。全治」
振り向いた全治の顔や手、服には赤色の染みがついている。将太はぎょっとして思わず、拳銃を取り出して構えた。弾は入っていない。ミユキに預けっぱなしだ。だが、全治はそれを知らない。抑止力にはなるはずだと。
「やだなぁ。そんなもの構えて」
「そんな血塗れの姿で言われてもな」
きょとんとしたあとで、全治は自分の体に視線を落とすとしばらくしてからけらけらと笑った。
「これはペンキだよ。さっき急いでバツ印をつけたからさ」
真っ赤に染まった写真を思い出し、将太は納得はする。しかし銃を下ろす理由にはならなかった。
「なんでお前が写真にペンキを?あれは犯人がやっていたことだろう」
「別にやんなくてもよかったけどさ。今までの事件がやってることなのに、最後だけやらないっていうのは気持ち悪いじゃない」
あっけらかんと言って、全治は汚れた自分の服を見つめた。
「犯人は遠西さんなんだろう」
東の毒殺、ミユキの墜落、ミツキの首吊り……将太には犯人が三人を殺害したトリックは何一つわからなかった。だが、自分たち以外で生き残っている可能性があるのは遠西だけ。姿を見せない理由も犯人なら納得できる。
全治は苦虫を潰したようなか顔をし、べっとわざとらしく舌を出した。
「消去法なんて最悪。外部犯は、考えなかったの?」
「それはない。お前が本当に一咲ちゃんを探偵に戻そうとここまでの事件を作り上げたなら。少なくとも僕たちの中に犯人を設定するはずだ。その方がお前にとっては楽しいはずだ。お前の言葉を借りるなら、「それっぽくない」んだよ。それじゃあ」
そこまで聞いて、ひゅうと全治は口笛を鳴らした。
「やだ、将太くん。俺のことよく分かってんじゃん」
「分かりたくもなかったけどな」
将太の嫌味に全治は肩をすくめるだけだった。
「外部犯じゃないってのは正解。でも及第点ってとこかな」
「は?」
「だって朔夜くんこそ犯人から最も遠い人なんだけど……言ったでしょう。ミスリードのために見るからに悪そうなやつがいた方がいいって。ヒントだったんだけど」
「じゃあ誰が犯人なんだ!もう僕ら以外誰も残ってないんだよ」
将太の荒げた声に返ってくるのは全治のため息だけだ。
「いいかげん。弾も入ってない銃を構えるのはやめなよ。カッコ悪いよ」
「なんでそれを……」
言いかけて、将太は口を紡ぐ。湧き出た違和感を頭の中で整理する。確かに弾は入っていない。だが、弾を抜いたのは全治を拘束した後である。全治はその事実を知らないはずであった。
「知ってるさ。なんでもね。この舞台を用意したのは俺なんだもん。監督が演者を把握してないなんてナンセンスだろ」
将太の手から拳銃が滑り落ちる。
全て、全治の手のひらの上かと思うと、力が抜けたのだ。
そんなことはお構い無しに、全治はある一点を見つめる。両手を広げて、まるでハグでも迎えるかのように。
「これで俺が用意した謎は全て出揃った。全部全部君のために用意したんだ!俺を早く君の宿敵にしてくれ!」
全治のその恍惚とした狂気に一咲は耐えきれずに目を反らす。
「さぁ!早く」
全治は一咲に駆け寄ろうとする。
将太はその肩を掴むと、そのまま地面に叩きつけて羽交い締めにした。
「……もう一咲ちゃんは事件を解かない」
「へぇ……じゃぁ、君が?拷問でもして吐かせる?」
「僕が解決して見せる。一咲ちゃんの代わりに」
その瞬間。ぐるりと、世界が回り、将太は地面に伏せられた。将太が地面に向いた顔をおそるおそる上げると、その背には全治が真顔で膝を乗せていた。
「面白くないなぁ。君はあくまで助手だろう。何、探偵になろうとしてんの?悪いけど君の宿敵は嫌だなぁ。あまりのもザコすぎて」
「くそ……離せ!」
