第零話-7
2年1組・教室
「ねぇマジでスガさんボコボコなんだけど!」
「え~やっぱ本当だったんだぁ、噂だけじゃなかったんだね」
「やったの2年2組の柴田くんらしいよ」
「あのデカい人⁉ へ~、顔怖いけど優しい人だなーって思ってたのに」
「うん、なんかリレーで失敗したスガさんにキレたとか……ほら、あの人って唯一の陸部じゃん? プライドあったんじゃない?」
「え~なんかショック~」
「なに? 狙ってた?」
「違うってば、この前駐輪場でチェーン外れたのを直してくれたの!」
「本当に~? ただそれだけでショック受けるかな~」
「しー! ほ、ほら、廊下に!」
「ヤバ! 本当だ……」
「なんか避けられてるね……」
「うん、皆知ってるのかなぁ」
「ねぇ流華は? 知ってた? 大会見に行ってたんでしょ?」
「別に……詳しくは知らない」
「え~スガさんから聞いてないの? てかスガさんの為に行ったんでしょ」
「違うから、アイツめちゃくちゃしつこいから断れなかったの」
「なになに怒ってる? やっぱスガさんボコされてキレてらっしゃる?」
「その言い方やめて」
「おぉう……今のはマジのヤツ……」
「あんまり噂を信じない方が良いよ、どうせアイツの視点から都合の良いストーリーに作り替えられてるだろうから」
2年2組・教室前の廊下
「ヤバすぎるだろ、何あの包帯、ボクサーのバンテージ⁉」
「顔面の骨って固いらしいからな、痛めたんじゃね? つーかそんなことより殴っちゃうってどうなのよ……」
「本気でやってたのは分かるけど、確かに鼻の骨折るのはやり過ぎだよなぁ、正直結構引いたw」
「やめとけよ、健星に聞こえる」
「大丈夫だって、今出ていったし……明は幼馴染なんだろ? 本人から何か聞いてないの?」
「知らね、何も言ってこねぇ」
「ふーん、でもあれだな、スガさんをワンパンってシバケン、見た目通り強いんだな」
「いや普通に怖いわ……知り合って1年だけどそういうタイプには見えなかったろ。ギャップあり過ぎてショック受けてる奴結構いるぜ」
「もういいって…………それよりスガさんはどうしてんだ?」
「あーなんか学校には来てるっぽい、マスク越しでも分かるぐらいボッロボロだったw」
「それだけ?」
「いや、当然ガチギレ! ありゃ報復がキチィぞ……」
「やっば! 関わらないようにしねぇと」
「……そっか」
2階・職員室
「1週間の出席停止です」
教師達の世間話とキーボードを叩く音。コーヒーの香りが漂い、ここが生徒の居場所ではないことを感じさせている。
プリントや参考書で山積みになったデスクが唐沢先生のテリトリー。
きいきい音がするチェアに座り、改まった態度で柴田に向き直って言った。
「……分かりました。今からですか?」
「そうです、これ原稿用紙5枚分、反省文です」
「分かりました。失礼します」
真っ新な原稿用紙を受け取った。
「あのね、ちょっと待ちなさい……言いたいことがあるなら言いなさい、そうやって子供みたいに不貞腐れる前に理解してもらう努力をするべきですよ」
「菅野さんを殴ったのは事実ですし、停学の処分にも納得しています。むしろ警察沙汰にならなかった事に安心しているくらいです」
「はぁ………………菅野くんの態度が悪いことは私も知っています。事が大きくならなかったのは彼も君に手を上げていたことが確認されたからです」
柴田が後頭部のコブの痛みを意識する。
唐沢先生が柴田を真っすぐ見据える。
「確かに柴田くんの対応は間違っていました。暴力を振るうことは決して認められることではありません。でも、それは菅野くんも同じです……なのに、いわゆる『停学』になるのはあなただけ」
「何が言いたいんです」
「おかしいとは思わないんですか⁉」
職員の視線が集まる。
ハッと、気づいた様子で、声を荒げた唐沢先生は辺りを見回して会釈をした。
「同じ罪を犯したというのに、一方の処分だけが重いなんて不公平でしょう、あなたはそれについて不満はないのか、と聞いているんですっ」
奥歯を噛みしめながら顔を近づける。
柴田は目の前の唐沢先生を見ずに言う。どこでもない。ただ職員の予定が記入されたカレンダーの方向に向いている。
「ありません、怪我の程度に差があり過ぎます」
「じゃあ、菅野くんが事実ではない話を語って、君の評判が下がるようなことをしているのは⁉ あの子は自分が先に手を上げたことを隠して、君が一方的に殴りつけたと友達に言っていましたよ!」
「先生、また声大きくなってます、校長も教頭も見てますよ」
「はぐらかさないっ」
後ろ手に組んだ拳に力が入る。
「私はね、あなたの自己実現ができるんじゃないかと思って生徒たちの自主性にリレーを託したんです。あなたの速さは皆知っていますし、皆があなたに期待し、あなたもそれに応えることで充実感を持ってほしかった……事実そうなっていた。いえ、そうなる寸前でした。こんな形になって悔しくはないのですか?」
柴田が笑う。茶番を蔑むような冷笑。
「はっ、先生が何言ってんのか分からないです、それってめちゃくちゃ自分勝手な押し付けっすよ」
「そうかもしれないわね、でも、誤解だって言わないとあなたは———」
柴田がおもむろにカバンから取り出したのは一封の封筒。
「陸上、辞めます」
何でもないようにアッサリ、そう言った。まるでトイレのため離席すると伝えるように簡潔に。
「は……」
茶色の封筒には退部届の文字。
「渡すかどうか迷ってたんすけど、もうどうでも良くなりました」
誤解も曲解も一つの解答。人は必ずしも真実を求めているとは限らない。見たいものを見て、聞きたいものを聞き、信じたいものを信じる。
今朝から学校中のあちこちで噂されるのも同じことで、つまらない真実よりも面白い虚偽を人は求める。柴田がそのように考えるのは、なにも自分が風評被害にあっているからではない。人にはそういった一面もあるという、どうしようもない事実が横たわっているだけなのだ。
誤解なんだ、と叫んだところで一体何人が信じるか。
菅野は性格に多少の難はあれど、学校の人気者で友人も多い。いまさら柴田の弁解に耳を貸す者はいないかもしれない。幼馴染の須々木でさえ接触を避けていたことがそれを裏付けている。
そう考えると走ることが馬鹿馬鹿しく思えた。
裏切られたような思いが腹の奥底に溜まっていく。
「待って、そんな急に決断することないでしょう? これは受け取れません」
「そうすか、先生がどう思ってるとかどうでもいいですけど……何にせよ走るつもりはないんで」
無視して、柴田はごちゃついたデスクの端に封筒を置いた。
(走る理由も必要もなくなった、元々大して好きだったわけじゃないし別にいいよな)
茫漠として形のない感情が胸に去来する。
(まるで夢を見ていたよう、いや、熱に浮かされたというべきかも)
不快でたまらないのに、それには捉えどころがない。
(どうしてこうなった)
今すぐ喉と胸を捌いて掻きむしりたかった。
(誰が悪いんだっけ、アイツか、皆か、先生か……、いや……俺か、うんそうだな)
吐き出す術も場所も分からない。
(今になって思えば、菅野の言う通り俺のミスかも)
疲れた。
(なのに、逆上して殴り飛ばした)
やめたい。
(調子に乗った俺に責任がある)
億劫だ
(そう考えた方がシンプルで良いか)
……十分。
「明日から何しようかな」
夏の本番を控えた6月。
柴田健星は走るのをやめた。




