砂影都
あの映像に目を通してから数ヶ月が過ぎようとしていた。僕の鮮明だった記憶も随分と曖昧なものに変わりつつある。季節は冬を終えて春を向かえ、それももう終わろうとしていた。今年は珍しく大陸から吹く風が強く、黄砂が日本にも大量に飛来して来ているみたいだ。僕の住む町でも、空は濁り湯の様に明度が落ちていて屋根や車の上に薄らと砂が降り積もっている。マスクを付けて歩く人達が多く、花粉症の人達の苦労が窺い知れた。
最近頻繁にテレビでは失踪を取り扱っていた。ここ数日で大勢の人達が姿を消しているらしい。何かが起きている事は確かなのだろうけれど、僕には関係の無い事だ。頑なにそんな風に思う程に不安が僕の心の中を満たしていた。なぜだろうと考えると決まってあの日の事が思い出される。
朝食を用意してコーヒーを落としていると、玄関のチャイムが鳴るのが聞こえた。ここ数日変わらずに音に対して敏感になっている僕は、びくりと身体を一度縮ませると、足早に玄関へと向かう。どうやら来客は既に居ないのか、それきり一向にコンタクトが無い。僕は恐る恐るドアのレンズを覗き込む、するとその向こうには佇む叔父が居た。叔父は無音で口だけを動かす。
な ぜ や ぶ っ た
叔父の目の下には砂で一筋の跡が付いていた。
――さて、松露さん。貴方の体験した不思議な御話ですが早速といっては何なのですが御話いただけますか?
あ、はい。何分話し馴れてはいないものですから若干聞き苦しい所もあるとは思いますが、よろしくお願いします。
いえいえ、気になさらず、普段と変わらないペースで御話頂ければ良いですよ。それではお願いします。
十年前、私は砂漠緑化のプロジェクトチームの一員として、中国のゴビ砂漠におりました。当時の緑化作業と言えば、現在の様な例えば、砂地に保水力を備えた素材を撒き、その上に植樹する、或いは遺伝子組み換え技術により熱や冷気、乾燥耐性に優れた植物を生み出し、それを植えるといった先端緑化法などありませんでしたから、ただ只管に砂地に変わる前の干上がった大地に灌漑を行い、水の流れを作り出し、地道に風土に合った植物を植え続けるというものでした。他の砂漠と比べ、ゴビ砂漠周辺は肥沃な土地に囲われ、緑化難度もそれ程に高くない砂漠でしたから、それまで数年に渡り他国の過酷な砂漠を経験してきていた私達のチームは僅かばかり気を撫で下ろして作業を続けていたものと思います。
とは言え、過酷な環境である事は間違いが有りません、夏の気温は四十度を超え、冬は逆にマイナス二十から三十度にまで下がる過酷状況でしたから、皆良くやっていたものと思います。
見返りは解りやすいもので、すぐには先が見えない作業で有りつつも、あの頃の私達は続ける事で緑化が確かなものとして、僅かでは有りますが実を成していると実感していましたから、多少の苦しみなぞ気にならないものとそう皆で言い合っていました。実際、全ての作業を計画に沿いやり終えた時、自分達が作り出した青々とした林や植物の絨毯の姿を目の前にした時、何ものにも換えられない感動を私達は経験する事ができた、そう思えるのです。
そうであってもどうにもやり切れなくなる気持ちが頭を擡げる事も有ります。馴れない土地の上、娯楽といった要素も何も無い土地でしたから、私達は時折本国での出来事や、これまで渡った国で起きた事を思い出すように語りあったり、或いはこちらの土地で今まで体験した事のないこんな事を体験した、といった不思議な話を小出しに語って気分を紛らわせておりました。それもまた、それだけの意味ではなく、他の効果も考えられていたのですが。
やはり、初めての地での作業は馴れませんし、私達日本人のスタッフも多少なりとも入れ替わり、更にそこに現地スタッフも加わる訳ですから、国の違いも有るため、御互いを知り合うには時間が必要です。だからこそこうしたコミュニケーションが意外に重要な意味を持ってくるのでした。
私達と現地のスタッフがある程度の時間を共有し終え、蟠りも無く打ち解ける頃になると、チームのメンバーは休日に近くの都市に現地スタッフに誘われ、有名な観光名所を渡ってみたり、食べた事の無い料理に舌鼓を打ったりなどしていたものですから、話題は徐々に豊富に、広がりを見せてゆきました。私などもかの万里の長城を渡り、他国ではけして経験できない壮観な風景を眼に焼き付けて、それがいかに素晴しかったかを皆の前で語ったものです。