将太が身をよじると、膝がその背に食い込む。将太が顔をしかめると、全治は愉快そうに笑った。
「ほら、一咲ちゃん。早く解いて。俺はただ輝いている君が見たいんだ。考えれば分かるはずだよ」
一咲は全治と将太を見比べて、頭を抱えて俯く。
とりあえず、自分を抑えている限りは全治が一咲に近づくことはできない。そう思い、将太は抵抗をやめる。そのかわりにない頭だけで必死に考える。
―一咲に探偵なんかさせない。自分だけの力で謎を解くのだ。
全治は言った。謎は出揃ったと。考えればわかるはずだと。それは真相にたどり着くだけの材料が揃っているということだ。
東はどうやって紅茶に毒を盛られたのか。
ミユキを突き落とした犯人はどこへ消えたのか。
ミツキは何故首を吊られたのか。
唯一生き残っている可能性のある遠西はどこに潜んでいるのか。
何故その遠西は犯人ではないと全治は言い切るのか。
数々の謎が浮かんでは消え、ふと。些細な違和感だけがそこに残る。
―何故全治は、月の写真にバツ印をつけたのだろうか。
今まで全治は、事件自体には傍観を続けてきた。ではなぜ最後の最後で月の写真にバツ印をつけるなんて手伝いをしたのか。それが将太には引っかかった。
全治は言った。
最後だけやらないってのも気持ち悪いじゃない。
何故、犯人は最後だけそれをやらなかったのだろうか。
―いや、やれなかったんだ。
ミツキが死んだあと、犯人は絵具を用意することも、写真にバツ印をつけることもできなかった。それはなぜか。
―ミツキを殺した犯人は誰でもない。ミツキ自身が犯人なのだ。
ミツキが自殺だとすると、踏み台なしにどうやって首を吊ったのか。
彼女は床から数十センチ離れた場所で首を吊っていた。
少し。少しの段差でいいのだ。一センチ。爪先が床から離れれば、彼女の自殺は成功する。しかしその少しの段差も現場にはなかったのだ。一咲がそばにいた以外。床には何ひとつだって転がっていなかった。
一つパズルのピースがはまると、思考がさえてくる。将太の頭の中で次々に事件の全貌が見えてくる。ただ、ピースがはまり、脳裏に浮かんだ考えに将太は薄ら寒さを覚える。 いや、まさか。そんな言葉が頭をめぐる。
「だめだ!」
一咲に対して将太が咄嗟に出した言葉だった。
ただ遅かった。
将太は声より遅れて視界に一咲をうつす。
―なんの才能もない。主人公に足り得ない。全治に言わせればただの助手。そんな、自分が。ある一つの真相にたどり着いたのだ。
天才と呼ばれた彼女がたどり着かないわけがない。
はらはらと、一咲は声もなく。呆然と泣いていた。
「やったー!一咲ちゃんとけたんだね」
はつらつと笑う全治に声にならない怒りをこめて精一杯暴れ、その足から逃れる。彼女のもとへ駆け寄ろうとするが、全治はすぐにこちらの腕をつかんで、後ろ手に押さえつけた。
「邪魔するなよ。これからがいいところだ」
「真相なら僕だって分かってる。ミツキさんは首を吊った……。眠っている一咲ちゃんを踏み台にして。そこまでして他に犯人がいるように偽造するのは、彼女が全ての事件の犯人である以外ありえない。死後も容疑をかけられないよう、他殺に見せかけて自分を殺したんだ……」
一咲の背にあった生々しいアザは、彼女が首を吊るために思い切り踏みつけた跡なのだ。
将太がまくしたてのは、一咲から真相を語らせないため。探偵役をせめて奪ってやろうと考えた将太の悪あがきだった。
そこまで聞いて、全治は深くため息をついた。
「将太くんはなんて浅はかなんだろう」
それは彼の呆れからなのか、一瞬全治の拘束が緩くなる。そのすきを逃さず、将太は力一杯全治を払いのけて、やっと彼の捕縛から逃れる。無理に拘束から抜け出たせいで肩が痛かった。間接が外れたらしかったが、そんなこと今は気にしていられない。腕が離れたのと同時に将太は一咲のもとへと駆け寄った。
