消えた遠西
「ミユキ……ミユキ……」
ミツキは椅子に座り、泣き続ける。
寒々しいロビーにも荒れた202号にも彼女を置いていくわけにもいかず、将太はミユキを202号室の自室に招き入れた。
一咲は何が起こったのか、どんな結果になったのかは大方この状況や先ほどの物音で推理できていたらしく、ひどく青ざめたままだった。
「その……ミツキさん。すいませんでした」
将太はミツキに向き直ると頭を下げる。ミユキは少し驚いたように俯いた顔を上げる。
「なんで益子さんが謝るんですか」
「俺が、しっかりミユキさんの手を取れていれば、彼女は……」
空を切った感覚、目の前で闇に吸い込まれていくミユキの顔を思い出して、将太は罪悪感に苛まれていく。いっそひどくなじってほしい。その方がずっと救われるとさえ思っていた。しかしミツキはゆっくりと首を横に振った。
「それは違いますよ」
「でも……」
「東さんが亡くなって……益子さんたちが食堂を出たあと、私たちも部屋に戻ったの。しばらくは二人で部屋にいたんだけど……私はどうも落ち着かなくて外に散歩に出ることにしたの。無理にでも誘っていれば……だから悪いのは私。私が悪いの……」
最後の方は涙声でしゃくりあげ、ミツキは目をこする。
ミユキが、殺されたのはミツキのせいではない。
自分のせいでもないことを、将太はだって本当は分かっていた。
ただ後悔はしても、しきれない。あのときああしていれば、こうしていれば。そんな、たらればが、胸にたまって呼吸すらできなくするのだった。
「ミツキさんのせいではないです。悪いのは全部犯人ですよ」
「……そうね。そうよね……でも……」
「大丈夫です。落ち着いて?聞きますから」
ミツキはこくりと頷くと、息を吸って呼吸を整えた。
「しばらく外の空気を吸って部屋に戻ろうと思ったら、鍵がかかってて……困ってたらあの子の悲鳴が聞こえたの」
「その時アイツは?」
唐突に一咲が口を開く。
「えっ……ああ、彼ね。ソファに座ってたわ。手錠に繋がれて」
ミツキが部屋で誰かと争っていたのは状況から見て間違いない。
全治とミツキはミユキが襲われているとき部屋の外にいた。
ミユキが突き落とされる瞬間。一咲と将太は201号室にいた。
誰かがいた以上。ミツキの話通りなら、容疑者となりうる人間は一人しかいない。
遠西朔夜。
遠西は毒殺事件のときも、食事の場に居合わせなかった。誰とも行動も共にしておらず、アリバイを証明する者もいない。普通に考えれば容疑者としては充分すぎるほどだ。
「外部犯の可能性は?」
一咲が呟き、さらに続ける。
「確かに遠西さんは怪しいと思う。でもミユキさんと犯人が争っている時間はそれなりにあったよね」
「あ…ああ、最初に争う声と、音がしてから部屋に入るまで3、4分はあったと思う」
「ミユキさんは隣に私たちがいることも、外にアイツがいることも知っていたはずなのに、犯人の名前を叫ばなかった。それっておかしくない?普通なら、犯人の名前を叫ぶんじゃないかな……それができなかったってことは」
「……名前を知らない人。この館にいる人間以外が犯人の可能性がある?」
部屋から消えた方法は分からないが、外部犯なら確かにミユキは犯人の名前を呼ばなかった訳にも道理が通る。
「いや……遠西さんよ。」
ぽつり、と。ミツキが呟いた。
「でも、遠西さんならなんでミユキさんは彼の名前を……」
「状況から言うとあの人が犯人でしょ!」
一咲を睨みつけながら、唐突に叫んで、ミツキは立ち上がる。
「あの人はミユキを、殺したの……今度は私が殺してやる!」
ふらふらと、それでも確かに意思をもって、ミツキは扉にかけよる。
飛び出しそうになったすんでのところで、将太はその体を押さえた。
「ミツキさん急にどうしたんですか!落ち着いて!」
「だって……あの人が!」
「そう決まったわけではないです。今言った通り外部犯の可能性も……」
「あの人よ!あの人よ!」
抵抗する力は残っていなかったのか、ミツキは泣きながら、崩れるようにうずくまる。
「ミツキさん。確かに遠西さんが容疑者として怪しいのは事実です。だから、今から彼に話を聞いてきます」
「私もいくわ」
「いいえ。貴方はここで待っていてください。一咲ちゃん。ミツキさんのこと見ててくれる?」
一咲は一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに「わかった」と、頷いた。
―妹が死んだ。外部犯なんて得たいの知れない者より、少しでも見知った顔に責任を押し付けたいのかもしれない。
将太が館を出ると、すっかり辺りは暗くなっていた。部屋から漏れる灯りには足元を照らすほどの光量はない。
スマホのバックライトで地面を照らして歩く。探す場所はそうはない。しかし結局遠西の姿は、館の半面側には見当たらず、将太は恐る恐る。崖側の道も進んでみる。本来人が通るために儲けられた道幅でもないのだろう。横這いになってやっと通れるほどの道幅しかない。踏み外せば、ミユキ同様崖にまっ逆さまだ。
それでもスマホのライトをもとに将太は進む。
館の幅の中腹。ちょうど201号室と202号室の真下辺りで、ふと、地面。正確に言えば、コンクリートの土台を照らす光の中に将太は何かが見えた気がした。
もう一度その場所を照らしてみると、それは乾いた数滴の血痕だった。急いで周りを照らすが、血痕はそこにあるだけ。
