第二十七話
スマホがひっきりなしに通知音を鳴らすせいで利用者から迷惑そうな顔をされてしまった。
流華は英語の参考書に向き合うものの、全く頭に入らなかった。自習室の利用者のほとんどが3年生で、この場にいる1年生は彼女一人。それも夕飯時が近づいてきたこともあって自習室の人影は波が引くように姿を消し、まばらとなっていた。
スマホを消音モードに切り替え、音は鳴らなくなったが相も変わらず通知が次々と更新されていく。
「はぁ……」
ウェーブがかった茶髪を手櫛でときながら、溜まった通知をスクロールしていく。
『メシ、一緒に食わん?』『角のファミレスにいるよー』『来てくれたら全然奢るし!』『電車の時間気にしてるんだったら、駅前の方に移動しようか?』『おーい』『もしかしてもう帰っちゃった?』『店変えようか?』等、執拗なメッセージが連なり、送信者は『KANOH』と表示されていた。最初のメッセージを着信してから既に2時間が経過していた。そろそろ返信しなくてはならないなと考えるとどうしても憂鬱で、文章問題を解く手が止まってしまう。
(あーもうっ! ウザ過ぎだってマジで! やり取りの中でこっちにその気がないこと察しろよ! 大体、シバケンも何もフォローしてくんないの何なん⁉ こっちはアンタを助けるためにIDまで渡したんだっつの。………………ちょっとは気にしてくれて良いじゃん…………うわ、自撮りまで送って来た)
あの夜、柴田がヤバそうな不良に絡まれていると瞬時に察した流華は自らの連絡先を渡すことで場が収まるなら、と機転を利かせて応じたのだったがそれが良くなかった。
連日興味のない日常の報告と世間話を続けられていた。一度、「学校まで迎えに行こうか?」と言われた時には心底恐怖した。このまま適当にやり取りを続ければいつか本当に目の前に現れそうな気がしてならない。
脈がないことをストレートにぶつけるべきだろうかとも考えるが、それにより柴田に迷惑がかかってしまうのは避けたかった。事情は知らないがあの加納という男に厄介な絡まれ方をされているのは想像できるから。
(でも、ちゃんと相談した方が良いかな)
頑固で面倒なプライドが邪魔をする。人を頼ることに抵抗はないはずなのだが、どうにも柴田が相手だとそれができない。友人や他の男子と何が違うのだろう。彼女自身にもその答えは分からない。
今一度、届いたメッセージを見やる。
それとなく、この街が地元の友人に加納という男について聞いたことがある。答えは全員口を揃えて「最悪」という評価だった。下品で口が悪く、性格もクズ男そのもの。女癖も悪いことで知られており、今更あの男に引っかかる女はいないとまで言われるほど。
もしかしなくても非常に面倒な男に捕まってしまったのではないか。
流華は募る不安を少しでも軽くさせるようにもう一度息を吐く。
と、そこで自習室後方のドアが勢いよく開け放たれた。
「三橋ぃ、ちょっと面ぁ貸せ!」
背が高く、高校生らしくない精悍さを滲ませた少年が肩で息をしながら入室してきた。
半袖のオープンカラーシャツに丈の短いスラックスを履いたその姿はいつもの柴田健星そのものだったが、額に汗を浮かべ、必死にも見えるその表情は冷静だけど親切ないつものそれとはかけ離れている。
「ちょっと来い!」
「は? ちょっとっ、何……っ、引っ張らないでよー!」
柴田に右手を掴まれるとそのまま立ち上がらせられ、廊下に引っ張られる。
西日が差す旧棟の廊下をズンズン進む柴田。流華にはその表情が見えない。
やがて廊下の突き当りまで連れてこられた時にようやく右手が解放されると、
「加納とデートするってマジで言ってんのか⁉」
真剣な眼差しを一直線に向けながら、少年が叫んだ。
流華は一瞬、頭が白紙になった。
なぜシバケンはそんなことを聞くのだろう? だれから聞いた? そうだとしてもなぜそんなに焦った様子? なぜそんなに汗をかいているのだろう?
