未練たらたら ~女子高生と成人男性~
異世界転移モノを書いていたのですが、ほぼ半エタ状態だったのでリハビリがてら執筆&投稿。
なおこっちの執筆で手も止まりまくって数ヶ月以上かかって、完全に元も子もなくなってたのは内緒だぞ(はーと)
よければ私の他の作品も見ていただければ幸いオブ幸いです。どうぞよしなに。
いつも通りの夜は、いっそ不安になるほどに、あたしの心を落ち着かせた。
あたしの名前は嘉村汐莉。
十七歳、いわゆる花のJKというやつだ。
平凡な家庭に生まれ、過不足なく愛を受けて育った。だが、ちょっとばかり色々あって…………自分で言うのも何だが、少しだけグレた。
とは言え、そこまでヤンチャをしているという自覚はない。多少言葉遣いが荒くなったり、せいぜい今みたいに、夜中に外に出歩くことが多くなったくらいだ。
「…………静かだな」
街灯が疎らに照らすだけのアスファルトの道には、今は人の足音一つ聞こえない。耳を傾けても、流れてくるのは囁くような風の音のみ。
何とも不気味な空間だが、今のあたしには心地よかった。
これもまた、いつも通り。異物の存在しない、あたしの日常だ。
夜の魔力は絶大で、甘美だ。変わらずに停滞したままでいることを、柔らかく肯定してくれる。その日の終わりの定義が曖昧になっているように錯覚するからだろう。
だが。
「……帰るかな」
夜の魔力は、効き目が切れるのも早い。何かを為さなければ、何かに成らなければという焦燥が襲いかかり、人は皆、追いやられるように朝を迎える。
夜の帳を縫う涼しさが、あたしの髪をなびかせる。
それから少し、宛もなく近所をフラフラと彷徨いた。
スカートのポケットに手を突っ込み、やや猫背になりながら、夜空を見上げた。
下弦の月が昇りかかっている。確か下弦の月の南中は、夜明けが時間的に近いんだったか。というかあれは下弦の月で合っているんだったか。多分もう習ったのも十年ほど前のことだ。ほとんど記憶にない。
とりとめのないことを考えながら、さすがにそろそろ潮時かと、来た道を引き返そうとしたその時。
――――視界の端で、何かが横切った。
「…………えっ?」
あたしは、その影を反射的に目で追う。
暗がりに隠れるように、素早く動いていたそれの正体に確信は持てない。
シルエットから鑑みるに人であることは間違いないが、あの一瞬で、それが誰かなんて分かるはずもない。
ただ、一瞬捉えたその面影は、あたしをひどく懐かしい思いにさせたことは間違いなかった。
その影を、今すぐ追いかけなければならないという使命感が、無意識にあたしの体を突き動す。気付いたときには、あたしは走り出していた。
それが動いていった先の路地へと入り、大通りへと走り抜ける。
「まさか……!」
目の前の信号が、青から赤に変わる。
疲れとは全く別の、謎の焦りに呼吸が荒くなっていき、思わず一度立ち止まって、十字路を見渡した。
誰もいない……いや、いなくなっただけだ。
見失いはしたが、予感めいたものがある。あたしの直感に従えば、恐らくその正体は見つかる筈だ。
信号はおろか横断歩道さえも無視して、車の往来など一切ない車道を斜めに突っ切り、反対側の歩道へと渡る。
そして、また路地へと吸い込まれるように入った。
あたしが迷うわけもない――――だってこの道は、あたしが帰宅途中に近道として何度も使っていた道だから。
何千回と見てきた風景を通り過ぎて、人生で一番目にしてきた屋根を視界に捉える。
心の中で感情が渦を巻いて、うまく呼吸ができない。それでも、足を止めるわけにはいかない。
視界の中で近付いてくる、いつもの街灯、いつもの玄関、いつもの表札。
そしていつものあたしの家の前に――――いつもはいなかった、そいつがいた。
足の力が徐々に抜けていって、あたしはゆっくりと立ち止まる。
