第一章 三話「子供のころの記憶」
これは――昔の記憶だ。
「彰人くんは、どんな大人になりたい?」
長いトンネルの蛍光灯が、速度と共に一定間隔でボクの顔を照らした。
運転席のお母さんは、優しい声でボクへ尋ねる。
「大人?」
戦隊レッドの人形を持った右手で、ボクは眠たい目をこする。
「例えば……消防団のお父さんみたいに、困ってる人を助ける人になりたい?」
「消防士かぁ」
この質問がとても大切なことなんだと気付くまでに、ボクはこれから十年もかかる。
けれど後部座席に座りながらウトウトするボクは今、どうしてそんな質問をするのか分からなくて、
「分かんない」
と素直に答えた。
事実、今のボクには分からない。大人ってなんだろう。どうすれば大人になれるのだろう。
「そっか。そうだよねまだ分かんないよね」
母はボクの言葉をしっかり咀嚼して、それから黙った。
十秒か三十秒か。ボクは窓から外をじっと眺める。何も変わらぬトンネル。
ボクたちだけが走っているトンネル。
冷たいコンクリートとたまにやってくる非常口の緑光を、呆けるように眺める。かわるがわる照らす蛍光灯。
「お母さんはね。アキくんが今持ってるようなお人形さんのように、お父さんのようにヒーローになってほしくないの」
静かに話す母の言葉の中で、「ヒーロー」という単語だけが浮かんで聞こえた。
「ヒーロー?」
右手にある戦隊レッド。確かにこの人はヒーローだ。誰かのために、何かを守るために戦い続けるヒーロー。
ボクがイメージするカッコいい大人だ。
そして、お父さんも大人でヒーローだった。
「お父さんのように、誰かのために死ぬようなことにはなって欲しくないんだ」
そういえば昨日の夜お葬式で、『あなたのお父さんはヒーローだよ。誇りに思う』と、お父さんより偉い人は言っていた気がする。誇りってなんだろう。
お母さんはそのまま、独り言のようにつぶやき続けた。
「ヒーローはね、最初に死なないとないの。誰かより後には死ねないの」
悲しいんだよ、とお母さんは言った。
「でも……お母さんは、彰人くんには最後まで生きて欲しい。お母さんより――先に死なないでほしい」
――先に死なないでほしい。それはきっと、今思えばとてつもなく重く、優しく、寂しい願いだったのだろう。
一筋だけの涙が、バックミラー越しに流れた。
ボク以上にお母さんは、お父さんが恋しいように見えた。
そんな顔をしないでほしくて、
「分かった」
と、ボクは言った。
本当は何一つ分かっていなかった。死ぬとかヒーローにならないでほしいとか、お父さんみたいにどうしてなっちゃいけないのか、なに一つかけらも分かっちゃいなかった。
けれどボクはただ安心してほしかったから。
「心配しなくても大丈夫だよ」
とだけいう。
「ありがとう」
小さく安堵する母を見て、ボクは嬉しく思った。
嬉しくて嬉しくて、今まで内緒にしていたことをあること大発表したくなった。
「それにね」
と付け加える。
「どんな大人になりたいかはわからないけど、ボクは夢はあるんだ」
「夢?? どんな?」
息子の重大で唐突な発表を前に、母はらしくなく驚いている。
そうでしょうそうでしょう驚くでしょうと、ボクはニコニコしながら右手の赤いヒーロー人形を強く握る。
そしてシートベルトがパツン伸びるまで体を起こし、できる限り高く上げた。
「漫画家!!」
漫画家になりたい。
みんなが泣いて、笑って、何度も読み直して、主人公に勇気をもらうような。
そんな漫画を描ける人に、ボクはなりたい。
お母さんはさっき以上にびっくりした顔をしたけれど、すぐに少しだけ頬を緩ませて、
「ならお母さんはアキくんのファン第一号になるね」
と言って笑った。
光が見えた気がした。もうすぐ、長いトンネルを抜ける。