第七十話
全体の半分が過ぎた頃、柴田は自らの喉に軽い痛みを覚えた。引き離されていく自チームの走者への絶叫に近い応援により、喉が潰れかけているのだ。
成否を他人の力に委ねなければならないもどかしさ。チームスポーツをやってこなかった柴田には免疫が無い。焦燥感が全身をめぐり、それを振り払おうと声を出し続けた。
三走の彼はよくやっている。
だが、結果は残酷なほどにはっきりと表れる。
『2年生、3年生がデッドヒート! 1年生は苦しいか⁉ 遅れています! ここからの巻き返しはあるのでしょうか⁉』
他学年の選手は既に最終直線に向いているのに対し、彼は第4コーナーをヘロヘロになりながら走っている。
「赤井、ここから捲れると思うか?」
「4走次第かな。これ以上離されると、俺のベストタイムでも1位で柴田くんに繋ぐことはできない……」
「3位でも構わねぇよ。ただ……差を詰めてほしい」
「善処するよ」
「はっはっはぁ! そんな相談、無意味じゃないかね⁉ 結果は走る本人達の実力勝負‼ 陸上競技において作戦や小技は存在しないだろ」
自分が負ける可能性など考慮していないのか、豪快に笑う木場。
(確かに言うとおりだ。こんな相談に意味は無い。俺はいまだにどこかで安心材料を探しているんだ……)
ミニアフロに浅黒く焼けた肌、十代とは思えぬ程発達した筋肉。完璧超人という周囲の評価通り、どんなスポーツをやらせても平均のはるか上を行くだろう。そう思わせる程の実力と風格を肌で感じる。
「それに、俺を相手取るなら圧倒的リードくらい作っておかねぇとマズいだろ!」
「いや、何なら先に走ってもらっても良いっすよ? 追い抜いて勝った方がカッコいいっすから」
「本気で言ってるぅ? らしくないな。あーそうか……、わざと自分を追い込んで奮い立たせてるのか」
(動揺するな、決めただろ。俺は絶対に勝つ。勝って自分の責任を取る。どんだけ離されようがい必ず追い抜く。迷うな、迷えば走りが鈍る。勝てる可能性だとか、作戦だとか、小賢しい思考は置いていけ)
真っ向勝負で木場に打ち勝つ。
その一念だけで十分だ。
突然、
カァン! と金属がぶつかる音がした。
瞬間、観客が立ち上がった。
「お二人さん、盛り上がってるところ悪いけど。リレーは皆でするものですよ」
赤井が指さした方向。
その光景に二人が目を見開く。
3年生が繋いでいるはずの赤いバトンがレーンの外側に転がっていた。
「はっ」
柴田の口角が上がった。
「おい、おいおいおいおいおいおい‼」
絶叫する木場。
『あぁっと! アクシデント発生! バトンパス失敗ぃっ!』
3年生の第四走者がバトンを追いかける中、2年生がバトンパスして走り出す。
「「急げぇ!」」
木場はもたつくランナーに、柴田は突入してくる第3走者に叫ぶ。
1,3年生の四走の二人が同時にスタートした。
雄たけびを上げてランナーを送り出した柴田はハッとして、木場を見た。
「……」
木場は何も言わない。黙ったまま膝をつき、紐の調子を確かめる。
明らかに雰囲気が変わった。顔面から笑みは消え失せ、立ち上がると一瞥くれることもなく、自身の待機列に戻っていく。
思わず息を呑む。
「はぁっ、はぁ……、す、すまん恭平……」
「…………任せろ」
木場は足首を回しながらレースを目で追う。
(あれが木場の本気か)
『遅れた選手が先頭を猛追しています!』
第四走者はかなり早い。アクシデントによりリードしていた2年走者に詰め寄る。その隣には3年走者が並び走る。
レースは再び、ふりだしに戻った。
柴田と赤井が視線を交わし、赤井がレーンに入っていく。
「頼む」
「うん、任された。柴田くんも頼むね」
「あぁ」
柴田も一歩前に出る。
次のバトンパスが終われば、自分の番。
鼓動が一段と高鳴る。
佳境に入った混戦の状況。決定的な差が生まれないことで観客も緊張を滲ませる。歓声が落ち着き、重たい空気感が支配する。
「そのまま、そのまま帰って来い……」
1分にも満たない一周のランがやけに長く感じられる。絶え間なく繰り返される一歩に神経が炙られるようだ。
そして、
最終直線に入った。
歓声が爆発し、結果の見えない戦いに熱狂が渦巻く。
『ここで先頭交代! 2年が3年と入れ替わったぁ! 1年生も頑張っています!』
歓声を切り裂き、三つの弾丸が突っ込んでくる。
「っし……!」
一陣の風が吹いた。
バトンを受けた赤井が走り出す。
「行けえええええ!」
リレーにおける安心材料があるとすれば、頼れるものがあるとすれば、それは赤井だ。
柴田は知っている。
あの日、あの夜。柴田は赤井に追い付かれた。
(お前は俺よりも速い!)
明らかに他の選手とフォームが違う。ブレの無さが違った。
根性だとかそんな不安定なものに頼らない実力が彼にはある。
地力がまるで違った。
100メートルの地点で先頭に立ち、すさまじい勢いで後続との距離を離しにかかる。
そして、
ついに柴田の番が来た。
「アンカーの3人、入って」
誘導に従い、深呼吸をしてからレーンに立つ。
競技場のレーンに立つのは2年ぶり。
そっと目を閉じる。
否応なく思い出されるあの記憶。アンカーと白いバトン、友人の声と更衣室の喧騒。
「……」
そして、自分に言い聞かせる。
隣にいる木場、そして自分自身に勝て。見栄も虚勢もやり通せばそれが真実になるはずだ、と。
嘘も見栄も虚勢もやり通せば、それが真実になる。
それってすごいカッコよくね?
できるだろ、柴田健星?
「当たり前だ……っ!」
柴田が赤井を見据える。
『1年生、赤井くんが凄まじい速度で追い上げ、単独リードで逃げています! 速い、速すぎます! 他の追随を全く許さない! そしてっ…………今……っ! アンカーの柴田くんに!』
柴田がスタートを切る。右手に確かな感触。
『バトンが渡ったぁああああ!』
今度は絶対に放さない。
柴田がバトンを握り締めた。