そんな座談会のような話し合いが恒例の様に繰り返されていたある日、ふとした切っ掛けで会話の流れが怪談へと逸れました。丁度暑さも盛りを迎える頃でしたから、納涼の意味で誰かが一話、背筋の冷える話をと言って話し始めたのが始まりだった様に思います。
数々の怪談が語られる中、不意に砂影都と言う都市の話聞いたことが有りますか、と切り出した方が居りました。その人物は壮年を迎える男性で、長年農耕を続けるとこういった風になるのではないかという、年老いた樹木の様な堅く、引き締まり節くれた指や手足をしていました。彼は趙さんと呼ばれ、中々にスタッフの誰からも好かれるような良人物でした。
趙さんは気さくな人で、大変な読書家でも有り、知識の幅がとても広い上日本語がとても流暢で、誰とでも分け隔てなく気軽に話せる才能を持ち合わせていましたので、彼と親しくなり、中国での様々な逸話や伝説を教えて貰ったメンバーも多くおりました。会話も構成が上手く、人物の機微を捉えた話し方で引き込み方が卓越していた為に、殆どの者が彼を好いていました。それだけに彼が口を開いた時、いやがおうにも期待の熱が高まりました。
しかし、彼がその砂影都という単語を口にした途端、私達日本人のメンバー以外にも趙さんのような現地メンバーが数多くその場に居たのですが、絶句すると青い表情を浮かべ、その後誰もが切りつける様な明かな敵意の籠った目線で趙さんを眼ねつけたのでした。
勿論我々には窺い知れない事でしたから、それは何か有るのだなと解るものの、それ以上は踏み入る事が出来ませんから、気まずい空気の流れを何とか変えるため、その話はまたいつか伺いましょうと誰かが切り出し、その日の会話は有耶無耶なまま終わりを迎えてしまいました。
その後もそれが気になり続けていたものの、彼と話す機会は中々無く、気が付けば一月が過ぎようとしていました。私達は緑化現場から車で数時間離れた宿泊施設から毎日、通いを繰り返していたのですが、その頃は何故か私は眠れない夜が続き、その日も夜の間外へ出て星を眺めていたのです、そんな時でした。同じチームに今回の緑化作業を初めて行う中村君と言う三十代のメンバーが居たのですが彼も私と同様眠れないらしく、私達は歳が離れているものの、当たり障りの無い会話をしながら空を眺めていたのです。本当に静かで穏やかな、風一つ吹かない夜で、満天の星空と美しい月が静かに私達を見下ろしておりました。そこに現れたのが、かの趙さんでした。
私と中村君は同様にあの会の日、同じ場に同席しておりましたからどちらからとも無く自然に趙さんにあの日はいったいどんな話をされたかったのですか、と聞いたのです。
趙さんはあの話は忘れて下さい。私も皆さんに興味深い御話を聞かせて頂いたものですから、ついとっておきの話をお聞かせしたくなってしまっていた。しかし、あれはこの地では話してはならない決まり、それをすっかり私が忘れてしまっていたんです。と答え、その内容を教えては頂けませんでした。残念がる私達でしたが、趙さんの服装を見た時、やけに厚着をしている事に気が付きました。
そこで私はこれからどこかへ出かけるのですかと聞くと、趙さんは苦笑いし、正に今、その話せない事情を確認するために砂漠に向かうのですよ、と私達に告げるのでした。そして、もしその場までお付き合い頂けるのなら私もその話をお伝えしましょうと私達に言うのです。
私は唖然としました、中村君も同様に驚いた表情を顔に浮かべております。そんな時間に砂漠へと出かける事など自殺行為に等しいですから。そこで何故そこまでの危険を冒してまで趙さんが砂漠へ向かおうとするのか私達は聞いたのです。彼はもし、砂影都の有様を語ったならば貴方達も向かいたくなるはず、きっとそうですと月を見上げ言いました。継いで、これだけの月明かりがあるならば、迷う事も無いでしょう、と私達を見据えて言います。
中村君は遂に話を聞かせて下さいと切り出しました。私は趙さんが話すのを止めさせた方達が何故あれ程に睨み付けていたのかが気になってはいましたが、あの時ばかりは状況とその場の空気に呑まれていたのでしょうか、兎にも角にも彼の話を聞かずには居られませんでした。それに危険を感じたならば砂漠に深入りする前に帰れば良い、そう思っていたのです。
私達は砂漠の温度差に耐えるため、少しばかり衣服を重ね着すると車に乗り、一先ず緑化現場に向かいましょうと言われ、趙さんの運転する車に乗り込みました。そこで彼は運転を続けながらも、ゴビ砂漠には古くから死者に会う事が叶う都が有る、そう区切り間を置いて、運転席で僅かに屈み、月を見上げて静かに語り出したのです。