背後の気配に気がついたのか、そいつは振り返る。そして暗がりの中、街灯に照らされたあたしを認識すると、そいつは心底嬉しそうに笑った。
「久しぶり、汐莉ちゃん」
対照的にのほほんとした雰囲気で、そいつはあたしの名を呼んで、こちらに手を振った。
「どうしても会いたくてさ。思わず走って会いに来ちゃった」
「…………お前」
こうして会うのは、どれほどぶりになるだろうか。
本当に長い間、会ってなかったような。
前に会ったときよりも、少しだけ背が伸びている気がする。あの頃と違って……そうか。この男、もう成人しているのか。
あたしは、沸き上がる感情に身を任せ、また走り出す。
あたしが全力で駆け寄るその様に、驚きと嬉しさを顔の全面に押し出すそいつ目掛けて、
「汐莉ちゃ――――」
「どの面下げて会いに来やがったぁぁぁぁぁっ!?」
「――――ごぇ!?」
鳩尾に、慣性を乗せた渾身の飛び膝蹴りを叩き込む。
あたしの怒声と、この大バカ野郎の言葉にならない悲鳴が、街の夜空を劈いた。
●
藤村時雄。この男の本名である。
昔、あたしは藤村からの熱烈な懇願に折れて――――まあ所謂、そういう関係になったことがある。
しかしそれも過去の話だ。その関係はあたしから解消したし、それ以来は一切会うこともなかった。
それが何だって今さら、あたしに会いに来たのか。
いや、理由自体は、本人を見ているだけでもはっきり分かる。
「何であたしに会いに来たんだよ」
「汐莉ちゃんが好きだから!」
即答である。
非常に不本意ながら、こいつはまだ、あたしに未練があるのだ。
だが理由は分かれど、納得しているかどうかは、また別の話。
何故ならあたしは、別れ際に藤村と1つの約束している。
「あたし、お前に言ったよな。『会いに来んな。幸せになるなら、あたし抜きで勝手になれ』って」
「そんなこと言ってたっけ!?」
あたしがそう言うと、藤村は本当に心外みたいな表情をしやがる。
思い返してみれば、確かにニュアンスは少し違ったかも知れないが、それでも似たようなことは言った。
「それに、『お前』なんかじゃなくて、昔みたいに『トキくん』って呼んでよ」
「呼ぶかバカ」
「痛い!」
尻を蹴り上げられた藤村の悲鳴が、夜の公園に響く。
どうせ誰も気付かないだろうが、夜中にあたしの家の前で騒ぐのは気が引ける。だから今は、藤村と二人で移動して、近所の公園の側を歩いているところだ。
だが、そもそもの本音はと言えば。
「帰れよ」
「え。せっかくここまで来ちゃったんだから、もう少しお話ししていこうよ」
「それは快く迎え入れられた場合に、迎え入れた側が言うセリフだからな!?」
あたしって、こんなに長々とツッコミするタイプだっただろうか。どうもこいつといると、調子が狂うようだ。
目の前で間抜けな面をしているこいつは、頑として帰る気がないらしい。ならば、こちらも攻め方を変えるしかあるまい。
「第一な……お前、今いくつだよ」
「二十二だけど」
「もう、そんな歳になんのか……」
時の流れの速さを実感するが、それは今重要じゃない。
問題はあたしが十七歳であるという事実と、そこで生じている歳の差だ。
「真夜中に成人男性が、未成年のあたしの下に来る。この時点で、もうヤバイと思わねえか?」
「僕らに法律が関係あると!?」
「なんつーこと言うんだよ……」
藤村のあんまりな発言に、あたしは思わず頭を抱えた。目の前のこいつとのスタンスの違いに、何だか頭痛がしてくる。
もう駄目だ。これ以上こいつと話していると、心がおかしくなりそうだ。
「やっぱ、あたしは帰る」
「それじゃ、家まで…………」
「着いて来んな!」
あたしの強い語気に、さすがの藤村もたじろいだらしい。咄嗟に立ち止まった藤村を振り切るように、あたしは駆け出した。
車道を走って横断し、向こう側の歩道へと渡らんとする。
「ちょっと!」
――――いつも夜中に彷徨いている時、あたしは普通に車道を歩いたりする。
