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第五十九話

 おびただしい量の血が流れ出る。とっさに鼻をつまむと、口内に不快な鉄の味が広がった。

 隙間から溢れた鮮血があっという間にシャツを赤く染め上げ、柴田は膝から崩れ落ちた。

「シバケン!」

 試合を中断する笛の音が鳴るより早く、青い顔をしたチームメイトが駆け寄ってくるのが見える。

「大丈夫⁉」

「……あ、あぁ……」

 返答に窮した。問題ない、と口で言うのは容易い。だが、現実として出血している以上。このままプレー続行というわけにはいかないだろう。そういう意味では全く「大丈夫」ではない。

「君、立てるか? 救護室まで行くよ」

 普段なら厳しくて鬱陶しいとしか思わない体育教師だが、こんな時は頼りになる。

 ふらつく足で立ち上がった柴田。連れ添われるようにしてコートを出る。

「絶対戻るから。それまで頼んだ」

 派手に出血こそしているが、鼻の粘膜が傷ついただけ。大げさに気遣われるほどの重症ではないはずだ。

 突然の流血に騒然となる場内。

 誰もが心配の色を浮かべるのが心苦しい。

「どうしたよ、ちょっとしたアクシデントだろ? 硬球のデッドボールの方が深刻度は大きいじゃねぇか」

 笑ってみても、周りの目には無理をしている痛々しい姿としか映っていないのか、皆、苦笑いするだけだった。顔面血だらけの笑顔はホラー以外の何物でもないのだ。

「ボールの縫い目の痕すげぇぞ。ブラッ〇ジャックやん」

 そんな中、坊主頭の少年だけが空気を読まずに、柴田の顔面を指差して言った。

「頼んだ、キャプテン」

 6対11。鼻血によりディフェンスの要が失われた。痛恨のトラブルだった。



 救護室といっても、診察室のように機材が揃っているわけではなく、救急箱といくつかの飲み物、せいぜい氷嚢があるだけの会議室。

 教員の休憩室も兼ねているらしく、呆けた顔の松尾先生が靴下を脱いでくつろいでいた。

「おい何があった⁉ 柴田、大丈夫か⁉」

「大丈夫っす……、鼻血が出てるだけなんで」

 絶対サボってましたよね、と指摘される隙を与えないつもりなのか、松尾先生がすごい勢いで駆け寄ってくる。

 それからすぐに養護教諭がやってきた。鼻にガーゼを突っ込むだけの処置を手早く済ませると、「熱中症気味の生徒がいるので、これで」と言い、早々に退室。体育教師も自分にできることはもうないと判断し、体育館に戻って行った。

「いやー驚いたなー。熱中症か突き指くらいならあり得ると思ってたけど、血ぃ流して運ばれてくる奴がいるとは! それが柴田って言うんだから本当ビックリだ」

「俺も驚きましたよ。まさかこんなに血が出るなんて……」

体育館の歓声が遠くに聞こえる。つい先ほどまで、あの中でプレーしていたのが嘘のようだった。

うっすらと冷房の効いた部屋。オフィスチェアに腰を下ろしていると、体の至る所が痛むことに気づいた。顔面もそうだが、脚、膝、特に腕が痛んだ。血管が浮く前腕が全体的に赤くなっている。木場のスパイクは強烈だったがそれだけではない。昨日からの蓄積があるのだ。

「……でも意外だったな。柴田がそうまでして頑張るとは思わなかったよ」

「?」

 ドカリ、と背もたれに体重を預ける松尾先生が言う。

「お前はもっと冷めてる奴かと思ってた」

「どうですかね、自分では熱い男だとは思いませんけど……、山川とか、ああいうのがイベント事に主体的に取り組む熱い奴だと思います」

「はっは、あれは享楽的なだけだろ! 良い子だけどな!」

 冗談めかして笑った後、声の調子を落とした松尾先生。少しだけ遠い目をしたマジメな雰囲気を纏った。

「唐沢先生はな、大学の同期だったんだ」

「……はい?」

 唐沢、という名前には憶えがある。まして先生と後ろに続く唐沢は一人しかいない。

 だが、なぜ今、彼女の名前が出てくるのか、分からない。

「この歳まで教師を続けている奴らは少なくなってな。ほとんどの奴らは2、3年で辞めちゃったよ。だからかな、数少ない同期の生き残りだっていうもんだから、おっさんとおばさんになってからの方が仲は深まった。あ、もちろん、恋愛的な意味じゃないぞ?」

