第五十話
遅れて、心臓が痛い程拍動を加速する。
握り締めた拳の中が汗で滑り、鳥肌が立つ。
それでも柴田は努めて冷静に言う。
「遅かったな。初めから来るもんだと思ってたぞ」
委縮を悟られてはいけない。加納と対峙する時はいつもそんな態度を取っていたのが功を奏した。千切れんばかりに張り詰めた緊張状態にあっても自然に対応できる。
「俺たちは現時点で4位だ。男子卓球の優勝は固いし総合優勝の可能性は十分にある」
山川が隣で口をパクパクさせている。彼は彼で加納には思うところがあると言っていた。慕っていた、かつての先輩が加納の被害に遭っているため、こうして目の前にすると冷静ではいられなくなるのも道理である。もしかするとその感情は柴田よりも強いかもしれない。
「そぉか、負けたら大変だもんなぁ、せいぜい頑張れや」
思ってもいないだろうに加納は粘着質な笑みを浮かべて言った。それが柴田の心胆を寒からしめる。
生徒や教師の目もある。加納と言えど、他校のイベント中に暴れ出すことはないだろうと柴田は思う。だが何より柴田が気になっているのは山川だ。火種、きっかけになる言動があれば加納が次の瞬間何をしでかすか分からない。もしかしたら、自分たちを抱えて二階席から突き落とすかもしれないのだ。
加納は珍しく一人だった。
数の上では有利だと驕り、山川が突発的に動くかもしれない。
杞憂に過ぎないだろうが、そもそも加納の知り合いだと周囲に思われたくもない。
「場所、変えようか」
柴田が顎で扉の方を指した。
一度山川の肩に触れ、「ここで待っててくれ」と言う。
山川は複雑な表情をしたが、食い下がることは無かった。
階下を一瞥すると、流華と目が合う。
「三橋、頑張れよー!」
彼女にはクラスの為、自分の為にも良い結果を残してもらわなければならない。試合に関係ないところで気を揉む必要は無いのだ。
気休めだとは思いつつも柴田は精いっぱいの激励を送った。
今日に限って、加納は流華に執着する様子はない。
柴田の後ろを加納が歩く。
大多数の生徒にとって加納はその他多くの一般観客の一人に過ぎない、それほど目立たずに人気のないところまでやって来れた。
利用客が外靴を入れておくロビー端のロッカーエリア。競技中は人の出入りがあまりなく、薄暗い一角は寂しげだった。
ロッカーに背を預けた柴田が口を開く。
「それで、俺たちの計画は上手く行ってるのか?」
「まぁな。金は目標金額に達した。お前ら1年A組に賭けた奴もいねぇ」
「そりゃ良かった。これで本当に優勝だけに集中できる」
「そぉだな」
柴田はほっとした気持ちになったと同時。加納が、「だが」と言葉を続ける。
「1番人気は3年C組。ダントツのオッズ、1.8倍だ。当然、今も1位をキープしてるとこだ。ここに勝たねぇと総合優勝は無理だし、俺のところに大して金は残らねぇ」
3年C組。木場が率いるクラスだ。
柴田は自然に口が動いていた。
「木場さんのいるクラスか」
スマホに記録された帳簿に目を落とす加納の眼球運動が止まった。
動揺しているのか、あるいは全く知らない人名を上げられて疑問に思っているのか、分からない。
見切り発車だとは思いつつも柴田は追い打ちをかける。
「木場さんの弱点とか苦手なもの、って何かないか? あの人、お前と同じ中学だろ?」
加納と柴田の視線が衝突する。
「知らね」
ほんの1テンポ。否、瞬き程の瞬間。加納の反応が遅れた。
それは「そうであってほしい」という柴田の願望が感じさせた一瞬だったかもしれない。
手応えと呼べるようなものではない。だが、
「んだよ。ちょっとは考えるふりとかしろよな。俺たちは共犯関係なんだからよ、もっと協力する姿勢をだな」
「あー? 知らねぇっつってんだろうが。調子乗んなカス」
ギロリと敵意をむき出しにした視線を送られるが、柴田はもう一度聞いた。
「知り合いじゃねぇのかよ……。はぁ、本当、どうやって攻略すっかなー」
白々しい演技をしながら加納の様子を窺う。
「知るかよ。テメェで勝手にやってろ。大体俺はそいつがどんな奴なのかも知らねぇし、教えようがない。ここまで危ねぇ橋を渡って来たんだ、優勝するのはお前の仕事だろぉが。結果が出るのを待つ今日ぐらい働きたくねぇ」
そう言った加納がロッカーエリアから出ていく。
柴田は正直拍子抜けしていた。
目標金額を上げることにした、とか難癖をつけられることを警戒していたのだ。
どういうわけか今日の彼は少し大人しく見える。
それが気がかりではあったが、大人しくしてくれるというのなら柴田にとってはありがたい。何かを企んでいるのかもしれないが邪魔をされないのならそれに越したことは無い。
加えて、収穫もあった。
(加納は木場を知っているな)
赤井が言っていた。木場は中学の生徒会長だったと。
同じ学校の生徒会長が誰なのか知らない。そんなことがあり得るだろうか。
中学時代の木場が現在とは異なり、地味な見た目で控えめな性格をしていて印象に残っていない、という可能性もあるが、それでもやはり名前くらいは聞いたことがあるはずだ。
不自然。あまりに不自然ではないか。
何故、嘘をついたのだ。隠す必要などないはずだ。
確信には至れない。だが木場と加納が裏で結託しているわけではないだろう。
「ジョーカーか……」
切り札が存在する可能性が高まった。あとはそれをどうやって手札まで持ってくるか。
しかし、
「あ」
そこまで考えて柴田は首を横に振る。
(三橋や皆にはできるだけ関わってほしくない……。なのに木場さんに頼ろうとしてるのか、俺は……)
矛盾だ。木場なら巻き込んでも大丈夫、などという道理はないはずである。
忸怩たる思いに身体が重くなる。
(戻るか)
流華の試合がもう始まっている。
苦い塊を喉の奥に感じつつ柴田は来た道を戻る。
「…………?」
辺りを見回しても見知った顔は無い。
誰かに見られている様な気がしたのは気のせいか。
柴田は小走りで駆け出した。




