隔世(2019j)
“長生きをする理由はない” これは、私の本音……
心が弱いから? しかし、これを否定する明確なモノがありません。ズルズルと惰性で生きていくだけです。
私の祖父母、両親は病院のベッドで息を引き取りました。近年、そこが人々の死に場所になっています。チューブを何本も身体に刺し、強い薬を投与され、意識が薄れても生き続ける友がいました。結局、骨と皮だけになり絶命します。その痩せた顔に、昔の面影はありません。病院のベッドでは死にたくない、と思います。
祖母と母の末期は、自分がどこの誰だかわからない状態でした。私のこともわかりません。親に赤の他人として対応されるのは寂しく、情けない、悔しく思います。できれば、自分が自分であるうちに人生を終えたいと願います。
生きることは苦難が付きまとい、大変なこと、です。それだけでなく、死ぬことも同様に苦しく厄介なこと……。決断できず、思い通りにいきません。これも、情けない。
そんなことをゴチャゴチャ考え、書き上げた作品です。暗めの導入部ですが、話は一変します。
●登場人物
■ケント(川島 健人)
◇ミルル
プロローグ
六〇を過ぎた……
自分なりに頑張ってきたつもりだが、大した結果は残せなかった。詰まらない人生だ。幾らかのお金はあるが、たかがしれている。独居老人に待っているのは寂しく惨めで単調な日々だ。長生きをする理由など、ない。
幸せな第二の人生を過ごすために、何をすべきなのか?
それを見つける能力があるのなら、これまでの人生はもっと豊かで楽しいものになっていたはずだ……
国際空港は人で溢れている。みんな楽しそうだ。
少々手間取ったが搭乗手続きを済ませた。既に国籍は移している。この後に起こるであろう雑多な問題を回避するためだ。後戻りはできない。立ち止まっていても仕方ない。突き進むだけだ……
一
意識が回復した。
ゆっくりと。
パニックを起こすことはない。この異様な状況を当然のことのように受け入れている自分がいた。
違和感、いや何も感じない……
感覚がない、というより、身体そのものがなかった。何もない真っ暗な闇の中をフワフワと宙に浮いているような気分だ。死後の世界はこうなのか、と思うと笑いがこみ上げてきた。しかし、それを表現する顔がない。
「ケント、とお呼びしてよいですか」
突然、そういわれた。相手は、男とも女ともいえない印象だ。それが声ではなく、思念伝達の類いであることを理解したのは、かなり後のことだった。
「もちろん……」
と川島健人は応えた。この人物に、何から尋ねようと考えを整理している間に向こうからの問い掛けがきた。
「覚えていることをお話しください」
「覚えていること?」
「ええ、こうなった経緯です」
「こうなった……」
ケントは記憶を探った。忘れたわけではないが、誰かに伝えるのは至難だと思う。どこから何を話せばいいのか。
「長生きをする気はなかった……。結婚もできなかった独身男です。両親も亡くなり、身寄りもない。ダラダラと生きても、いいことなんか一つもないでしょう。恵まれた人生とはいえませんが、それでも、それなりに楽しく生きてきた。ここで終わりにするのが無難だ、と思いました……」
「それで、人格の読み取りを行ったわけですか」
それが悪いことのように感じた。咄嗟に弁明めいた話をする。
「私の故郷も、厄介な国でして……。長生きをしなくてはならないと、皆が思い込んでいる……。イヤ、それが建前であることは誰もが理解しているのでしょう。しかし、それを正面切って打ち砕くと犯罪になってしまう。自殺しようと考えても、命を大切にと説得される。結局、ダラダラと生きるしかない。事故か、病魔に冒されるのを待つしかない……。どうしようかと考えあぐねていたとき見つけたのが、人格の読み取りでした」
相手の反応がない。ケントは話しを続けることを意味していると判断した。