「一咲ちゃん。一咲ちゃん考えるのをやめるんだ」
一咲ははらはらと泣き続け、うなだれる。
「将太。もう全部分かっちゃったもん……分かっちゃったから……犯人は……」
「分かってる。僕が分かってるから大丈夫。犯人はミツキさんだ。僕も分かってるから……この先は僕が考えるから」
一咲は首をふる。
「この事件に犯人はいないんだよ……将太」
震えた。やっと絞り出したような声だった。
「えっ……何言って……」
「自殺したのはミツキさんだけじゃない」
―東は毒殺、ミユキは窓から突き落とされたはずだ。首つりとは違う、あきらかに第三者が絡んでいる。
「一咲ちゃんそれは一体どういう」
一咲は前を向く。恨みがましい視線は、将太を通り越して全治に向けられていた。
「自殺なのよ。将太。東さんも、ミユキさんも……」
何を言っているのだろうか。
笑えない冗談は、逆に将太の口元を綻ばす。
「ははは……一咲ちゃん……さすがにそんな」
「東百合子は服毒自殺。加賀美ミユキは投身自殺。ただそれだけ。この事件にはじめから犯人なんていなかったの」
一咲は顔を俯かせ、拳を握りしめる。とても嘘や冗談を言っている顔ではない。
「だって……そんなこと。写真のバツ印は?あれは犯行後の殺人声明みたいなもんだろ」
「あれは、フェイクなのよ。殺人犯がいるように見せかけるための。そもそも真っ赤なペンキを持ち歩いていたら目立つ。服に跳ねるでしょうね。でも誰も誰の服にもそんなものはなかった」
将太は全治に目を向ける。彼の手や服には真っ赤なペンキが染み付いている。確かに、普通にペンキを使えばこうなるのかもしれない。
「でもバツ印をつけたのが、部屋の住人なら話は別よ。自殺の前。雨ガッパでも羽織って手でも洗って出てくればいい……カッパはそうね、崖の下にでも丸めて捨てればいいわ」
「ミユキさんは誰かと争ってただろう。部屋だって荒れてたし」
「じゃあ聞くけど。争っていたはずの相手の声は聞いた?」
そう言われ、将太は押し黙る。あのとき。ミユキが激しく誰かを罵る声が聞こえた。ただ、それだけだ。言われて見れば相手の声は一言だって聞こえなかった。
「部屋はミユキさんが一人で荒らした。犯人は密室から消えたんじゃない。最初からそこにいなかったのよ」
愕然とし、そのままその場に膝をつく。
「なんのために……どうしてそんなこと」
「それは……分からないけど。そう考えれば全部辻褄が合う」
ぱちぱちぱちと、一際大きな拍手があたりに響き渡る。
将太が睨みつける先で、全治は楽しそうに拍手を続けていた。
「お見事一咲ちゃん。やっと謎を解明できたね」
「全治……」
「さてさて、ここからは犯人の独白といこうか。っていっても?独白役のミツキちゃん死んじゃったから。しかたないね。俺が動機は話してあげよう。みんなが自殺したのはね」
ドラムロールを口ずさみ、将太は「じゃん!」と言ってから両手を広げた。
「一咲ちゃんに復讐するためだよ」
平然と、さも当たり前かのように全治は告げる。
将太は一咲を見つめるが、心あたりがないようで、首をふる。
「うーん。そうだな少し昔ばなしをしようか。今から十年前。東純哉という若者が、高架下で刺殺体で発見されたんだ。捜査は難航。不良少年が容疑者として逮捕されたけど、証拠不十分で釈放。後に犯人は自殺していたことが分かった。そんな話だよ」
十年前というと一咲が心を閉ざして地下に引きこもった頃の話だ。
「待てよ……東って」
