第三章 四話「英雄譚」
とにかくクーイの腕を引っ張りながら森へ走った。
とにかく逃げようと思った。
このまま魔神領へ入ってしまえば、もしかしたら騎士たちは追ってこないかもしれない。もしかしたら、クーイが魔神の転生体としって誰か――例えば魔物とか魔獣とか、魔神に対して敬意を示しているモノたちが助けてくれるかもしれない。
もしかしたら、騎士たちが森で迷ってしまい、見つからないかもしれない。
もしかしたら、時間を稼げば急に魔族たちが襲ってきて、国が危ないからと撤退命令が下りるかもしれない。
もしかしたらもしかしたらもしかしたらもしかしたら。
考えろ考えろ考えろ。
走れ!
走れ!
「お兄ちゃんっ……!」
袖が強く引っ張られた。
「ど、どうした? 疲れたか? 足痛いか? ごめんな。でももうちょっとだけ頑張れるか? 森を抜けよう。ここじゃ危ないからね。落ち着いたら、どこかで水でも飲んで、おいしいもの食べよう? 俺お前の料理好きだから作ってくれるとうれしいよ」
そうだ。やりたいことはいくらでもある。
おいしいものをたべさせてやりたい。クーイが元気に遊ぶ姿が見たい。
同い年ぐらいの友達ができて、楽しそうにしている姿が見たい。
大きくなって、いっちょ前に男なんて連れてきた日には、相手を殴って帰れと言いたい。
まだやりたいことはいくらでもある。
「大丈夫。ちょっと休んだら、ゆっくりでいいから歩こう。結構走ったからね」
ぎょっとクーイの手を握った。まだ小さい手。温かい手。たった一人の――妹の手。
「お兄ちゃん……」
クーイの声が震えている。目には涙を浮かべている。
「お兄ちゃん……大丈夫だよ」
大丈夫――そんな言葉をにっこりと笑いながら。溜まった涙はゆっくりと頬を流れる。
「やめろ! そんな言葉聞きたくない! 大丈夫なわけないだろう……? やめてくれ……まだわからないじゃないか! 頼む……頼むよ……そんな言葉……言わないでくれ……」
だんだんと騎士たちの声が近づいてくる。
時間はない。
「なぁ……走ろう? 別にお兄ちゃんはお前が魔女だろうと人間だろうと、どっちでもいいんだ。クーイはクーイだ。妹だ、家族なんだよ」
妹に懇願した。
頼む、頼む。走ってくれ、大丈夫なんて言わないでくれ。
頼むから――諦めないでくれ。
「泣かないで」
クーイが細い指で涙をぬぐってくれた。
「お兄ちゃん、いままで私のためにありがとう。毎日働いて、毎日話しかけてくれて、毎日笑ってくれてありがとう」
ぽつりぽつりと雨が降った。
―――――――――――――――――
「見つけた」
スキャット・デルバルドの目の前に『ウィッチ・ノア』と『勇者』は立っていた。
ガルディア国南地区首都メイヴに近い、スキャットが三年前に移り住んだ小さな村の近くの森の中で、ウィッチ・ノアと勇者は立っていた。
「いいかい、スキャットくん。落ち着いて」
優しい声で、勇者はスキャットを諭した。
まるでわがままな子供に話しかけるように、安心を促すように。心を込めたその言葉は、安心を与える。そして、スキャットの心を揺さぶる。
だが、少年の心が落ち着くことはない。
憧れた英雄が目の前に立っている、それだけで興奮し、身体が震えるはずだ。でも震える理由は――憧れでもなければ、興奮でも、喜びでもない。
本でしか見たことのないノア様と勇者様。おおよそ一人で何万もの騎士や魔術師に匹敵するであろう国宝。
ガルディア国において最高戦力を目の前に、憧れの存在を目の前に。
――スキャットは明確な敵意を持っていた。
勇者は優しく微笑み、ウィッチ・ノアは睨む。
そして――。
「勇者様、俺は至って冷静で、至って落ち着いてます」
出来る限り、スキャットは勇者と対話を望む。だから冷静に、落ち着いてると口にする。
でもそれは嘘だ。スキャットは冷静じゃないし落ち着いてない。訓練用の模擬刀を強く握りしめてるけど、剣先はずっと震えてる。
でも嘘を付くしかなかった。
虚勢を張らなければ、勇者の前に立つことなんかできないし、スキャット自身の心をだましだましに奮い立たせることが出来なかった。
二人は、スキャットの背中に隠れ縮こまる少女クーイを。
「落ち着いて――君の妹を殺させてほしい」
大切な妹を、殺そうとしているからだ。
枯れた涙を力に、全員を睨みつけた。
スキャットは黙る。できる限り背中にクーイを隠す。
持っているのは木刀一本。
対し敵は英雄【ウィッチ・ノア】と【勇者】と数百の騎士。
上等だ上等だ上等だ。
たとえ何百であろうと関係ない。
こんなことは許さない。
死ぬまで戦い、死んでも守る。
「なぁ、スキャット君。我々は君を傷つけたくない。君は良い青年だ」
「そんなこと聞いちゃいないんですよ、こっちは。あなたがたの目的は妹で、殺そうとしている限り、それは俺が死んでも阻止する。当然でしょう?」
「言い分は分かるけど、そんなことは許されないよ」
「許しを請いてはいません。俺は俺と妹のために動くだけです」
勇者の顔から少し苛立ちがうかがえる。
しかしたとえ勇者が苛立とうと、全世界を敵にしようとここは動かない。
「僕たちは世界のために戦ってる」
「なら俺は妹のために戦います」
「こういうのは悪役のセリフの気がするけど……周りを見てごらんよ。この人数を相手に、君は勝てるのか? 妹を守りながら、二人の英雄を倒し、ついでに数百の騎士も倒すと?」
「妹を守るのに、必要であれば」
断固意思は揺るがない。
揺るいでいいはずがない。
これは信念であり、忠誠である。
奮い立たせる。怒りも悲しみも、思い出もすべてを使って奮い立たせる。
体中に力が漲る。
奥歯を強くかむ。
吐き出すのは怒りと決意。
「誰一人妹に触れさせない! そんなことは俺が許さない!」
森中に怒号は響き渡る。
「英雄は! どんな状況でも勝つ! どんな相手にでも勝つ! 勇者でも! 数百の騎士たちを蹴散らして必ず勝つ! 俺が憧れる英雄はそういう人間だ! 俺は今日! 英雄になる!」
英雄の卵は、今日孵る。




