栄転という名の左遷
大きな段ボールを抱えて、将太はひぃひぃと階段を下りてきた。
最低限の蛍光灯が薄暗い廊下を点々と照らしている。今にも切れそうな白熱灯はちかちかと光り、羽虫が体当たりする音だけが廊下に響き渡っていた。
ここは警視庁地下2階。
将太は、夢にまで見た場所で働くことになった。
ことの発端は、黒歴史の始末書を提出しに行った時に起きた。停職、免職も覚悟して頭を下げに行った先で、将太に渡されたものはまさかの辞令だった。
同じ交番勤務の同僚には「栄転だ」と祝い酒さえふるまってもらったものの、生憎将太には栄転の理由に心あたりはない。
なんでも、今度新しくできる部署に、何のしがらみもないフレッシュな若手が欲しいということだった。しかし所詮それは建前。本音はいざとなれば簡単に切り捨てることのできる「やらかした若者」が欲しかったというだけだ。
そう。これは左遷なのだ。
それでも、将太にとっては憧れの警視庁。交番勤務のおまわりさんではなく。警視庁の刑事として職を全うできる。うれしい限りだった。
廊下の突き当りにそのドアはあった。ドアの表札には「警視庁公安一課未解決事件分類係」とあった。
さきの失敗はこれから取り戻せばいい。ここから刑事としての人生をスタートすればよいのだ。そんなことをおまじないのように心の中で繰り返して、将太は大きく深呼吸をする。
段ボールを床に置いて、将太はドアをノックした。
しかし、返事はない。
もう一度叩くが、結果は変わらなかった。
「あの、失礼します」
言いながら、将太はドアノブに手をかけ、そっと回した。施錠はされていなかった。部屋の中にはファイルが入った棚がずらりと壁沿いに並んでいた。
部屋の真ん中には来客用と思える小さなソファと机が置いてある。
おまけにテレビや冷蔵庫に電子レンジ。はたまた洗濯機までおいてあり、奥には簡素ながら小さなキッチンすらある。人一人、いつでもここで生活できそうだが、それでも無機質に生活感なく見えるのは、片付いているからか、はたまた窓がないからか。
来客用と思われる机に将太は段ボールを置いた。部屋の隅には空のデスクが一台だけ。おそらく、そこか将太の席になる場所だ。
―この部署に一人だったらどうしよう。
一抹の不安を抱えながら、将太が部屋を見渡すと、部屋の奥にカーテンがかかっている場所があることに気が付いた。
黒い、大きなカーテン。開ければ窓の光でも差し込んできそうだが、ここは地下2階。おそらくは部屋の仕切りだろうと、将太はカーテンに近づいた。
将太がカーテンに手を伸ばすと、後方から扉の開く音ともに「あれー?」と素っ頓狂な声が響いた。
将太は手を止め、振り返る。
そこに立っていた人物に将太の口から「はっあ?」という声が漏れた。
「待ち合わせより三十分も早いじゃん。せっかく隠れて脅かしてやろうと思ったのに」
声の主は、ニタニタと笑いながら将太を見つめている。まっ黄の金髪に耳には何個も空いたピアス。ラフに来たパーカー。将太にとっては忘れもしない。黒歴史に刻まれた。誘拐犯の顔だった。
「きっ……君は……えっ……なんで?」
将太は口をパクパクしながら、誘拐犯の顔を指さす。
「えー?なんでって、なにを聞かれてるのかな。俺の名前?それともここにいる理由?または、どうして誘拐犯が捕まりもせずのうのうといるのか……かな?」
全部。と言いたいのを飲み込んで、将太は身構えた。懐の手錠に手を伸ばし、臨戦態勢に入る。それを見て誘拐犯はけらけらと笑った。
机を挟んでにらみ合う。といっても睨んでいるのは将太だけだが。
いつ掴みかかろうと将太がタイミングを計っていると、誘拐犯は「はぁ」と馬鹿にしたようなわざとらしいため息をついた。