「そうそう。純哉くんは、東百合枝ちゃんの一人息子だよ。犯人は加賀美ミハナ。ミツキちゃんたちのお姉ちゃん。ちなみにその時の不良少年は朔夜くん。あれれ、おかしいね。みんな今回の事件の関係者だ」
にたりとさぞおかしそうに全治は笑う。
「ミハナちゃんは。純哉くんに付きまとわれていたんだよ。そしてその食指が妹たちにも向いていることに気がついて。凶行に及んだ。ミハナちゃんはとても弱い人間だった。妹たちを守るためとはいえ、一人の人間を手にかけた。罪悪感に苛まれながらも警察に捕まるのは怖い。そうして怯えて暮らしていたら冤罪で誰かが捕まった。心底ほっとしただろうねでも、あることをきっかけに彼女の心は怯えを通り越して壊れてしまう」
「あること?」
「朔夜くんの母親の自殺だよ。当時朔夜くんも相当な悪だったみたいでね。喧嘩や補導、ちょっとした軽犯罪はお手のものって感じだったんだ。彼の母親はいろんなところに頭を下げて回ってたらしい。そんな不出来な息子がついに人様を殺めてしまった。朔夜くんが無実を訴えているにも関わらず、母親は全く信じもせず謝罪代わりと解放に自分が命を絶ったんだ。自分のせいで何も関係ない人が死んだのは、大分堪えただろうね。ミハナちゃんは遺書を残して手首を切って自殺だよ。まぁ、そのおかげで朔夜くんは無罪が分かって釈放されたんだけど」
あまりに悲惨な不の連鎖。だがますます分からない。
「それが何故殺人に見せかけた自殺だなんてことに繋がるんだ」
「彼らの復讐の目的は、汐崎一咲を探偵に戻すこと。いや戻らざるを得なくするためだよ」
「それって……お前の目的だろ。彼らになんのメリットが」
「一咲ちゃんが自分の罪を知って、苦しんで生きていけるようにだよ」
あっけらかんと全治は言い放つ。
「だから、なぜ!」
話を遮られたからか、全治は口を尖らせて、ふてくされたような顔をする。
「それをこれから説明するんだよ。一咲ちゃん。あの女に包丁で足を刻まれた時さ。どこか事件に向かおうとしてたでしょ?警察からの要請で……」
一咲はびくりと震えて、思わず自分の足を押さえる。痛々しすぎる過去のトラウマも、全治は蟻の巣をつつくように簡単にいじくりまわす。
「………刺殺体が発見されたから意見が欲しいって」
「そうそう!結局そのあと、包丁で滅多刺しで事件現場にすら向かえなかったあの事件だよ。それこそが東純哉の殺人事件」
顔を強ばらせて、一咲は下唇を噛む。
「一咲ちゃんは事件を解くことを放棄した」
「そんなあんなことがあったんだろ!それを放棄なんて」
「だってきっと。一咲ちゃんあのとき事件もう解いていたでしょ」
間髪入れず、全治は答える。一咲はよりいっそう下唇を強く噛み、それをほどいた。あまりに強く噛んでたのだろう。血が滲んでいる。
「君がこの事件を放棄しなかったら……少なくとも冤罪は起きず、死ぬ人間も少かっただろうね。かわいそうなミハナちゃんたち」
「何ふざけたこといってんだ!実の母親に刺されて、事件なんか向き合えるわけないだろ。逆恨みじゃないか!」
将太のあらげた声に、全治はくすくすと笑う。
「そうだよ。逆恨みもいいところ。純哉は自業自得だし。ミハナもさっさと自首してればよかっ
た。朔夜が誤認逮捕されたのも日頃の行いが悪かったからだし、その母親が自殺したのも息子を信じなかったのが悪いんだ。でもね、みんな自分の愛した家族が悪いなんて思いたくなかった。誰かを恨みたかったんだよ。だから俺は提供してあげたの。一咲ちゃんっていう恨みがましい相手を」
「提供……?」
妙な言い回しにひっかかりを感じ、将太は聞き返す。
「実際将太君の言う通りなんだよ。普通、事件解決を放棄した。いや、まぁ。母親に刺されて生死の境をさ迷った十才の少女を恨んだりなんかしないよ。俺がみんなを引き合わせて、ちょっとずつちょっとずつ怨みになるようコントロールしてきたんじゃないか」