「記憶を含む脳の機能、人格の全てを具に読み取る……。人権にも関わるその研究を行っていたのは、台頭する新興国の一つでした。日本のように国土が狭く、資源が乏しい。その穴埋めに彼らが国をあげて力を入れたのが先進科学技術の研究開発です。倫理上、問題のある分野へも国際的なルールを無視し、非難を浴びようとも積極的に取り組む。その成果の一つが人格の読み取り……。私は、そう理解しています」
ケントは相手の反応を待った。しかし、それがない。話しを続けることにする。
「ちょうど、試験的な運用を始めるために協力者を集っていました。人格を読み取り、そのデータを解析したのち保存する……。何のために、と思いますが、それは私には関係のないことです。私のようにその試験運用への参加を希望する人の考えは、人格の読み取りの際、脳に致命的なダメージが加わり命を落としてしまうことです。体よく、人生を終わらせようとする人たちが手を挙げ、運良く、私が選ばれました。保存した人格を復活させるという確約はありませんでしたが、これがソレになるのですか……」
ケントは話している間に気になったことを尋ねてみたが、答えはなかった。相手は沈黙を続けている。普通なら溜め息の一つも出るところだが、そうした感情を表すための身体がない。
「いろいろと面倒な手続きがありましたが、その国に渡ってからは手際よく処理されました。気付いたときには寝台に横たわっており、頭は異様な機械装置にスッポリと嵌まっています。辞世の句を発する暇もなく、装置が作動しました。私の記憶はそこで途切れています……。やはり、これは、私の人格が復活した、ということですか。ここは、未来なのですか」
「その推測に間違いはありません」
と返答がある。即座に大きな疑問が湧いた。
「何のために?」
二
鏡に映った見慣れぬ顔をマジマジと見る。
若々しく、ずっとハンサムだ。こんな容姿だったら、もっと恵まれた人生を歩むことができただろう……
提供された肉体は人工的に組成されたものだったが、見た目や感触は人のそれ、そのものだった。少なくとも、その肉体に人格を移されたケントは、そう感じていた。しかし、その体内は事情が違うようだ。臓器の多くは、もっと機能的な造りに改変されている。五感の鋭さも増していたが、生殖能力は取り除かれていた。役立たずだ。残念。
ケントは割り当てられた個室を出て通路を歩いた。
ここは提供された肉体に馴染むためのトレーニング施設だ。運動設備や器具が用意されており、ケントと同様に保存されていた何人かの人格が復活し、新しい身体に馴染むために日々訓練を続けている。最初は、物を掴んだり立ち上がることができなかったケントも、地道な努力の結果、日常生活に支障がない状態にまで身体を操れるようになっていた。
「ケント、待って」
背後からの声に、ケントは足を止め振り返った。スラリとした体形の美女、ミルルだ。
「食事に行くんでしょ?」
ケントはそれに頷いた。訓練をしている他の人格とは、普通に会話をしてコミュニケーションをしている。ただ、それは聴いたことのない言語だ。しかし、幼児期から慣れ親しんできた言葉のように意思疎通ができる。その知識は何らかの手段によって記憶に刷り込まれていた。
追いついたミルルと並んで歩く。
彼女の整った容姿から人種を推し量ることは難しい。全ての人種の特徴を混ぜ込み、良いところを取り出して仕上げたような印象がある。ただそれは、ケントを含めた復活した訓練者全員に当てはまることだった。当然、中身の人格がどの時代の、どこの出身なのか、それを知る術もない。
「一つ、収穫があるわ」
「食事をしながら聞くよ」
と応えた。ゆったりとした造りの食堂は目の前だ。既に何人かが食事をしている。この施設は、復活した人たちが暮らしていた時代に合わせて造られていた。もっともケントには、どれもが幾らか進んだ未来の設備だった。自分が最古参であることは確かだ。徹底した健康管理に基づき各個人に用意された馴染みのない食べ物をトレイに載せる。経験上、決して美味しそうには見えない代物だ。それを口へ運ぶのは一つの苦行だった。