何せこの時間帯には車なんて通らないし、轢かれることもない。
そしてあたしの傍には、運悪く街灯が立っていた。
だからその時、街灯よりも近くなったヘッドライトに照らされるまで、車が近付いてきているということに気付けなかった。
「危ない!」
咄嗟に駆け寄った藤村があたしの腕を掴んで引き寄せ、そのまま抱き止め、二人して道に転がった。
危うくあたしを轢きかけた車は、あたしと藤村の僅か数センチ側を何事もなかったかのように通過していった。
車の排気音が遠くなり、二人の呼吸以外聞こえなくなる。
あたしを抱える藤村の両腕は、ナヨナヨして頼りない見た目と裏腹に、どことなく逞しさがあった。
「危ないじゃないか! 怪我で済まなかったらどうするの! 相手の運転を完全に信頼しきっちゃダメだよ、ちゃんと気を付けなきゃ!」
何とか二人で歩道に戻ると、藤村はあたしの両肩を掴んで、真っ直ぐに目を見た。
その視線は、純粋な怒りと焦りと心配を帯びていて、ばつが悪くなったあたしは目を逸らす。
数秒後、はっとしたあたしは身を捩り、藤村の腕を振り払う。
「離せって、別に怪我なんてしてねえよ」
「そういう問題じゃないって! 道路交通法、知らないの!?」
「お前が法律なんて関係ねえって言ったんだろうが!」
我ながら、揚げ足取りもいいところだ。
腹立たしいことに、藤村は大人だったということだろう。
「車は本当に危ないんだから。もし汐莉ちゃんの身にこれ以上何かあったら…………」
――――だが、理解できても許容できないくらいには、あたしは子供だった。
「うるっせえ! お前なんかが、一端に他人の心配しやがって! あたしを気にして、何になるってんだよ!」
よりによってこいつなんかに心配されたという事実が、あたしをより苛立たせる。
完全に逆情しているだけだ。自分で言っている言葉なのに、半分も内容が理解できない。
だが、あたしはもう、感情の奔流に逆らうことができなかった。
「……汐莉ちゃん、落ち着」
「お前にだけは! 会いたくなかった!」
あたしの叫びに藤村は目を見開き、言いかけていた言葉を飲み込む。
それを好機と言わんばかりに、あたしは一気に捲し立てた。
「なのにお前は呑気に会いに来て! いちいち助けて勝手に心配しやがって!」
「汐莉ちゃん……」
「それがあたしにとってどれだけ屈辱か、お前に分かるか!?」
藤村を睨むあたしの目から、涙が溢れかけるのを誤魔化すように、俯いて力なくしゃがみ込む。
「お前にだけは、会いたくなかった……」
最後に絞り出した言葉が、夜の街に細く響く。
藤村の表情は見えない。だが、立ち尽くしたままの身体が街灯に照らされて写す影は、どこか悲しみを帯びていた。
「……ごめんね。今日はもう、帰ろうか」
藤村はただそれだけ、ぽつりと言った。
●
あたしの部屋は二階にある。
両親は目を覚まさないだろうし、最悪覚ましたとしても何ら問題はないのだが、それでも何となく、足音を立てないようなつま先立ちになりながら、階段を上った。
ドアを通って、自室へと入る。
家具も荷物もほとんどない、花のJKとしては簡素な部屋だ。どんどんと殺風景になっていくのは何とも物悲しいが、こうした生活をしていると、意外と物に対する執着もなくなっていくものだ。
……執着も、なくなっていくものだ。
カーテンが開けっ放しの窓から眼下を覗く。
先程まで、藤村との歩いていた道が、目に入った。
先刻の喧嘩別れ――――否、あれは喧嘩でさえなかった。
助けてもらっておきながら、泣いて駄々を捏ねただけ。まるで子供、それ以下だ。
あたしを見ているというだけで気に入らない人物だとはいえ、恥も外聞もないふためきっぷり。
その時には感じなかった羞恥心に苛まれる。
「まだ、あたしに……」
夜の静けさに、月明かりに、感情の昂りがゆっくりと癒されていく。
心を落ち着かせるように窓枠を指先でなぞりながら、そっと呟く。
