希代
物心付いたときの希代の母は、物静かな人だった。あまり口煩くなく、いつも希代の後を付いてきて面倒を見てくれた。たまに希代が笑わせると、とても綺麗な顔になった。
(もっと沢山笑えばいいのに)
そうすればお父様も喜ぶのに、と希代はずっと考えていた。
一緒に遊ぶ姉の額には、二本のゴツゴツとした小さな角があったが希代の額はつるりとしていた。あんな不格好なものが自分に無くて良かったと、希代は内心思っていた。どうせなら皆のように艶のある綺麗な赤い角が欲しかった。
「私も早く赤い角が欲しいのです」
そう母に言うと、母は懐から小瓶を取り出した。赤い液体の入ったそれを指に取る。
「お舐めなさいな」
ぱくりと母の指をしゃぶると、なんとも言えない味がして顔を顰める。あまり美味しくないそれは、けれどふわふわと気分を高揚させた。
「お母様、これは何?」
「血よ。栄養がとてもあるの。毎日少ずつ摂れば、体に良いお薬になるわ」
沢山は駄目だけど、と母は毎日希代に薬を与えた。そうして暫く経つと、希代の額に角が生えた。
母は大層喜んで希代を沢山褒めてくれた。母の顔が美しく綻んで希代もとても嬉しかった。
それから希代はどんどん美しく育っていった。反対に姉の雪は小さいままだった。髪は乾燥して広がり体も細いままだった。
「まるで老婆のようね」
屋敷の隅に追いやられてから、あまり会うことは無くなっていた。それでも時折見かける姿は見るに堪えないものだった。
希代は自分が美しいことに誇りを持った。常に美しくあるために白粉を叩き紅を差す。美しい着物に袖を通して常に機嫌良く過ごした。
母の薬も変わらず摂った。あれを摂ると頬に赤みが差し肌に艶がでるのだ。気分が高揚するからか目が潤んで美しくなれる気がした。
そんな美しい希代の元には、殿方からの縁談が幾つも舞い込んだ。
けれど、そんな希代の素晴らしい人生に、姉が水を差す。姉より先に希代が嫁ぐのは外聞が悪いではないか。早速母と共に父に抗議した。父は姉を父の郷里に送ると約束してくれた。
ああ、これで煩わしい姉とも離れられると思うと、天にも昇るかのように嬉しかった。
「さようなら、お姉様。お元気で」
もう二度と会うこともないと思うと、清々した。
姉が出て行って数ヶ月後、屋敷が襲われた。
目の前で嫁入り仕度のために取り寄せた反物が、めらめらと燃えている。
「お気に入りの紅が!姿見がっ」
慌てて手に取れば、煤けて欠けて美しく無くなってしまっていた。
(また、買ってもらわなければ)
周りに人は見当たらない。希代は立ち上がると炎を除けながら歩いて行く。兎に角、誰かと出会わなければ。そうして歩くと見知った背中を見つけた。
「お父様。お助けくださいませ」
□□□
希代は父と共に山を歩いていた。何処に向かっているのかと問えば、父の郷里に向かっているのだと言う。
「もっと他に頼れる里は無いのですか?」
「無いな。この辺りは人里と近い。大分昔に皆山奥に移動し既に縁も切れている」
父の郷里は更に山奥だと聞き、希代はそんな所にいきたくないと言ったが、父は帰ると言い張った。
(いつも、何でも言うことを聞いてくれたのに!)
希代は、父がいつでも母に言い負かされて従っていた姿しか見てこなかった。だから自分の言うことも聞いて貰えると思っていた。
苛々、鬱々と気分が悪い。お腹も空いた。母の薬も、あの火事で無くなってしまった。希代は、希代を取り巻く全てが煩わしかった。
そんな時、希代の鼻に懐かしい匂いがした。母の薬の匂いに似たそれを嗅いだ瞬間、涎が溢れ体が震えた。慌てて匂いのする方へ走る。
「希代、そっちに行くな!」
父の声が聞こえたが、どうでも良かった。
今の希代にはアレが必要だった。アレさえあれば、こんな鬱々とした気分から解放される。
草を掻き分けて急斜を降りると、猪が罠に掛かって怪我をしていた。その血の匂を嗅いだ時、希代の意識はぶつんと切れた。
気付くと、父の顔が目の前にあった。
「お母様の薬が欲しい。血で出来てると言ってました。お父様、用意して下さいませ」
父へと伸ばした手は赤黒く汚れている。鼻を掠めたかすかな匂いに反応して、手の汚れをペロリと舐める。とても美味しい味がした。止まらなかった。
「希代、止めるんだ!」
嫌だ。腹が減ったのだ。もう何日も食べていない。薬だって摂っていない。何でも良いから口に含みたい。ガリガリと歯を立てれば痛みが走り、それが自分の手だと気付いたが、それでも止まらなかった。
□□□
意識がはっきりすると希代は檻の中にいた。喚くと父が来てくれた。希代は病気で、治療のためにこの中に居なければならないと言われた。
毎日薬湯を飲んで、ぼんやりと過ごした。父と一緒にいる美しい鬼は、父の従甥の朔夜だと紹介された。聞いたことのあるその名前は、姉の雪が嫁いだ相手だと分かった。
(こんなに美しい方に嫁いだなんて!)
自分は病気で檻の中にいるのに、何という差だ。
何としても病気を治して、姉より良い男に嫁がねばならない。でなければ自分の矜持が許さなかった。
けれど、毎日顔を合わせて世話をされ、希代は朔夜の美しさに魅入られていった。試しに父に嫁に行きたい、朔夜様に嫁がせてくれと願えば、病が治れば良いと約束してくれた。
「やはり、あの老婆のような姉など、美しい朔夜様には相応しくなかったのだ」
美しい私こそ、あの方に嫁ぐのに相応しい。希代は毎日薬湯を飲んだ。早く治して朔夜様の元へ嫁ぐのだ。
□□□
嬉しくて、何度も何度も泣いて青ざめた姉の顔を思い出す。
けれど姉は昔ほど醜くなかった。それが希代の癇に障った。衝動的に手に持った湯飲みを叩き割る。檻に手を掛け力一杯揺すって八つ当たりする。
「どうした、希代。何を荒れているんだ」
慌てて父が駆け寄ってきた。ここの所、朔夜を見かけないのも気に入らない。
「お父様、私はいつになったら出られるのです?早くお嫁に、朔夜様の元へお嫁に行きたいのです」
「落ち着くんだ、希代。体に障る。着物も汚れてしまったではないか」
「本当に、こんな姿では朔夜様に笑われてしまう。お父様、新しいお着物をとって下さいませ。それから紅と白粉も。櫛で髪を整えなければ。簪や髪紐も沢山用意して下さいませ」
姉よりも、誰よりも、綺麗に着飾らなければ。
だって自分は美しいのだから。





