第二の殺人
がしゃん、ばたんと何かが倒れたり落ちたりする音がする。
「やめろ!こっちに来るな!」
隣の部屋から響くのはミユキが誰かと言い争っている声。
「早く行って!」
一咲に急かされ我に返った将太は部屋を飛び出す。202号室の前ではミツキがドンドンと扉を叩いていた。全治はそれをあくびをしながら眺めている。
「ミツキさんどうしたんですか?」
声をかけると、ミツキは今にも泣きそうだしそうな顔をして将太を見た。
「それが……ミユキが中にいるんだけど。扉が開かなくて」
「代わってください」
ミツキに代わり、将太がドアを叩く。ドアノブを回すが、内側から鍵がかかっているようで、開きはしない。
「ミユキさん!開けてください!」
返事はない。その代わりに、部屋からは何かが倒れる音がする。
「そうだ……窓を伝って隣に渡れば」
将太は自室に戻ると、窓から身を乗りだし、手を伸ばす。窓は断崖絶壁に面しており、夕闇の谷底から吹き付ける風が恐怖心を煽ったが、そんなことを気にしている場合ではない。
幸い、隣の窓も空いている。カーテンがなびいて、ミユキのシルエットがそこに見えた。
将太は手を伸ばし、隣部屋の窓枠を掴んだ。
「ミユキさん!いま助けます!」
彼が叫んだ瞬間。
風でカーテンが大きく捲れ、現れたミユキと将太の目が合った。
ただ。それだけだった。
―僕はこの先、一生この瞬間を後悔して生きていくのだと思う。
真っ白になった将太の脳内に。そう思考が浮かんだ。
―もっと手をしっかり伸ばしていれば
―もっと早く窓づたいに助けに行くとことを思いつけば
―もっと身を乗り出せば。
―彼女に届いたかもしれないのに……。
窓枠から、ミユキの体が投げ出され、谷に吸い込まれていく。
落ちていく間。将太はずっと彼女と目があっていた。
すでに死んでいるような空虚な目で、静かに彼女は落ちていく。
音もなくただ暗い底に吸い込まれていく。
「あああ……ああ……」
うろたえて将太はすぐに頭を振って白く染まった思想を払う。
―まだ彼女が死んだと決まったわけではない。すぐにでも引き上げれば助かるかもしれない。
将太が急いで部屋を飛び出すと、ミツキが青い顔をして震えていた。
「益子さん……。ミユキは…」
将太はその眼差しに応えることができない。
階段を駆け降りて、館を飛び出す。
建物と崖の絶壁の隙間を進み、202号室の真下までくると崖を覗き込んだ。あたりは、もう夕闇で暗い。崖の底は生い茂る木々で見えなかった。
「ミユキさん!」
将太は崖に向かって彼女の名を叫ぶが、答えは帰ってこない。
「クソ……」
館に戻り、将太はそこらじゅうをひっくりかえす。何か、ロープでもあれば、それを伝って降りていけると信じて。
「益子さん︎!」
ミツキが階段の上から叫ぶ。
「ミユキさんが落ちたんです!すぐ降りて助けましょう」
手を止めず、将太は声を荒げながらフロントの棚やタンスをひっくり返す。手斧や懐中電灯、古新聞などしか見つけられない。めぼしいものが出てこないことに焦りと苛立ちが募っていく。
「益子さん︎もう……やめて…!」
ミツキが後ろから抱き着くようにして将太を静止させた。
驚いた将太が手を止め、振り返るとミツキは泣き崩れながらその場に疼くまった。
「もうやめてください。わかるでしょ。この谷は深い……」
将太は頭を抱えるが、すぐに我に返ってタンスから出てきた手斧を握り、再び2階に駆け上がった。ミユキを突き落とした犯人はきっとまだ202号室にいるのだ。
怒りに任せて、将太は手斧をドアに向かって振り上げる。2度、3度力に任せてドアを叩くと、小さな穴が開いた。
穴から覗く部屋はひどい有り様だった。
カーテンは引き裂かれ、棚はひっくり返り、枕も引きちぎられて、中身の羽は舞う。しかし犯人の姿は見当たらない。
―どこかに隠れているのだろうか。
将太はその穴に手を突っ込むと、手探りで施錠されていた鍵を回した。
ガチャリという音がしたことを確認し、将太は斧を振りあげたまま部屋に飛び込んだ。
ドアが施錠されていたままになっていたということは、犯人がまだ部屋の中にいることを示す。
武器の斧をしっかりと握ったままクローゼット、カーテンの裏、ベッドの下などを将太は覗きこむが、そこに犯人の姿はない。
「どうして……」
まさか、一緒に下に落ちたのか……。
開け放された窓の下を見つめるが、谷底は真っ暗で何も見えない。
その時、後ろで「きゃあっ!」という短い悲鳴が聞こえた。将太が振り返ると、部屋に入ってきたミツキが一点を見つめてわなわなと震えている。
「ミツキさんどうしました!」
ミツキは震えたまま、ドアを指をさす。
「ドアがどうかしました……?まさか!」
開け放されたドアの裏側は、まだ見ていない。犯人はそこに潜んでいる。将太はそう確信し、斧を構えてドアノブを掴んで引っぱった。
ドアと壁の隙間には、犯人の姿はなかった。
隙間には何もなく。あるのは壁とその壁にかかった雪の結晶の写真だけ。
ただし、その写真には東の彼岸花の写真と同様に、真っ赤なペンキでバツ印が描いてある。
犯人からのメッセージだった。
「そんな……」
壁に滴る絵具に。将太は触れる。絵具は乾ききっておらず、ついっさき塗られたようだった。
これを描いた犯人は確かにこの部屋に居たはずなのに。煙のように姿を消してしまった。
ただ加賀美ミユキは殺害された。消え去った犯人によって。
雪が地面に落ちて消えるように、はるか崖下の地面へと吸い込まれていった。
二人目の被害者だった。