――――そして、
「へえ、随分片付いたんだねえ」
「何で着いて来ちゃったんだよ!?」
望まぬ同行者の一声によって、その落ち着きは全て無に帰した。
勿論、声の主は藤村である。てっきり帰ったと思い込んでいたが。
「おま、お前! 普通あの感じで、部屋まで着いてくるか!?」
「だって汐莉ちゃんと離れたくないんだもん……しれっとお邪魔できるかなって」
ここまで潔い開き直りがあるだろうか。何でもないことのように言っているが、やっていることは実質的には不法侵入である。
まあ、どうせこいつのことだから、『僕が汐莉ちゃんに会うのに、法律なんて障害にならないよ』とか、頓珍漢なことを言い出すのだろうが。
「それに、邦一さんと志保さんにも、久し振りに会っておきたいなと思って……」
「他人の両親を名前呼びするなよ!」
「じゃあ、お義父さんとお義母さん……」
「あーあ、絶対言うと思った!」
その表現を聞いただけで、耳が痒くなる。
さんざん叫んだ今のあたしには、もうこいつをすぐに追い返す気力は残っていなかった。
「ああ、もう……そこに座れ」
諦めて床を指差すと、藤村は大人しく正座した。
部屋のど真ん中に座ったのを確認して、あたしも胡座をかき――――何となく座り直して、窓際の壁にもたれ掛かる。
視線を気にすることもなし、部屋にいる時はいつもこの座り方だったから、無意識に胡座をかいてしまった。
その一連の流れをじっと見ていた藤村は、真剣な面持ちであたしを見据えた。
「汐莉ちゃん、キスしていい?」
「は?」
ここ最近で一番の冷たい声色にあたし自身が内心驚いていたが、藤村はそんなことは一切気にしていないようだった。
「今の汐莉ちゃんの、一瞬だけ生活感出したあと、僕の存在を思い出して恥ずかしそうに直す感じが、何かこう、グッときちゃって……」
「うわあ……お前、歳とって輪をかけてキモくなってんな」
あたしが本心からドン引きしていると、藤村は照れ臭そうに頬を掻いた。
そのリアクションも間違っていやしないかと思うのだが、どうせ言っても無駄だろうと諦める。
こいつは当時から、あたしに盲目的なところがあったから、そういう性分なのだろう。
そう、当時から……恐らく今も。
「一応確認するが……お前はあたしのことを、その、マジで好きなんだな?」
「マジで好きだよ」
「どのくらい?」
「それはもう、許可が降り次第、速攻で押し倒すけど?」
「それはもう性欲の領域じゃねえか」
未成年に対してふざけたことを抜かす成人男性に思わず呆れるが、当の成人男性はまったく遺憾だと言うかのように天を仰いでから、あたしに向き直り熱弁する。
「性欲は愛の延長線だよ! その人と極限まで一つになりたいっていう欲求の、どこが愛じゃないって言うのさ!?」
「何ちょっと詩的に表現してんだよ」
ものは言い様とは、まさにこのことである。まあ、夜分に人の家で性欲と愛について声高に叫ぶ大の男であるという点を除けば、情熱的でいいんじゃないだろうか。知らないけど。
あたしは、真っ直ぐに藤村に人差し指を向け、やや高圧的に告げる。
「後学のために教えておいてやる。よく聞け」
「うん」
「相手に迫りたい時は、まずは自分を客観視して、相手の気持ちになれ。相手側の心理に立てないような奴に、自分の気持ちを押し通す権利なんてない」
「そうだね」
「想いを伝える程度なら、まあ構わない。だが、気のない奴に必要以上に迫られたところで、相手は気分が悪くなるだけだ」
「当然だ」
「……何かあたしに言うことがあるんじゃないか?」
「キスしていい?」
「ああぁーっ!」
言わんとしていることが何一つ伝わっていないというストレスに、あたしは頭を掻き毟る。
髪がボサボサになるのも構わず、あたしは立ち上がり、藤村を見下ろして叫んだ。
「あたしは! お前に! とっととあたしの前から消えろって言ってんだ!」