「人類は地球に棲んでいないようね」
二人が空いていたテーブルに座るとミルルが話しを始める。
「じゃあ、どこに棲んでいるんだ?」
ケントは問い掛けてから食事を始める。二人がこのように顔を寄せて話しをする姿は珍しくなかった。復活組の中で彼女との相性が一番良いのは、おそらく、生まれ育った時代が近く実年齢も同じくらい、だからではないかとケントは思っていた。ただ、そう思っていても、過ぎ去った昔のことを話題にすることはない。それが、ここのルールだ。遠い過去の出来事を蒸し返しても仕方ない。そして仲の良い二人を茶化すような人物も、ここにはいない。気兼ねなく話せた。
「宇宙の星々に散らばっているのよ。総人口もそんなに多くない」
「この広々とした施設も、地球じゃないというのか」
「そうよ」
外の景色を望む窓が一つもないことから、その疑念は拭えなかった。
「これは地球に合わせた人工重力ということか」
「そうね。それぐらいの技術があっても、不思議じゃないわね」
そう言ってから彼女は何かの固まりを口に入れた。
長い眠りから目覚めた時、最初に語りかけてきたのは管理者と名乗る思念の集合体だった。コンピューターのような人工的な知能とは違うようだが、その実体については知ることができなかった。彼らは言語の知識を蘇った人格者の記憶へ刷り込んだのに、他の情報の刷り込みは行わなかった。この時代の社会情勢すら知らない。意図的に隠しているのだろう。都合の悪い理由があるのか、復活した古い時代の人格を混乱させないための配慮なのか……
「過去のある時代に、壊滅的な事態が起こり、人は棲めなくなった……」
「戦争か?」とケントが尋ねる。
「詳しくは聞けなかったわ。話したくないのね。人だけでなく、生物の多くが絶滅したそうよ」
「それで宇宙に逃れた……」ケントは唸った。
「今の地球はどうなっているんだ?」
「そこは、まだ聞けていないの。この話しを聞くまでに、とんでもない手間が掛かっているのよ」
「管理者の口は固い。ミルル、君は、立派だよ。感心するね。ご苦労様」
とケントは微笑み、食事を続ける。
とはいえ、管理者はミルルのような執拗な問い掛けを許容、容認していた。そうした好奇心や勉学心が生きる糧となる人もいる。一方でケントのように無駄な詮索を避け、そこにあるものをそのまま受け入れるような人物も認めている。イヤ、そうであって欲しいと願っていた。もしかすると、突然、人格が消去されるような事態があるかもしれない。その不安はあるものの、本来の人生を終えた人格にとって大した違いはない。ならば、新たな肉体を与えられた今を楽しむべきだ。そう思うが、何を楽しみにすればいいのか見当がつかなかった。
「問題は、我々の復活が、どこにどう絡むか、だな」
「そうね」とミルルが頷く。
「この施設の重力が地球環境に合わせてあるのなら、やはり、地球が絡んでくるのだろう」
「そうね……」
そう応えたミルルは、思案顔のまま食事を続けた。
誰かが、自分たちは選抜試験を受けている、と言っていたのを思い出す。長期に渡って保管されていた人格データを進んだ科学技術で再生させて適性をみる。そして目的に見合った人格に、人工的に造形した肉体を与え支障なく活動できるように訓練する。やがて、この中から目的を遂行する人材が選ばれ、不要となった人格は消去される……
そんなことのために人格を読み取り保管したわけではない、と腹立たしい声をあげる者もいたが、自分たちには支えとなる人権はなく、都合のよい道具として扱われても仕方ない、という考えもある。ケントはそちらに組みしており、既に諦めの境地にあった。この奇妙な状況を素直に受け入れるようにしている。
それでも、管理者の手の上で弄ばれている感じがする。何が目的なのか、誰が選ばれるのか。自分はこの先どうなるのか?