ただ、淡々と。まるで誉めてほしいとでも言うように全治は語り続ける。
「いやー。故意に逆恨みさせるのって難しいかなって思ってたけど。案外簡単だったね。みんな弱くて助かっちゃった。で、結局。僕が提案したのよ。難事件を用意して、彼女を探偵に戻すことで、責任をとらせようって」
「……一咲ちゃんはなにも悪くないだろ」
「そんなん分かってるよ。だから言ってるじゃん。故意に逆恨みさせたって。一咲ちゃんのためだけに死んでるんだよ?探偵に戻りたくないなんていいわけ。もう、できるわけないじゃん。
「ねぇ?一咲ちゃん」
微笑みかける全治に、一咲は反応しない。ただ下を向いて茫然としている。
「一咲ちゃん!聞かなくていい!」
将太は一咲の耳を覆うようにして塞ぐ。
「いやいや。聞く義務あるでしょー。三人も死んでて」
そこで将太は引っ掛かる。東、ミユキ、遠西、ミツキで死んだのは四人ではないだろうか。
「遠西さんは生きているのか?」
湧いてでてきた一縷の望みに、全治は首を振る。
「いんや。死んでるよ?もともと計画ではミツキちゃんは月になぞらえた刺殺体で発見される予定で、朔夜くんが独白役だったはずなんだけど……。朔夜くん。その計画の前に死んじゃったんだ。余命幾ばくもなかったのは知ってたけど……やることやってから死んでほしかったなぁ」
遠西の、異常なまでの細さや肌の青白さが思い出される。そんな体で、どんな思いでここに来たのだろうか。砕かれた希望とむなしさに将太の胸は苦しさにいっぱいになる。
「遠西さんの死体はどこに?」
せめて弔ってやらなければないない。そう思い、尋ねれば全治は困ったように首をかしげていた。
「んー、それがわかんないや。第一発見者はミツキちゃんだったんだけど。彼女がどこかに隠したみたいでさあ」
「そんな……」
「でも彼女も面白かったなぁ。あの子がね。一番一咲ちゃんのことを恨んでたんだよ。それこそちょっと効きすぎて殺してしまうほどに。この館を手配したのもみんなの死に方を考えたのだって彼女なんだ。もちろん俺も監修はしてあげたけど……。それなのに、朔夜くんが発作で死んじゃったら、ぜーんぶ。罪を押し付けてさ。俺に一緒に逃げようって言ってきたんだ。復讐は、もう十分だからって。彼女俺に好意があったみたいでさ。迷惑だよねー。勘違いされたら困るっていうかさ。最後まで役目果たしてよ。って言ったらそのまま自殺しちゃったや。全く……ちゃんと写真にばつ印つけてから死んでほしかったよね」
全治はただひたすらに笑ったままだった。
「お前は……本気でいってるのか」
「本気さ。そのためのキャスティングなんだから」
将太はただ愕然としていた。
―この男は、本当に何一つとして、悪いことをしているなんて微塵も思っていないのだ。目の前で死んでいった命など羽虫ほどの存在ですらない。ただなるべくしてなったと。
将太はこの一年いろんな犯罪を見てきた。目を背けたくなるような凄惨な事件だってあった。それでもここまで腹の底から沸々として、胸がむかむかする。同じ空気を一秒だって吸っていたくない。そんな人間と出会ったのは初めてだった。
将太は全治のことを少し変わっている奴だとは思っていた。それでも分類係で三人仲良くできていたと思ってきた。しかしこの館で事件が起こってからそんな幻想は意図も簡単にぶち壊された。もうたくさんだった。
「佐藤全治……お前は絶対許さない!」
将太が心のうちを晒すと、全治はぽりぽりと自分の頬を引っ掻いて、心底理解できないとでもいうようにあざとらしく首をかしげて見せる。