正座のままキョトンとあたしを見上げる藤村に更なる苛立ちを覚えながら、あたしは激情のままに言葉を連ねる。
「お前があたしのどこをどのぐらい好きなのかなんて知らねえし、気色悪いだけだから聞きもしねえけどさぁ! お前があたしをどう想おうと、あたしはお前を拒絶してんだよ! まともな奴なら引き下がるんだよ、とっとと引き下がれよ! もう、とっくに、過去の人間なんだよ!」
あたしの言葉は、このバカに伝わっているだろうか。これだけ声を張り上げて、伝わっていなかったら、やってられない。
「いい歳した大人があたしみたいなのに言い寄ってんのもキモいしさぁ! 何がどうなったら、あたしを好きになれるんだよ! いつまであたしに拘ってんだよ! あたしがそんなに素敵な人間に見えるか!?」
結局、一体あたしは何を言いたいのだろうか。気持ちの奥底では、あたしの心は固まっている気がするのだが、それを口にしようとすると、ふらふらとした言葉しか出てこない。
「あたしには、そんな――――!」
「――――汐莉」
ぴしゃりと。いやによく通る声で、藤村はあたしの慟哭を断った。
藤村はあたしが思わず黙って立ち尽くすのを見届けて、二人で道路に転がった時よりも真剣な面持ちで、ゆっくりと口を開いた。
「正直に言うとね。もしかしたら汐莉ちゃんは、もう僕への興味を失っているかもしれない、とは思ってたんだよ」
「はぁ……?」
「そしたら想像よりも明確に僕のことを拒絶してたからさ、途中から本当に僕は嫌われてるのかと勘違いしかかってたんだけど……やっと分かった」
その顔を止めろ。
あたしの心を逆撫でするような、そんな表情だ。何故目の前の男はあたしを見て、そんなにも悲しそうな顔をしている?
「汐莉ちゃんは僕じゃなくて……自分が嫌いなんだね」
悲しみを帯びた、しかしあたしのことを見透かしたような目に、形容し難い感情が吹き起こった。
「自分の存在が、僕の人生を変えてしまったって、そう感じたのかな?」
「……違う」
「僕を縛り付けてしまったと、そう自分を責めているのかな?」
「黙れ」
「僕が汐莉ちゃんを好きになって……汐莉ちゃんが、それを許してしまったから」
「黙れって、言ってんだろうが!」
家族が寝静まった夜であることも忘れて、あたしは絶叫する。
だが藤村は、もうあたしの甲高い声に驚くこともしなかった。正座をしていた足を崩して、どっしりと構えるかのようにあたしを見据えた。
「違うって言った! あたしは違うって言ったんだ! だからこの話はこれで終わりなんだよ!」
論理も何もあったものじゃない。ただ感情のままに迸った、対話の拒絶の意思。だが、藤村はそれを悠々と越えてくる。
まるで、あたしの言葉に本音がないと確信しているかのように。
「汐莉ちゃん。僕は君が好きだよ。どうしようもないくらい愛してる。汐莉ちゃんと出会わなかった人生なんて考えられない。汐莉ちゃんと一緒にいられるのなら、例えどんな結末が訪れようと、出会いを後悔することなんて絶対にない」
毅然と愛を伝える藤村に、あたしは言葉を詰まらせた。
あたしには、本当に理解が出来なかったのだ。何故こいつは、こんなにも真っ直ぐにあたしを見ていられるのか。
「だから、僕は汐莉ちゃんがしたことなら、大体のことは賛成できる。だけど、それだけはダメだよ。僕が嫌われてないって分かったのはよかったけど、それより悪い」
「――――何を」
「『あたしには、そんな価値ないだろ』とか、言おうとしていたのかな?」
あたしは、思わず息を飲む。
まさしくそれは、あたしが溢そうとしていた言葉と、一字一句違わぬものだったから。
その一瞬の沈黙を肯定と捉えたのだろう。藤村は物憂げな表情で続ける。
「汐莉ちゃんの両親はさ、汐莉ちゃんのことが好きだろう?」
「……何の話だよ」
「クラスメイトの皆も、汐莉ちゃんととても仲良くしてただろう? それは、方向性の違いはあっても、皆汐莉ちゃんのことが好きだったからさ」