脳内は一瞬にして疑問符で埋め尽くされた。
考え込むため、流華が目を伏せると。
「どうなんだよ! マジなのか⁉」
目線の高さを合わせて無理やり視界に入ってきた。
「ふぇ……えっと……は、はぁ? だったら何なの? つ、つーか顔近いし」
グイ、と胸の辺りを押して距離を取ろうとした瞬間、逆にその腕を掴まれてしまった。
「絶対にやめとけ! 顔が広いお前ならアイツの評判くらいすぐに分かんだろ! 絶っ対にロクでもないハメになるぞ。あの夜は三橋のおかげですぐに収まったのは事実だし、感謝もしてる。だけど、これ以上アイツに関わるのはやめておけ!」
柔軟剤とコーヒーの香りがした。掴まれた腕の一部が熱い。
「………………離して」
冷静な声でピシャリと言った。
掴まれた腕を動かすと、それに気づいた柴田が慌てて一歩下がった。
「す、すまん…………もしかして野暮だったか。本当にアイツを気に入ってるなら、要らねぇおせっかいだよな……」
旧棟の廊下は耳が痛い程の静けさで、遠くから吹奏楽部の楽器の音が聞こえている。すぐそこには自習室で勉強している生徒もいるのだが、まるで密室に二人きりになったような感覚が流華にはあった。西日の熱に蕩かされた奇妙な沈黙が二人の間に流れる。
「なんでそんな事、聞くの……? それに、どうしてわざわざ忠告なんてするの?」
「う……さっき加納が言ってたんだよ。流華と会う約束があるって……」
柴田は頬を指先で掻きながら目線を外して答えた。それで? と流華は掌を差し向けて、続けなさいというジェスチャーをする。
「それでなんでやめとけ、って言うの?」
「……アイツはここらじゃ有名な不良らしい。悪い話もいっぱい聞かされた……それで……………………」
「それで?」
「俺がきっかけで不幸な目に遭ってほしくなかった。今までそんなに話したこともなかったけど、その、なんだ……幼馴染、っていうのは違うか……ほら同郷のよしみって奴、かな?」
ギリ、と表情には出さずに流華が奥歯を噛みしめる。
「悪い、やっぱおせっかいだったか。忘れてくれ……このことは誰にも言わねぇから」
「待って」
今度は流華が柴田の腕を掴んだ。
「私、一言でもデートするなんて言った? あんな頭悪そうな奴なんて相手にするわけないっしょ!」
柴田は半端に口を開いたまま呆然とした。
息がかかりそうなほど柴田の顔が近い。自分は今、どんな顔をしているのだろうか、怖い顔になってないかな、と思ってみても今更急には変えられない。
そんなことを思った時、つい口を衝いて出てしまった。
「心配…………したの?」
言葉が脳を介さず、脊髄反射的に滑り出た。
「えっと……」
熱い。死ぬほど顔が熱い。訳も分からず恥ずかしさが溢れる。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。既に妙な間が生まれていた。今逃げだせば今よりもっと希死念慮は強くなるだろう。
鼓動がどんどん速くなる。次の瞬間自分がどういう状態になっているのか分からない。足がそわそわ、ふわふわと落ち着かない。
(早く早く早く! 早くなんか言えシバケン! いつもみたいに皮肉っぽい冗談でスルーしてぇ!)
「そうだ……助けなきゃって思ったから」
柴田が口元を拳で隠し、視線を窓の方へやった。
流華の中の何かが限界に達した。
誇張した表現をするならば、熱せられたやかんがピィ—! とけたたましい音を立て、熱湯があふれ出す。そんな感覚だ。
一目散にこの場からの脱出を図ろうとした時、偶然にも後方から自習室の管理を担当している男性教師が歩いてやってくるのが見えた。
「本日の自習室の営業は終了ー。荷物まとめて続きはお家でやりなさーい」
教室のドア用のキーをクルクルと指で回し、アナウンスをかけた。
「わ、私。荷物まとめなきゃだから……じゃ!」
未だ立ち尽くす柴田を置き去りにして、脱兎のごとく流華が駆ける。
教室に戻った流華はなるべくゆっくり時間をかけて参考書を元の位置に戻し、ノートをカバンに詰める。
(しんどー! 何あの変な空気! あーもう札幌の時といいなんでシバケンとマジメに話すとこんな感じになんの⁉ 意味わからん! 逆にムカつくまである……………………っ、フハハハハ! そうだシバケンが悪いんじゃん⁉ 私のリズムを狂わす方が悪いんだ。私は何も変わらないし、いつも通りだしぃ⁉)
混乱する様子の流華を奇異の目で見る他の利用者が続々と退出していく。
一人取り残された流華は考える。一つの可能性を。
(いや、ないないないない! それはマジでない! 勉強できないし走ることしか能がなくて友達もまともにいなくて、いつも偉そうなこと言ってる割に本当は自信がないような奴じゃん………………ちょっと言い過ぎかな。ま、まぁ確かに中学の時は優しくて親切で大人びてて背が高くてかっこいいなんて言われてたかもしれないけど、だからってそこまで話したこともない奴じゃん⁉ ないないないない! はぁ……、つーか私、アイツのこと知り過ぎ?)