「まぁ。順番に答えてあげるよ。俺の名前は佐藤全治。はじめまして?でいいのかな。一回は会ってるけど」
「警視総監の娘を誘拐したんだろ」
「おかしいなぁ。君は様子を見てたはずだよ。俺が乗せていたのは身重の妊婦。あれが誘拐に見えたのか?」
「君が誘拐犯じゃないと仮定して。その奥さんはそのあと体調はどうなんだ」
「んー?奥さんって……ああ、ゆいちゃんのことか。あの子は奥さんじゃないよ。元気っちゃ元気……まぁ、子供ってのも存在しないんだけど」
「は?」
―誘拐犯じゃない。子供も存在しない。ならばあの日見た光景、判断した状況は一体なんだったというのだ。
将太は警戒を緩めず、佐藤全治と名乗った青年から視線を離さない。
「ゆいちゃんがさー。親?の束縛がもう嫌だっていうから。逃避行手伝ってあげてたのよ。ただ、追手がそこまで迫ってて。おなかにクッション詰めて一芝居打ったのよ。なかなか名演技だったでしょう。ゆいちゃん昔演劇部だったんだって」
「つまりは同意の上一緒にいたと」
「そうだよ」
「単なる家出が誘拐騒ぎになっただけ?」
「んー。簡単に言うとそうね」
将太は懐から手を抜くと、頭を掻いてため息をついた。
「……いや、でも。そうだ!君は僕をだまして交通違反を……」
「騙すって。俺は病院に行きたいってお願いをしただけだよ。まぁ、違反切符切るってなら。もちろん罰金くらい払いますが?」
これ見よがしに財布を出して見せる全治に、将太は片手を軽く振って、それを仕舞うように促した。
「とにかく分かった。君は誘拐犯じゃない。で、その善良な市民である君がどうしてこんなところにいるの」
全治はソファにどかりと座る。
「んふー。それはね。この分類係を作ったのが俺だから」
あまりに、突拍子もない発言に。将太はしばらく間をおいてから「は?」という一文字だけをこぼした。
「ここを作った?」
「そうだよ。部署を一つ作る権利を総監から買い取ったんだ……。ゆいちゃんから手を引くって条件でね。なーんてあっははは」
両手を広げ、自慢げに全治は語る。
「そんな馬鹿な冗談」
「冗談なものか」
全治は立ち上がると机に両手をつき、身を乗り出すようにして。こちらを見つめた。
「信じようと信じまいと自由だけどね。対外的には俺は君の上司ポジションになるわけだよ。益子将太くん」
なんとも言えない。迫力に将太はよろけてソファに座り込む。
―どこかまで信じてよいものか。
将太は値踏みをするように。全治を眺める。
この地下にたどり着くまではある程度の人目がある。全治がここに身一つで立ち入れている時点で部外者ではないのは明白ではあった。
「納得したとして、君も上司だとして。なんでこの部署を作って、そこに俺なんかを呼んだわけ?」
「まぁ、誰でもよかったんだけど。しいていうなら君みたいなお人よしの正義馬鹿がよかったの。さすがに
警視庁の部署だからね。現職の警察官も一人はいないと」
正義馬鹿という言葉に将太は眉をひそめつつ、話を進めるためにも押し黙る。「そういうところだよ」と全治は微笑んだ。
「まぁ、よく言えば。僕はまっすぐな人間が欲しかったんだよ。彼女のために」
「彼女?」
「そう彼女」
全治はすたすたと、部屋の奥のカーテンまで歩み寄ると。「じゃーん」という掛け声とともにその裾をつかんで一気に引っ張った。
カーテンはめくりあがり、中から出てきたのは頑丈そうなステレンスの鉄格子と、その先に広がる。独房のような一室だった。
床には雑誌やぬいぐるみ、ゲーム機などが転がっている。そして簡素なベットが一つ。その隅に置かれていた。
将太はあっけにとられつつ、視線だけをきょろきょろと動かす。するとその独房の隅に、少女が一人膝を抱えて丸まっているのを見つけた。
「うわっ」
あまりの気配のなさに将太は一歩後ずさる。