「遠西さんー!返事してください遠西さーん!」
叫び、呼んだ声に返事はなく。ただ夜の闇に吸い込まれる。
血の量は当に数滴だけなのだ。今ついたものかも分からない。遠西のものでもないかもしれない。しかしそこにそれがあるだけで、将太は彼の安否を心配してしまう。
将太はしばらく、彼の名を呼び、辺りを探索したが、やはり彼が返事をすることはなかった。
*
館に戻り、遠西を見つけられなかったことを報告すると、ミツキは目をらんらんと輝かせ、口元を緩ませた。
「やっぱり。あの人が犯人なのよ!」
ミツキは一咲の横に座り、絡みつくように腕にしがみついていた。
将太は面食らい、一瞬一咲の方を見るが、一咲は首を振る。ミツキは先ほどからずっとこの調子らしい
「いえ、だから。血痕が残っていて……遠西さん自体が襲われた可能性が」
「そんなの関係ない!いなくなったのは後ろ暗いことがあるからに、決まってる!」
地団駄を踏み、ミツキは金切り声をあげる。大人しく、慎ましげだった彼女の姿はない。そこにいるのはだだをこねる幼子のようだった。いや、ようではなく。恐らくショックによる幼児退行そのものなのだろう。ミツキは一咲の腕にしがみつき、ただ親指を噛んでいた。
一咲は困ったようにそれを見つめるが、振り払ったりはせず、されるがままにしていた。
「でも……。血痕はごく少量だったんでしょ。襲われているなら、もっとたくさん出血するんじゃないかな。ただの怪我なら
将太が呼び掛けた段階で助けを求めると思うし……」
確かにあの量は致死量となる量ではない。ただそうなると遠西が消えた理由が分からない。
「そうだわ。こういうのはどう?ミユキは誰かと争っていた。その時にあの人は怪我したの!落ちていたのはその時の血よ!」
ミツキが大きな声で言う。確かにそれだと筋は通る。怪我はしたが姿を表せない理由としては、十分だ。
「そうよ。わかったわ!あの人はが窓から逃げたのよ!だから202号室の真下に血痕があるの!」
ミツキは手を叩いてから、窓を指差す。
「窓のすぐ外は崖ですよ。逃げ場なんてないんじゃ」
「でも、横向けば一人通れるぐらいのスペースはあるわ。ロープかなんかで慎重に降りればできなくはない」
「ミユキさんが落ちていった後にすぐ、将太が部屋を開けて中に入ったんでしょ。悠長に降りてなんかいられないんじゃ」
二階とはいえ、ロープ一本であの細い足場に向かってスピーディーに降りるにはそれなるの技術がいる。
「それに現場にはロープなんて残ってなかったですよ。回収の時間も考えると。足りなさすぎる」
ミツキは押し黙ると、しばらくまた、親指を噛んでいたが突然立ち上がって血走った目を輝かせる。
「いや……そもそも、逆なのよ」
「逆?」
「あの人が先に窓から降りて、ミユキはそのあとで下から、引っ張られて落ちたの!」
指と指を合わせ、ミツキはその場で嬉しそうにくるくる回る。
ふらふらと危ないので、とりあえず肩をつかんで座らせたが、目はきょろきょろ、足はパタパタと動き続ける。
「きっとね。ロープでさ!きっとロープ自体をミユキの体に巻き付けてたのよ。そうして一気に窓から飛び降りた。そうすればミユキの体はあの人が下に降りる勢いで窓枠に引き付けられる。仮に粘ったとしても、下から引っ張られてそのままロープと一緒に崖に落ちていったの!あの人は適当なところでロープを離してさ、森に逃げたのよ!」
まるで見てきたかのように、饒舌に言ってミツキは微笑む。どこか狂気めいた。まるでそうであって欲しいと祈っているような顔だった。
かなり突飛な推理だが、筋は通る。だが、
「でも、ロープなんて巻き付いてたらさすがに気付くと思います……それに自分も一緒に崖に落ちてしまうかもしれないし」
「きっと夕暮れで薄暗かったし。あまりのことに驚いて見えなかったの!もしかしたらすごい細いロープだったのかもしれないし。あの人運動神経よさそうだったし。ああ!なんで貴方ちゃんと見てなかったのよ!」
金切り声をあげて、ミツキは将太を睨み付ける。
「犯人はあの人……。きっとみんなあの人に殺されるのよ、あはは。あはははは」
ミツキは笑う。くるくると変わり続ける情緒。ぐちゃぐちゃになったその精神は一刻も早く休ませた方がいい。見ている方が辛いと将太も一咲も俯くしかなかった。
「でも……遠西さんが消えたのは事実だよ。彼が犯人だとしてもそうじゃないとしても。今晩はみんなで一緒にいよう。一緒に固まっていれば犯人も狙いにくい」
「嫌よ。今すぐあの人を捕まえましょう。きっと森の中に隠れてるの!」
一咲の提案をミツキは突っぱねる。また今にでも外に飛び出しそうとドアに近づく彼女の前に、将太は立ちふさがり、毅然とした態度でそれを止めた。
「もう外は暗いです。無闇に出歩いたら滑落の恐れもある。僕は部屋の前で見張ってますから。窓も戸締まりして……二人は休んでいてください」
「でも……!」
「いいですね?なにかあったら呼んでください」
将太が言い含めると、ミツキはまだ何か言いたげだったが、それを制するように一咲が代わりに頷いた。
結果的にミツキを一咲に押し付ける形になってしまったと、将太は後ろめたさを感じた。だが、ミツキも一人で外へ向かう精神力も体力も残っていないようで、一咲の頷きをじぃっと見つめると、彼女の横に腰かけた。そして再びその腕に絡み付いていた。