反射的に言い返そうとするが、真っ直ぐで真剣な目付きが、あたしの突発的な否定を許さない。
「汐莉ちゃんは人付き合いをするときに、『この人は仲良くする価値があるな』って考えたりする?」
「……しねえけど」
「皆も同じだよ。皆が汐莉ちゃんのことを好きなのは、価値があるとかないとか、そんな冷たい理由じゃない。汐莉ちゃんが汐莉ちゃんだから、好きなんだ。自分の価値とか、冗談でも言わないでほしいよ」
にへら、と締まらない笑顔になって、続ける。
「自分に自信が持てないのは、誰にでもあることかもしれない。でも少なくとも、今僕の目の前にいるのは、ただの汐莉ちゃんじゃない。確かに皆から好かれた汐莉ちゃんだ」
そして藤村は、自分の胸に手を当てる。その自信に満ち溢れているポーズに、確かにあたしに足りないものを幻視した。
「だから、自分はすごい人間なんだって、胸を張っていいんだ。そして、汐莉ちゃんが好かれるべき人だってことは、この僕が保証しよう」
――――五年が、経っていたんだ。
藤村と別れて、月日が流れて、あたしはいつの間にか忘れていたのかもしれない。
この藤村という男は、あたしが一番辛いときに、一番かけてほしい言葉をかけてくれる。
出会ったときから、そんな奴だったんだ。
「……お前の保証があって、何になるんだよ」
「だって僕が一番汐莉ちゃんを愛してるもんね! そりゃ邦一さんや志保さんには愛した年期で負けるけど、でも質では負けないよ!」
「はっ。だから名前呼びするなっつったろ」
そう言うと、藤村は少し目を見開いたあと、嬉しそうに目を細めた。
「やっと、笑ってくれた」
……確かに無意識だったが、あたしは今、笑った気がする。
ちょっと高圧的な笑いだった気がしなくもないが、それでも心から、笑ったような。
「月並みだけどさ、やっぱり笑顔の汐莉ちゃんが一番かわいいよ」
そう言う藤村も、笑顔だ。
思い出した。こいつの笑顔は、こんな感じだったんだ。へらへら笑ってばっかりのように見えて、少し無理をして笑っていたんだろう。
でも、心からの笑顔は、あの頃から変わらないらしい。
膝立ちになって藤村に近付き、そっと頬に触れる。
「図体ばっかデカくなっても、中身と表情は変わんねえな?」
「そりゃあ、何年経とうとも変わらないものもあるよ。依然汐莉ちゃんが好きだしね」
「すぐあたしに繋げられるの、素直にすげえよ」
嗚呼、だからこそ。あたしを好きでいてくれるからこそ。
――――この男は、ここにいてはいけない。
あたしに会いに来たなど、決して、あってはならない。
誰に何を言われようと、こいつにどんな言葉を与えられようと――――否、与えてくれるからこそ。
それこそが、決して変わることのない、あたしの矜持だから。
例え、幾度となく繰り返してきた言葉を、また性懲りもなく繰り返すことになっても、それだけは譲れないのだ。
「やっぱりお前、もう帰れ」
「……汐莉ちゃん?」
戸惑いを見せる藤村の声にあたしは薄く微笑む。
断じて、楽しいからではないのに。
ゆっくりと頬からなぞっていき、肩に手を置く。そして握りしめられた手を、藤村がそっと触れた。
「久し振りにお前に会えて、少しだけれど話すことが出来て、楽しかったんだ」
「……汐莉ちゃん」
あたしは俯いたまま、表情を隠したまま、藤村の方を見ないまま。
言葉を紡ぐ。
「まだあたしのことを好きでいてくれて…………まあ、嬉しくないことも、なかった」
「…………」
「だけどさ、もうそろそろ、帰んなきゃいけない時間だろ? なあ」
「…………」
「今ならまだギリギリ、帰れるかもしれないしさあ……」
「…………」
「だから、もう帰れ。で、もうここには来るな」
「…………」
「…………」
「…………」
「……何とか、言えよ……」
やっと絞り出した言葉を答えるかのように、藤村の手が動いた。
