文
朔夜が去った後、屋敷の離れから一人の老女が現れた。土下座し頭を下げたままの雪に近寄り体を起こすと、老女は目をまん丸にして驚いた。
「白夜坊ちゃん?」
「いいえ。白夜は父の名です」
「まぁまぁ」
見開いた目からみるみる大粒の涙が溢れ出た。
「大変だったでしょう。今、旦那様をお呼びしますね」
「いえ。先ほどお会いしました」
ここに置いてもらえるよう頼んだが、返事は貰えなかった。
「そうですか。では私の部屋に行きましょう」
そう言って老女は、雪を離れの隣に並ぶ長屋に連れて行こうとした。
「でも、旦那様からお許しが出ていません」
だから、自分はここで許しが出るまで待たせて貰いたいと言うと、老女は首を横に振った。
「まず体を清めなさい。旦那様には私が上手く取り持って差し上げますから」
その言葉は、酷く魅力的で雪は思わずコクリと頷いた。
□□□
「旦那様、失礼します。まぁまぁ、またそんな姿で」
我が家に奉公している、女中の鈴が部屋を訪れた。
朔夜はあれから部屋でぼんやりと過ごしていた。
何度となく訪れる怒りを外に出さないように、注意深く意識を沈めているのだ。壁にもたれて足を投げ出し、わずかに乱れた着物に鈴が顔を顰める。
「雪様から、旦那様宛ての文を預かって参りました」
うんざりとして目を瞑った。これ以上心を乱されるものを受け入れる余裕が無いのだ。
しかし、自分と付き合いの長いこの女中は、そんなことに配慮などしてはくれない。
「今はいい」
「いいえ。見てください」
ずい、と差し出された文に渋々目をやれば、その厚みに息を呑む。
「随分、厚い文だな」
「白夜坊ちゃんからですよ。きっと事情があったんです」
朔夜の悲しみと苦悩を近くで支えてきた鈴は、ずっと何か仕方の無い事情があったのだと言い続けていた。
――― 白夜様は里を愛し、朔夜様を大切に思っていました。
きっとやむを得ない事情があったのです。白夜様も朔夜様と同じように苦しんでおいでですよ。
そう言い続けてきた鈴は、朔夜の手に文を握らせた。
「雪様は鈴が面倒を見ます。旦那様のお気が済みましたら、声を掛けて下さい」
そう言って、鈴は襖を開けて部屋を出て行った。
渡された文の包みを開くと、何通もの文がバラバラと散らばった。幾つかは黄色く黄ばんでいて、大分昔に書かれたようだ。
朔夜は一番上の文を手に取り広げた。
――― 朔夜へ
まずは里へ帰れなかったことを許して欲しい。
全ては自分が迂闊に行動した報いなのだ。
嫁となる女人に、もう二度と戻れないのだからと、幾日かの滞在を求められて応じてしまった。
もう夫婦なのだからと同じ部屋をあつらえられ、床を共にしてしまった。
一月ほど引き留められている間に、長の息子が命を絶った。
約束通り里に帰ろうとしたが、長が自分を気に入ったため息子を殺したから残ってくれと言われた。
断れば嫁も嫁の腹の子も渡さない。
無事にすませる気も無いと言われて諦めるしかなかった。
雪が生まれてすぐ母親が亡くなった。
雪を連れて里に帰れるよう交渉したら、もう一人の娘と子供を作って残すなら構わないと言われた。
その条件を飲み二人目の妻を娶り子供を作った。
だが長くいた分、この里の危うさを知ってしまった。
土地は痩せ自然の恩恵は消えつつある。
一族は命を繋ぐために食事を必要とし、彼らの妖力はどれも弱いものばかりだった。
いつか雪を連れて里に帰るという意思は変わらなかったが、目の前の民を見捨てる決心が着かなくなっていった。もう少しだけ、と思っているうちに十五年も経ってしまった。
そんな意思の弱い自分に酷似した雪は、一族でも疎まれてしまっていて、自分の目の届かない所で酷い目にあっていた。始めは手元に置いて見ていたが、自分が庇うとさらに酷く当たられるようになっていった。
気付けば離れに捨て置き、目立たぬようにやり過ごさせる以外に守る手段が無くなっていた。
雪だけでも里に帰したかったが、自分の文は全て検分されるため、雪を逃がす算段すらつけられなかった。
だが下の娘に縁談があがり、姉である雪が嫁いでいないのは外聞が悪いという話が持ち上がった。
今更、朔夜を頼るのは筋違いだと重々承知している。
それでも自分が頼れるのは最早朔夜しかいない。
雪をどうか頼む。
いつか必ず里に帰るから、罪を償わせてくれ。
それまで、どうか雪をよろしく頼む。
――― 白夜
読み終えた手紙を持つ手が、だらりと畳に落ちる。
体の自由が利かない代わりに、目頭が熱く閉じた瞼に力が籠もる。
「白夜の、せい、じゃない」
人の良い白夜を脅して騙して留まらせたのだ。白夜の良心に付け込んだ卑劣な手口だった。
バラバラと散らばった他の文は、今まで出せなかった文なのだろう。
離れていた間に白夜は何度も困って朔夜を頼りたかったのではないか。
最初で最後の機会に雪に全てを託して白夜は助けを求めてくれたのだ。
「君の考えは分かったよ」
長く募らせた怒りは、もう何処にも無くなっていた。