風は無く、趙さんの声と車が巻き上げる砂埃の音ばかりが鼓膜を打つ中、私と中村君は憑かれた様に彼の話に聞き入っておりました。
この辺の地域の人間ならば誰でも知っている、昔話有ります。親を失った少年が砂漠を旅する話、砂漠は死の大地、魂の行き着く先、そこへ行けば死んだ両親に会える、そう信じた少年、遂に死者の都を見つける事ができました。砂丘に囲まれた広い砂の平地、少年が過ごした家がそのままの姿で建っていて、少年の両親もその家先で手を振って待っている。両親に逢えた少年は両親に抱きつき、少年の親ももう離れない事を約束する、けれど夜が終わりに近づき、朝がやってくると少年の親は少年を突き放し帰れと叫ぶ、私達は常にお前の傍に居ると両親に言われ少年が砂丘を見上げる、すると都は光に触れた場所、そこから砂に変わり消えてゆく、やがて少年の親も、砂と共に巻き上げられて消える。
そう言う話です。砂影都の名は有名なのです、しかし、その実態は余り知られてはいないです。死者に会うこと、それは罪な事、そうなのです。私、逢いたい人が居ます、もう何年も前、失った大切な人。そのために私、貴方達手伝いました。この数ヶ月、とても楽しかった。皆さんに感謝します、けれど私の目的、緑化と違う所に有りました。砂影都は仮の名前、本当の名前を知ると辿り着ける、そう言う話でした。私は一年前、友人から聞きました。砂影都の本当の名前、それ以来私の夢に大切な人、必ず出てくるのです。逢いに来て欲しい、私に逢って欲しい。私、長い時間大切な人を失って苦しみました。忘れるために大変な努力しました。思い出す事、その時間が無くなる様、やれる事全部やりました。やっと忘れられた頃に友人が現れ、私の夢の中に彼女が現れた。昨日の夜、夢の中で彼女に、今日の夜逢えると言われました。こんな話信じられないでしょう、けれど本当。本当の話なんです。
車を走らせながらライトの行く先を真剣に見つめ、趙さんはそう語りました。彼の話が終わると車の中は砂や瓦礫が跳ねる音だけになり、周りの月明かりに照らされ、幻想的に浮かび上がる風破された景色がその非現実的な状況と相成って、まるで現実ではなくどこか夢の中に居るような不思議な感覚が私を包んでおりました。やがて、運転席の後ろに座っていた中村君が不意に一言口にしたのです。
俺も、俺も会えるでしょうか? 俺も会いたい人が居るんです。会って謝りたい人が居るんです。そう言う中村君に対して、趙さんは後ろを覗き込み快く頷き、顔を戻し際私の顔を一瞥するとまた、正面に向き直り運転を続けました。
結局、私はその日、彼等と行動を共にする事は有りませんでした。私には故人に会いたい人は居ない、けしてそうした訳では無いんです。確かに会いたい人は大勢居ますよ、けれど、私にとっては悲しみが置き去りにされた時間が長すぎた、それだけです。それにそれほどの時間が必要とはならない、私はいずれ近い内に迎えが来る、もう先が見える年齢でしたからね。
それで終わりですか? なんだか核心に触れていない、そんな気がするのですが。
確かに、そうですね。それから私たち三人が現場に着くと、そこから二人は植物の畑を越え、照らし出された砂丘の稜線の向こうへ姿を消しました。私は結局彼等の帰りを車で待つ事にしたのです。しかし、それきり二人は帰って来なかった。
それはつまり、二人は死んでしまったと?
いえ、趙さんはそのまま帰らず、行方不明となってしまいましたが、中村君は確り帰りました。かれこれその夜からは二日も経ってしまって絶望視されていたのですが、大人数で捜索したにも拘らず見つからなかった中村君はあっさりと自力で現場まで帰り着いたのです。
すっかり干乾びた様に痩せてしまった中村君はそれでも、なんだかとても清々しい表情を浮かべて私に言いました。俺は長年の痞えがやっと取れました。松露さんもあの場所へ一度は行ってみた方が良い、そう私に言うのです。そして私は気が付けば彼に砂影都の本当の名を半ば強制的に聞かされていました。私は趙さんはどうしたのかと彼に聞くと、趙さんは幸せですよ、きっと、とそれだけを言い、それきり何も語ろうとはしません。彼はその後中国当局に事情徴集を受け、それきり緑化現場に戻ってくる事はありませんでした。聞けばそのまま帰国したそうです。
な、なるほどなるほど、それで、その都の本当の名とは何と言うのですか?