「君も、早く出てくれる?」
男性教師が荷物を抱えたまま固まってしまった流華に声をかけた。
「す、すみません! すぐ出ます!」
いつの間にか周りが見えなくなってしまっていた。
(本当におかしい。さっきアキちゃんに『柴田くんと付き合ってるの?』って聞かれたせいかな。まさか札幌でご飯食べてるところを見られてたなんて…………盗撮したのは山川か長谷川のどっちかに決まってる。いつか絶対に締めてやる!)
そう覚悟したのは良いものの、精神はまいっていた。加納の件もある。今日のところは一旦置いて、寄り道せずに早く帰るべきか。
やけに重い身体をひきずるように机を離れる。
「彼氏も待ってるぞー」
「は、はーい…………」
何を言っているのだ、この教師は。言葉は理解できても意味は頭に入っていかない。
教師とすれ違ってドアを抜ける時、流華はその言葉の意味を遅れて理解することになる。
「よし、帰るか」
「…………カエル? …………んんっ⁉」
ドアを抜けた角。壁に背を預けた柴田が待っていた。
「ほら、アイツが偶然装って待ち構えてたら怖いだろ? 駅使うのはバレてるだろうし、送ってくよ」
「が……っ、なっ……!」
驚愕する流華に対して、柴田はなんでもないような自然かつ極めてニュートラルな表情で言った。
「それって……いいい一緒に⁉」
「あぁ、そりゃそうだろ。間隔空けてストーカーみたいについてこいって言うんじゃねぇだろうな?」
「それは……」
柴田はきっと本当に自分を気遣って言ってくれているのだろうということは分かる。だが、今はまずい。タイミング的に、精神衛生的にまずい。
また知り合いに見られでもしたら今度こそ噂が現実味を帯びてしまう。また、現在の奇妙な空気感を持ったまま駅までの道を歩くなど、とても耐えられない。内的な何かに殺される。憤死してしまう。
「で、でも……ほら。一緒に帰って噂とかされると恥ずかしいし……」
「藤崎〇織か、古ぃよ」
何故か今日の柴田はいつもと違う。婉曲で断られたのも気にしていない様子でさらに食い下がる。
「体育祭が終わるまでの間で良いんだ。他の女子と一緒に帰るならそれでも良い、とにかく一人でウロついて欲しくないんだよ……頼む」
こうも深々と頭を下げられると、断る方が難しいというもの。
もういっそのことこの状況を受け入れてしまった方が楽なのではないだろうか。
長髪を耳にかけながら流華は、
「そこまで言うならしょうがないなー、じゃ、じゃあ一緒に帰ろっか!」
若干声が上ずった。
(もうどうにでもなれ! いいよ一緒に帰ってやんよ! 別に元々乗る電車も同じだしぃ? 同じ中学の友達だし一緒に帰る程度のこと、何の問題も無いし⁉)
廊下を歩く二人。
並ぶ、というには少し遠い二人の距離、自然と形成されたそれぞれのパーソナルスペースにお互い入ろうとはしない。
訪れる沈黙。時折、気を遣った柴田が何気ない世間話を振ってくるが、流華は「うん」、「そうだね」等、曖昧な返事を返すばかり。
固まってしまった空気をどうにかしようとしても、言葉が出てこない。
(なんか、落ち着かない……シバケンは普通? なのに……)
昇降口を抜けると涼しい風が吹いていた。もう6月。夏の気配を感じさせる北海道の清涼な空気が流れている。
柴田にバレないように外の空気をすぅー、と吸い込むと気分はいくらかマシになった。
地に足が付かないような感覚はそのままに。
「体調でも悪いのか? 俺、頭痛薬なら持ってるぞ」
「う、ううん……大丈夫。なんでもない」
「そうか? いつもなら、『ボッチだし女子と下校するなんて初めてっしょ⁉』とか失礼なこと言うじゃん、お前」
「いつもは言ってないし……」
夕暮れに染まる街。やけに眩しい日差しを遮るように眉のあたりに手をかざす。
「…………」
その掌を下げ、そっと頬に触れると微かな熱を感じた。
体調が優れないわけではない、頭痛も吐き気も腹痛もない。しかし、体温だけは妙に高い気がした。
きっと顔が熱いのは夕日のせいに違いない。
三橋流華は視線を逸らした。