「……」

「柴田がこの学校に入る前から話は聞いていた…………色々な。唐沢の奴、珍しく落ち込んでたなー、やり方を間違えたのか、もっと良いアフターフォローも出来たんじゃないかってな」

「……それを俺に聞かせる理由は何です……元気な姿でも見せてやれって言うつもりですか……」

「まさか、そんなつもりねぇよ。自分勝手でひどい先生だよなって話だ」

「え」

「だってそうだろ! 自分で陸部に引き込んでおいて、トラブルが起きたら生徒同士のいざこざってことで処理しちまうんだからな。クソ教師以外の何だってんだ。あ、話がそれたな……。まぁ、なんだ、つまり俺が言いたいのはな、よくクラスの為に頑張る気になってくれたなって話! 2年時のあれこれ以降、友人との接触を避けてるって聞いてたからな。高校のクラスで浮くんじゃねぇかって気にしてたんだ」

「松尾先生からそんなセリフが聞けるとは思いませんでしたよ」

「お前、俺の事舐めてるな? 自分のクラスで事件が起こらない様に、こう見えても色々観察してんだ。俺の責任問題になっちゃうからな」

「結局、自分のことじゃないっすか」

「そうだよ⁉ 大人は今の生活が壊れないように必死なんだよ! 保身のために日々を過ごしていると言っても過言ではない!」

「大人になりたくなくなるんで止めてください」

 下品に笑って立ち上がった松尾先生は柴田を通り過ぎてドアに手をかけた。

「怪我した生徒放り出してタバコですか?」

「馬鹿野郎、怪我した生徒のためにジュースでも買って来てやろうとしてんだ! それに……おっさん教師よりも同級生の女子に気遣われた方が元気出るだろ? 目を離さないでいてくれる人がいるってのは良いねえ~、俺にもそんな素敵な人が現れてほしいもんだよ、マセガキ共」

 松尾先生がドアを開けると、

「や、やっほー、シバケン」

 ゆるふわ茶髪ギャルの姿があった。

「すりガラスになってて、近づくと人がいるの見えるぞ~。んじゃ、俺はこれで……あ、人に言えないことはするなよ? 俺の仕事が増える」

「「しません!」」

 パタリ、とドアが閉じられ、柴田と流華、二人だけになった。

 遠ざかっていく足音が聞こえなくなるまで、二人は理由もなく無言だった。

 中年教師の余計な一言のせいで気まずい沈黙が流れる。

「そ、そういや、卓球勝ったんだったな、おめでとう。表彰式行かなくて大丈夫なのか? 別にお見舞いに来るほどの怪我じゃねぇんだけど」

「あ、うん。まだ試合やってると思うから……、これを……」

 流華が肩から下げているバッグは柴田のものだ。

「そんな恰好じゃ、出られないじゃん」

 指をさされ、改めて自分を見ると血まみれだったことに気づく。ちょっとしたスラッシャー映画の生き残りにも見える程の有様だ。流華に礼を言い、バッグの中から替えのシャツを引っ張り出す。

「いやー、やらかしたわー。まさか顔面でレシーブすることになるとは……」

「ちょっと、女子を目の前にして、フツー着替え始める?」

「なんだよ、出ていきなさいよバカー! ってヒロインみたく言えば良かった? 昨日、全校生徒全員の前で上裸になったんだ。こちとら何も恥ずかしくないね」

「私に気を遣えって意味!」

「照れるなよ、着替えを持ってきてくれたお礼だ、好きに見ていいぞ」

 流血のショックで少しハイになっているのか、大胆に筋肉を誇るポーズをとる柴田。

 そこへ、ドアが開く音がして、驚いた二人が振り返った。


「柴田くーん。大丈夫―?」


 大将、やってるー? くらいの軽いテンションで男が入って来る。

 着替える間もなく、柴田が警戒態勢をとった。

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