「んー別に君の許しなんていらないし?なんていうのかなぁ。俺の存在は必要悪?といってもこれといって重い罪状がつくようなことしてないしなぁ……」
「なに言って……」
将太はその先の言葉がでなかった。東は服毒自殺、ミユキは投身自殺。遠西は病死で、ミツキは首をつった。この事件に犯人などはなからいないのだ。つけられたとして。自殺幇助と将太と一咲への監禁罪ぐらい。そもそもそれを証言できる人間はみんな死んでる。全治の言う通り、彼を大した罪にはとえないのかもしれない。
―それでも
「それでも俺はお前を許さない!お前のせいで!お前のせいでみんな死んだんだ!」
「しつこいなぁ。勝手に死んだだけでしょ。俺のせいなんて言い方やめてよ。まぁ、俺のおかげ?俺に思う存分利用されてくれたって言い方なら……百歩譲って事実だけど」
汐崎一咲を探偵に戻す。そんな馬鹿げた計画に四人もの人間が命をかけた。探偵をやめた一咲を責めるために。お門違いの逆恨みをこの男に植え付けられて……。将太は喉を抑える。込み上げてくるのが吐き気なのか怒りなのか。分からないほどだった。
一咲はただしくしく泣き、将太は怒りに拳を握り、全治はただへらへらと笑う。そんな喜怒哀楽渦巻く空間は次の瞬間、がらりと様相を変えた。
「ねぇ……」
まるでその声は突然浮き出たように辺りに響いた。風に木々が擦れる音も、呼吸音も全て聞こえなくなるほど。はっきりと。
決して大きな声ではなかった。ただ全治ですら目を開いてその人物を見つめている。
建物の壁にもたれかかるようにして、そこにはミユキが立っていた。
その服はとこどころ破け、至るところに擦り傷やきり傷がある。ミユキは足を引きずりながら歩いてきた。
「ミユキさん生きて……!」
「来るんじゃない!」
駆け寄るために、立ち上がろうとした将太をミユキが怒号で制す。
そしてほとんどよろけて転ぶようにして地面に手を伸ばすと素早く拳銃を拾い上げた。
「残念だけど。ミユキちゃん。それ弾入ってないよ」
多少の動揺は見せたものの、全治はすぐに気を取り戻したようだった。ただ拳銃を指差して淡々と言うが、ミユキの手元を見て、その微笑みは再び消えた。
ミユキはポケットから弾を取り出すと、震え、おぼつかない様子で、それでもやり方は知っているのか確実に装填していく。
将太はいつでも一咲を守れるよう、彼女を隠すように立ちふさがるが、ミユキが銃口を向けたのは全治だった。
「今言ったこと本当なの?」
「本当もなにも。この計画は知ってたでしょ?」
「ちがう!私たちを利用したの?お姉ちゃんを騙したの?」
「騙したってなにさ……もともと真実しか言ってないよ?一咲ちゃんさえ事件を解いていれば、君のお姉さんは少なくとも自殺はしなかった。だから一咲ちゃんを、探偵に戻そう。責任をとらせてやろう!ってまぁ……君たちには聞こえはよかったと思うけど」
「あんたがみんなを誘導したんじゃない……汐崎一咲を恨むように」
全治はいぶかしげな顔をしてから吹き出した。
「あはは。そうだったね……君だけはあの連中の中でかろうじてまだまともだった。お姉さんに引っ張られて、嫌々この似非復讐劇に参加してたんだもんね」
「黙れ!」
「ていうかさ、なんで生きてるの?」
ミユキが生きていたことは、やはり全治にとっては想定外のことらしかった。気にくわないと眉を潜ませ、じっとミユキを見つめている。
「……ねぇ、将太くん。朔夜くんの血ってどこにあったんだっけ」
「えっ……建物の裏だけど……」
「そう。なるほどね」
全治はため息をついてから押し殺したように、くっくと笑う。
そうして耐えきれなくなったのか大声で笑い始めた。
「あははははは!そんなことってあるんだ」
