娯楽を提供しているのだと割り切れば、簡単に書けるようになる
問題提起とか、そんな高尚なものじゃない。
たまたま新着短編一覧で見かけて、タイトルが気になったから、読んでみる。
ランキングに載ってるから……あるいは、お気に入りに登録してる著者だから。
いずれにしても、読む側は「この人の作品を読むことで、人生を変えよう」なんてことは考えてない。
その点は短編も長編も同じ。
すげえその通りだ、人生を書き換えよう。
なんて超大作よりも、まあ楽しかったよ。ぐらいのあっさり味を望んでいる。実は。
だから、書く側の意見というか考え方が、あまりにもダイレクトに伝わって、行動の変容を促してくる作品とは、むしろ少し距離を置きたい。と、読者諸君は考えておるのではなかろうか。
私にとって宗教は、小説のネタにできるぐらいの距離感がちょうどいい。
「だからなんなのだ」と言いたくなることがある。
「結論は?」「so what?」「何が言いたいの、はっきりしなさい」と。
私自身の作品を推敲している時にすら、そう思うことがある。
でも、それでも別に、いいのかもしれない。
こうすべき。というメッセージ性のある作品は、刺さればきっと価値があるのだろう。
けれどそれは、そうでなくてはならないという理由にはならない。
だから、私たちは、もっと気楽に書いてもいいと思うのです。
もちろん、意味のある、価値のある、そんなエッセイをこそ書きたい。という気持ちはよくわかります。
だけどそれは同時に、目の前に立ちはだかる高い高いハードルでもある。
ハードルというか、走り高跳びとか棒高跳びのバーというか、壁というか。
そんな物を前にして「飛び越えるのだ!」と言われても、素人の脚力では無理もある。
でも安心して欲しい。
多分読者は、読む前のそれにそこまで期待はしていない。
むしろ引っかかって転ぶ様こそ、娯楽としてはふさわしい。
例えば私のこのエッセイは、「メッセージ性は不要」という、明確なメッセージを内包している。
これを読んだ人が「みももも先生の言うとおりだ」みたいな反応をすることは、そもそも望んですらいない。
せいぜい読んだ人が「良い娯楽を提供してくれてありがとう」ぐらいの気持ちで★をつけてくれれば良いし、いやそれは違うと思う人がいれば、コメントしてくれれば良い。
エッセイに対する反論ぐらいだったら、削除もブロックもしないのでご安心を。
まあ、エッセイに対して持論をぶつけてくる人は、その思いで対立エッセイでも書けば良いのに……とは思うけど。