ケントは、間近にその答えを得られる気配を感じ取っていた。
三
ケントは、普段使うことのない部屋の一つに初めて入った。ソファーが置かれているだけの小部屋だ。
先にその部屋へ入ったミルルから微かな吐息が漏れる。二人でこの部屋に行くようにと指示され、特別な何かがあるのでは、と小さな期待を持っていたのだ。
「どうぞ、お座りください」管理者の声が響く。
「他に誰か来るのですか」
と尋ねながらケントは三人掛けソファーに腰を下ろした。
「いえ、お二人にお話しがあります」
ケントは動揺を抑えた。期待と不安が入り混じる。その表情を滲ませたミルルが身を寄せるようにしてケントの横に座った。
「現在の地球に人類が棲んでいないことはお話ししました。ケントも聞きましたね」
「ええ……」と頷く。余計な質問は控えた。
「現在の様子をお見せしましょう」
二人は驚く。当然、興味があった。
正面の壁が輝きだした。そこに軌道上から見た青い星が映る。広がる大海。沸き立つ雲。陸地も見えたが、どことなく違和感を覚えた。
「これが、地球……? 陸地が見慣れない形になっているように思います。大陸が移動するほど時が過ぎたということですか」
「いいえ。時間経過は、そんなに大きなものではありません。陸地の形状が変わったのも人類の愚かな行いが原因です」
「戦争、ですか。地形が変わるほどの破壊をした……」
「大量のチリが舞い上がり、星全体の表土を覆います。環境が激変し、負の連鎖によって大きな自然災害が続きました。それも地形が変わった要因です」
「………」
ケントは言葉をなくしていた。壁の映像は軌道上から降下し、地表の様子を映し出していた。緑が広がる。
「乱れた環境が落ち着くまでに一〇〇〇年の時間が掛かりました。その間に多くの生物が絶滅しましたが、生き延びた僅かな生き物は環境の安定とともに爆発的に繁殖します。突然変異による新種も沢山生まれました。それが現在の地球です」
「一〇〇〇年……」
少なくともその期間、眠っていたことになる。大絶滅が起こるような状況の中で人格情報が無事だったのか、と驚き、ケントは感心、感謝した。
「人類は、宇宙に逃げ延びた……」と呟く。
「逃げ延びた、というより、取り残されたと表現したほうがよいでしょう。当時、最大の宇宙施設は月面基地でしたが、地球から四日という近場ですので基地の運用には地球の支援を受けていました。空気、水、食糧、エネルギー……。地球からの支援が途切れると月面基地の人々は困窮します。地球に戻るための手段もありません。全滅です……」
「全滅……」
「火星にも小さな定住地がありました。地球からの距離があるため、当初から独力での運用を目指していました。従って地球との連絡が途絶した後も、何とか活動を続けます。それでも、生き延びるには大変な苦労がありました」
「生き延びたのは火星の定住者だけですか」
「はい。人類も自らの愚行によって絶滅の淵に追い込まれていましたが、辛うじて生き延びることができたのです」
人格情報がどうこうという次元ではない。人類そのものが消滅する危機だったのだ。よくぞ生き延びた、と身体が震えた。
「火星には、今も当時の定住地が保存、管理されています。私たちにとって再出発の地といえます」
ケントは、なるほどと頷いた。絶滅の危機を乗り越えた人々の子孫である彼らが、そうした過去の遺物を大切にするのは納得できることだ。おそらく、荒れ果てた地球にも降り立ち、人類繁栄の痕跡を探したりしたのだろう。そこで古い時代の人格情報を見つけたのだ。
「現在、地球に人は棲んでいません。だからといって、生誕の地を放棄したわけではありません。自らの手で破壊し、自然の力によって蘇った故郷と、この先どう関わるのが良いのか? 様々な意見があります……」
ケントはソファーの上で身じろぎをする。本題に入る予感があった。
「一つの試みとして、地球上に限定的な小規模定住地を設営するというプランを考えました。実際に住んでみて、現実の地球を具に観察、体感しようという計画です。しかし、これには問題があります」
「問題?」
「ええ、私たちは地球への定住に尻込みしてしまいます」
「尻込み……」
「地球を破壊したのは人類です。環境が再生したからといってノコノコ出掛けて行って住むことに気が咎めてしまう。それが根底にあるのは事実です。今更地球に降り立つ理由が見当たりません。そして私たちの身体にも要因があります」
「身体?」
「私たちは火星で生き延びた人々の子孫です。低重力環境に身体が適応しています。火星の三倍もの重力圏で暮らすのは考えただけで辛いことです。もちろん身体に手を加えるという対処法はありますが、そこまでして地球の自然環境の中で暮らす必要があるのか、誰もが疑問を持ちます。長続きしないのではないか、と懸念します」
ケントは唸り声をあげた。ただ、話としては理解できる。