何か苦渋の決断をしたかのような表情で、そっとあたしの頭の後ろに触れて、ゆっくりと抱き寄せる。
――――あたしの額が藤村の胸に触れて、異様に静かだった。
「汐莉ちゃん。さっきの僕の言葉が届いたと信じて、ちゃんと言うよ」
「や……」
「汐莉ちゃんも、分かってるでしょ? 僕も――――」
「……やめ」
「もう、間に合わない。帰れないんだ」
開いたまま、閉じることも出来なくなったカーテンがかかる窓から、僅かに明るみがかった空が覗く。
薄くなってきた月が、どこまでも似た者同士のあたしたちを見下ろしていた。
「何で、だよ……」
「飲酒運転だったらしくて」
「そういうことを言ってるんじゃねえ!」
「…………ごめん」
あたしの目から溢れ落ちる涙が、藤村の服に染み込む前に消えていく。
思い当たる可能性を否定したくとも、あたしを取り囲む世界の全ての事象が、それを許してはくれない。
その深い悲しみを拭ってくれるのは、やっぱりそいつだった。
「でもね、勝手だけどね。僕は満足しているんだ」
あたしは、涙でぐちゃぐちゃになっているだろう顔を上げる。間近に、好きだった優しい顔があった。
その目はまるで、とてもとても遠い何かを見ているよう。
少し前まで、その視線の先にあるものは、それほど遠いものではなかったのだろうに。
「汐莉ちゃんとの最後の約束を破って、親を泣かせて。色んな人に悲痛な気持ちを振り撒いて。僕がしたことは決して許されないことなのに」
そこで言葉を切って、あたしを見る。
とても愛おしいものを見るその目のまま、衝動的にその両腕で抱き締められた。
「でも汐莉ちゃんに会えて、僕の中では間違いなくプラスになっちゃったんだ。それが、僕の唯一の未練だったから」
あたしを強く抱き締める藤村の声に、少しずつ涙が混じる。
「初めて出会ってから一緒にいた時間よりも、別れたからの時間の方が長くなろうとしてた。なのに、汐莉ちゃんのことを忘れられた日なんて一度だってなかった」
藤村は多分、今までもずっと本音で喋っていた。
でもこの言葉は多分、藤村の心の奥底にしまい込んでいた、魂の言葉だった。
あたしを傷付けることになるかもしれないからと、決して伝えることのなかった、最奥の本音だった。
「僕は本当に、汐莉ちゃんに会いたかったんだ……」
その、涙と、言葉に。
ぽつり、ぽつり、と。
「あ、あたしだって…………」
震える藤村の言葉に、あたしの中からも激情が――――今日初めて発露した、一切取り繕われていない、雑じり気のない激情が溢れ出す。
「あたしだって、そうだ。もう二度と会えないって、それが正しいことなんだって、ずっと、思い込み続けて……」
「うん」
「でも、本当の未練は違った。お前に――――トキくんに会えて、気付けたんだ」
あたしたちはどこまでも最低な、お似合いの二人だったのだと。
感情と声に呼応するように、あたしもトキくんに回す両腕の力を強める。
「あたし、やっぱりトキくんが好きだ。また会えて、よかった……」
その言葉を、やっと、伝えることができたのだ。
●
あたしとトキくんは、ゆっくりと両腕を解く。
視線が合わさる。どこかこそばゆい感覚に、あたしたちはあの頃と同じ恋を思い出していた。
どっちからともなく、あたしたちは目を閉じて、ゆっくりと顔を近付ける。
それは、トキくんが何度も迫って、あたしが必死に本音を隠して拒絶していたこと。
あたしたちの行く末を、あたしも、トキくんも察していたからこそ。
今はただ、愛おしいという、その大切な想いに任せて。
――――二人の未練を、全て、消すかのように。
唇が、重なって。
やがて、ゆっくりと…………。
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カーテンの開いた窓から、誰もいないその部屋に、夜明けの光が差し込む。