モノトーンの喪服のようなワンピースに身を包んだ少女は、床まで伸びる美しい白髪をしていた。その表情は長い前髪に隠れてよく見えない。
「どう?かわいいでしょう!」
あっけらかんと笑う全治の胸倉を掴み、将太はそのまま全治の体を鉄格子に押し付けた。ガシャンという音がしたが、全治は痛がる様子も見せず、目をぱちくりさせるだけだった。
将太は全治をそのまま後ろ手にし、手錠をはめる。
「えーなにするの」
手を離すと、全治は手錠のはまった手をぶんぶんと振ったり、くるくると回ったりしてみせる。
「それはこっちのセリフだ!なにが誘拐犯じゃないだ。……鉄格子なんにいれて、これは立派な監禁だ!現行犯!」
「ひどいな……これも合意のうちだよ?」
手錠をされたまま、全治は鉄格子の戸を軽く蹴った。キィという音を立てて、その戸は簡単に口を開けた。
「この通り、この鉄格子はただの飾りだよ。格子は恰好だけ。彼女は好きでここにいるんだから」
将太にとってそんなことは関係ないことだった。彼にとってはこんな地下で少女が一人膝を抱えているのが問題なのだ。
そもそもここは一般人が簡単に来れる場所ではない。
将太は、鉄格子の向こうへ歩みを進めると、少女の前にしゃがみこんだ。
「ねぇ、君はどうしてこの警視庁の地下に?もしコイツに何か弱みを握られているなら助けるよ。こんなところいちゃだめだ」
将太が手を出さしだすと、少女はそれを振り払う。バシッっという音は地下によく響いた。
「触らないでくれる」
高く幼い。それでいてよく通る冷たい声。
将太はしゃがみこんだまま弾かれた自分の手を呆然と見つめた。
「早くこいつ追い出してよ」
「まぁまぁ、一咲ちゃん。まずははじめましてでしょう。この部署のメンバーになる益子将太くんだよ」
「は?これが……?冗談きつくない。こんな冴えないの」
その辛辣さに将太の手がそっと引っ込む。
がちゃりと音がする。将太が振り返ると、いともたやすく。全治は手錠を外していた。どうやって外したのか、彼にはもはや突っ込む気すら起きない。
「彼女の名前は汐崎一咲。十年来この警視庁に住み続けているひきこもりちゃんだよ」
「そういう風に言わないでくれる」
「事実じゃないか」
二人の掛け合いを横目に、将太は頭の中で「汐崎一咲」の名を反芻する。
―どこかで聞いたことのある名前だ。
そこではたと、記憶の中のその名前にたどり着く。
「天才小学生探偵……」
だいぶ昔。それこそ将太が子供の頃、メディアでもてはやされていたタレントかなにかの名前だ。十年。順当に成長してればちょうど彼女ぐらいの年のころだろう。
「そんな名前で呼ぶな!」
一咲は金切声を上げると、本やぬいぐるみを四方八方。将太に投げつける。全治は「あちゃー」と顔を覆っていた。
手近に投げるものがなくなると。一咲は頭を抱えて大きなため息をついた。
「もう一度言うわ。早く追い出してよ。コイツ」
全治は「はいはい」と言いながら、将太の首根っこを捕まえる。そうして引っ張られる形で、将太は鉄格子の外に出ることになった。
全治は肩をすくめながら鉄格子のカーテンを引っ張った。
「……何か彼女に悪いこと言ったかな?」
「うん、思いっきり地雷」
バツが悪そうに全治は頬をかく。
「お察しの通り。彼女はかつて天才小学生と呼ばれていた。元探偵の女の子だ」
かつて一世を風靡したタレントが目の前に現れたとて、将太はそこまではミーハーじゃない。
彼にとって大事なの今の彼女についてだ。
「……それで、この部署ができたこと彼女が一体どう関係してくるんだ」
「君には、彼女をここから連れ出してほしいのさ」
「連れ出す?」
全治はこちらを向き直ると、静かに口元だけで笑う。
「汐崎一咲をひきこもりから探偵に戻す。それが君の本当の仕事だよ」