「私たちに地球で暮らせ、というのね」
ミルルが先回りをして言った。
「はい」
と管理者が応える。ケントも話しの流れから推測していた。
「でも私、どちらかというとインドア派なの」
ミルルの表情から、これを拒んでいるわけではないことがわかる。単に事実を口にしたのだろう。それに、その点はケントも不安があった。
「地球に降りて野営するのか? 洞窟の中で暮らした経験はないな」と笑みを浮かべた。
「そこまで先祖返りをすることはありません」と管理者が言う。
「小規模ですが設備の整った居住施設を設営します。必要な物資は定期的に送り届けますし、作業ロボットも配置します。ここで暮らすのと変わりないでしょう」
「ここで訓練をしている人たちが、そこに移り住むことになるのね」
「そうなります。ただ、居住地点は地球各地に点在させて観察範囲を広げる計画です。各地点で暮らすのは男女ペアの最小単位を考えています」
「つまり……、ミルルと私がペアになるのか。地球に降りて二人だけで暮らす……」
ケントは、唖然とするミルルと顔を見合わせた。イヤではないが、気後れしてしまう。
「復活組の他の人たちは?」
「お二人には先遣隊になっていただきます。他の人たちも後に続き、別の地点で暮らすことになるでしょう」
「地球に降りて、二人っきりで何をするの?」
と困惑顔のミルルが問い掛ける。
「主に自然観察です。気象、風土。植物や動物の生息状況、その習性。時間経過によるそれらの変化など、実際に暮らして周辺で起きていることを観察、記録してください」
「そうした仕事の経験がないな……」
「難しいことではありません。地球で暮らすことが第一の目的です」
「長期の滞在になるのですか」
「はい」
どれくらいの期間? と尋ねる流れだが、ケントの口から出たのは別の言葉だった。
「土着しろ、ということですね」
「そうなりますね。定住、です。もちろん、強制ではありません」
「もし拒んだら、どうなるのかな? この肉体に移した人格を消去する、ということですか」
管理者は、ケントのその問い掛けには答えなかった。そうなるということだ。再び、唸る。彼らは住み慣れた場所を離れることなく、地球の所有権を主張することを考えているのかもしれない。復活した自分たちが都合の良い道具であることは間違いないのだ。ただ、その立場や状況を踏まえても、これを拒む理由は見当たらなかった。それに、本来の人生をとっくに終えているという事実が、大きな余裕を生んでいる。怖いものなど、ない。
「でも……、おもしろそうな話ですね」
ケントはそう言い、興味を表した。
エピローグ
長生きをするつもりはなかった。
それが、どうだ。地球に降り立ってから一〇〇年が経とうとしている。もはや、なぜ長生きを拒んでいたのか、その理由も思い出せない。
六本足の馬に乗ったケントは、深い森の中を進んでいた。人工表皮に覆われた六足歩行のロボットは、タフで悪路の踏破性能も高い。気の荒い動物に出くわしても、それを追い払う特殊機能がある。日課にしている周辺散策には欠かすことができない頼れる相棒だ。
何度も踏みしめてきた細い道を進み、森を抜け、砂浜に出た。大海が広がる。ケントは小高い砂山の上で馬の歩みを止めた。陽光が降り注ぎ、波音が広がる。頬を撫でる潮風も心地良い。人類の文明が滅んだ後の原生の世界だ。
今も若く、変わらぬ美貌のミルルも、たまには散策に出ればいいと思う。インドア派を自称する彼女が高台の居住施設を出ることは稀だった。彼女が不平を言いながらも、これまで地球で暮らしてきたのは、他に行くところがない、というただ一つの理由からだ。彼女は居住施設の中で人類の歴史を具に調べている。膨大な記録情報と向き合い、毎日コツコツと、根気よく……。元々、学者だったようだ。その学者先生が、どうして人格の読み取りを行ったのか? その事情についてケントが尋ねることはなかった。
六足馬の背から青く澄んだ空を仰ぎ見た。
その先には漆黒の宇宙が広がっている。
絶滅の危機を乗り越えて生き延びた少数の人の目は、果てしなく広がる宇宙に向いていた。壊滅的な打撃を受け、長い時間をかけて蘇った故郷の星への関心は薄い。それも進化なのだろう、とケントは思う。彼らにとって地球の重力は強すぎる。穏やかな暮らしは望めない。それは陸で暮らす人類が、再び海の中に戻らなかったことと同じだ。クジラやイルカとは違う。宇宙に散らばり適応した彼らが故郷の星に戻ることはないのだろう。蘇ったこの星で暮らすことができるのは、かつてこの地で暮らした記憶がある古い時代の人格だけだ。
ケントは、六足馬に砂浜を進むよう指示を出した。
取り替えの利く肉体があれば、気が遠くなるほど長く生きることもできる。人類の愚行により壊滅し、自然の力で蘇ったこの星がこの先どうなるのか。腰を据え、見届けるのも悪くないと思う。