「 」です。
――僕はTVを見ていた。一月悩んだ末に出した結果だ。欠けていた話の繋がりが漸く僕にも理解できた。映し出されている司会者は緊張した面持ちで最後の質問を問いかける。演出としてはありきたりとは言え、中々に板についていて自然に見え、番組を盛り上げている。質問を受けていたのは僕の叔父だ。数十年も音沙汰無く、ただ只管に砂漠緑化に勤しんでいた変わり者の叔父は一月前、唐突に帰国して僕の前にその姿を見せた。写真でしか見た事の無かった叔父は写真と変わらず、豊富な白い髪と髭を蓄え、目じりの皺をより深くして笑みを浮かべながら大きくなったな、元気にしていたかと僕に話しかけたのだった。
叔父は帰国後すぐにTV取材を受ける事になる、長年間緑化プロジェクトに順次していた叔父はそれなりにその方面では名を知られていた、所が叔父が取材を受ける条件として出したのはオカルト番組への出演だった。僕は叔父の事は全く知らなかったので叔父がどんな人物なのか解りかねていたのだけれど、その行動が尚の事僕の叔父に対する理解を難しくした。
そうした僕の戸惑いをまるで無視して叔父は僕に気軽に話しかけた。両親の葬儀にも出席しなかった叔父に対して僕はどこか憎しみのような感情を抱いていたのだけれど、そんなものは本人に会うことであっさり吹き飛ばされてしまった。僕は嬉しかったんだ、両親が死んでしまい孤立してしまった僕にも、親族の血がまだ残されていた事が。訊きたい事が山ほど有り、教えて貰いたい事も数多くあった。これからは叔父も日本で暮らすのか、それならば頻繁に会う事も可能だろうか、そんな事を考えていた矢先、叔父はTV収録を終えるとまた旅に出ると僕に伝えたのだ。
収録を終えた夜、僕は街に流れる河の河川敷に叔父に呼ばれた。それまで見た事の無い真剣な顔をした叔父が僕に向かって話しかける。
お前には本当に苦労ばかり掛けてしまったな。兄や義姉が亡くなった時、本当ならば私が仕切らなければならない事を全て任せ切りにしてしまった。ここに僅かだが私が備蓄した資金がある、どうせ使い道の無い金だから、お前が使いなさい。
そう言って通帳を僕に渡した。突然の事に動揺しながらも何故という疑問が僕の頭の中を駆け巡る。
何故なんです、叔父さんも日本に居ればいいじゃないですか。折角帰ったのに何処に行こうと言うんですか。
僕がそう話しかけても叔父は悲愴な面持ちを浮かべ僕を見るだけだ。そうして次に叔父は言う。
いいか、これから言う事を覚えておきなさい。私の友人に中村という男が居た、彼は私の前に戻り、一通り話し終えると砂粒になり崩れ落ちた。中村君は体はあの地に置いたまま精神のみを砂に乗せ私の元へと駆けつけたと言った。彼は既に死した愛する者達に囚われ今もあの地で、そしてそれは私も同じなんだよ。私はそれから数日後、既に会っていた。私の体は今もあの地で彼等と共に、いや、お前は知らなくていい、良いか、絶対に番組は見るな。それと、砂漠の都の本当の名を知ってはならない、もしそう言った話をされたなら耳を塞ぎなさい。お前まで巻き込むわけには行かない。
叔父はそう言って空を見上げ、最後に一言付け加える。
これから起きる事が自分の身に降りかかる事を恐れるならば、お前は必ず私の言った事を守るべきだよ。お前は私と違ってまだ若い、これからが有るお前には余りにも酷だ。もう時間が無い、良いか、けして忘れないで欲しい。
震える声が割れ、やがて識別できない程の濁音に変わると、叔父は指先から分解して砂に換えられて行った。糸が解けてゆく様に粒子に分解されてゆく、叔父は苦しそうに空を仰ぎ片手を空に掲げると、竜巻状に分解した砂粒が吹き上がる、勢いが弱まり、砂の噴出点が体まで戻ると叔父の体の輪郭が波を引き起こして一瞬で分解し、全てが砂に変わり、砂の薄い膜を辺り一面に撒き散らした、やがて霧状に広がった砂は、地面に薄く広がり落ち、残りは風に乗って空の彼方へと運ばれていった。
ここまでの御目通し、有り難うございました。
他の稚作も御目通り頂けますととても嬉しく思います、どうぞよしなに。
しかし、短編書きには辛いリニューアルですね。これは中々に厳しい。