意味が分からず、将太は思わず一咲の方を振り変える。一咲が青い顔をしている。そうしてぎゅっと片手で将太にしがみついていた。
「将太。何故建物の裏に血があったんだと思う?」
そういわれ、将太は思案する。
―確かに、何故?遠西は病死。建物の裏で血でも吐いていたのだろうか。
「遠西さんも自殺するはずだった。でもその前に持病で死ぬことを覚悟した。今死ねば計画に邪魔な死になるかもしれない。そう思った彼はきっと自分の身を隠そうとしたのよ」
「隠すってどこに……」
「建物の裏……そしてそれをミツキさんは見つけて、さらに見つかりにくいところに隠そうとした」
―痩せているとはいえ、遠西は高身長の大男。館に運び込めば、僕たちに見つかる可能性がある。運ぶにもかなりの重労働だろう。そうなると……。
「崖に……捨てたのか?」
震えた声で将太が尋ねる。一咲は否定しない。
―何故全治は僕に遠西の血痕の場所を聞いたのだろうか。
―何故全治はミユキの生存を笑いつづけているのだろうか。
もしミツキが遠西の死体を崖に捨て、そのあとでその真上にミユキが落ちたのだとしたら。
「肉って柔らかいのね。弾力があって……あの肉と骨のひしゃげる音……内蔵がつぶれる感触。体液の温度……まさに地獄だった。痛くて気持ち悪くて何度も気絶と覚醒を繰り返した……次に目覚めるときは死んでいてくれって……でもダメなの。痛みが何度も私をこっちに引き戻す!」
銃が放たれる。
たらりと、全治の頬から血が滴るが、彼は相変わらず、飄々とした表情で構えてる。
「ひゅー。紙一重のいい狙い」
「黙れ……」
「でもそうかー。百合枝ちゃんもミツキちゃんも……まぁ、おまけで朔夜くんも……大義のために死んだのに。君ってやつはおめおめと意地汚く生き残っちゃって……」
「黙れ」
二発ほど連射をする。どちらも意思をもったように全治を通りすぎていく。
「大丈夫。分かってるよ。正常な人間だもんね。狂ってたのは君の姉の方だ」
ガタガタと銃口が震える。弾は放たれるが、全治に届く前に地面にめり込む。
「君のお姉さんは実に愚かだったよ。この似非復讐劇に最後まで反対してた君を泣き落としで頷かせたあけく飛び下りさせたんだから。その痛みも全部君の姉のせいだよ」
「黙れ……」
ガタガタと、震えはどんどん大きくなる。
「それなのに、君の姉ときたら、いざ自分が死ぬ番になったら俺に「一緒に逃げよう」って言ってきたんだぜ」
「……嘘だ」
「嘘じゃないさ。十分復讐は終わったから。一緒に逃げよう。って変なこと言うんだもん。だから正直に言ったよ。気持ち悪いって。一番進んでこの計画に噛んでたのに自分だけ助かろうなんておかしいよ。って。で……愛してないって言ったら泣き崩れるんだもん。どうなるかと思ったよ」
「黙れ……!」
「まぁ、その後ちゃんと自殺してくれたからよかったけど」
「黙ってよ……」
「…そうそう。君が飛び降りた後、本気で朔夜くんが犯人だと思い込んでいる瞬間もあったんだよ。君に死ぬよう進めたのはミツキちゃんなのにね」
「お願いだから黙ってよ!」
泣き叫び、震えた弾丸が放たれる。
わざとだ。将太は思った。
ミユキが生きていたのとはおそらく全治にとっては誤算なのだ。そしてこの場で起こる彼にとって最悪の事態は、逆上したミツキが一咲を撃ち殺そうとすること。この場で全ての抑止力になっているのはミユキがもつ銃だ。彼はそれを無効化しようとしている。自らを狙わせることで全弾なくそうとしているのだ。
四発目の弾が放たれた後、「待った!」と全治が叫んだ。
「それが、最後だよ」
その言葉にミユキは連射をやめる。しかし引き金から手を離すことはしない。あと一発でミユキの無力化は成されるのに、何故全治はそれを彼女に伝えたのだろうか。将太は妙な胸騒ぎを覚える。
「君はその震えた手で最後の一発をどう使うの?俺を撃ってもいいけど。当たるかなあ。それよりはもっと賢い使い方があると思うけど」
全治は人差し指でこつんこつんと自分のこめかみをつつく。
「お前!なにを!」
全治にとっての最悪の事態は、将太にとっても最悪の事態だ。一咲が狙われても守れるようにと、彼女のそばを離れなかった将太だったが、全治のそのジェスチャーを見逃すことはさすがにできなかった。
しかし、将太が駆け寄ろうとすると、反射的にミユキは銃を将太たちに構える。
「待ってよミユキちゃん。そんな奴に使わないで、絶対自分を撃った方がいいって」
銃口が全治へ向く。ただ最後の一発は彼女にとっても命綱。震えたまま撃てないでいる。
「だって、そうだろう。君が大好きな姉はもう二人ともいない。君が生き残ったらどうだい?罪は犯してないかもしれないけどここでは人が三人も死んでいるんだよ?警察に根掘り葉掘り聞かれるじゃないか。そうしたら君のお姉さんたちの狂った悪行が世間に知らしめられる。大バッシングだよ?そんな世界で生きていたい?」
「何言って……」
「この世界になんて未練ないだろう。このまま死ねばお姉ちゃんたちに会えるし、きっと褒めてもらえるよ」
震えた手がまた動く。わなわなと、自らのこめかみに向かって。
「やめろミユキさん!やつの言うことを聞くな!」
将太は怒りに任せて叫ぶが、全治はバカにするように心底楽しそうに大笑いする。
「汐崎一咲は、君たちのおかげでもうこの先の人生償いのために探偵として生きていく生き方しか残されていないんだ。この事件が公表されば、世間は囃し立てるだろう!孤高の探偵の誕生だ!さぁ、ミユキちゃん死んでよ!君が死なないと完成しないんだから!お姉さんたちを無駄死にさせる気?」
全治はどこまでも狡猾で、荒唐無稽の用意周到。がたがたとミユキの震えは止まらない。震えることで狙いがこめかみから外れる、それを戻すの繰り返しで、いつ引き金を引いてもおかしくない状態だった。
―止めるなら、今しかない。でも不用意に近づけば今にでも引き金を引いてしまう。言葉で引き留めるしかない。全治のように同情を引いて……。
「やめるんだミユキさん!ミツキさんだってそんなこと望んでない!」
怒鳴るように叫んだ将太の声に、震えたままミユキは視線を移す。
「ミユキさんはきっと……貴方の死なんて望んでない!貴方に生きていてほしいはず……」
「だめ将太!」
一咲が後ろから将太の口を塞ぐ。何故止めるんだと、将太は一咲に振り向くが、一咲は青い顔をしてミユキがいる方を見つめていた。
将太は再びミユキを見る。
とっくに泣き腫らしていた彼女の目から、やけにはっきりと涙が一筋流れていった。
「益子さん」
その震えは止まっていた。
「知ってるでしょ。この計画に私たち姉妹は乗ったのよ。ミツキ姉は……。私に一緒に死んでって言ってたの。私に死んでくれって。それが姉の望み」
ミユキは意を決したように静かに目をつむる。
「やめっ……やめてくれ!」
将太は手を伸ばし、走り出そうとする。足がもつれてうまく前に進まない。その現実を否定するように、脳が景色をスローモーションに見せる。
あまりに鮮明に回りの景色が揺れ動く。ニヤリと笑う全治の口許、ミユキの頬を伝う涙。引き金を引こうとする指先。
そのゆっくりとした胎動の中を何かが動いていた。
黒い。その影は現実の世界ではきっとそれほどの速度で動いている訳ではなかったと思う。ただ、その動きは、ミユキの動きを一瞬止め、全治の笑みを消した。その影は、将太の手をすり抜けて、ただひたすらにミユキのもとに飛び込んでいった。




