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要望あれば長編で書くシリーズ

王弟閣下のお相手は肝っ玉男爵令嬢

作者: 福 萬作

お読み頂き有難うございます。

前半真面目だけど、後半軽いです。


「わたくしとの婚約を破棄なさりたいでしょう、シーザー・フォン・ヴァーミリオン王弟閣下」


 凜とした声が、広い室内に響き渡る。

 豪奢なソファーに座っているのは、鮮やかな菫色をした長い髪の美しい少女だ。白磁のような肌の上に乗っている垂れた瞳は輝く紫水晶のように眩く、花弁を思わせる赤い唇の右下にある黒子に目を奪われる。小柄でほっそりとした体付きだが、全身からは貴族の淑女らしい高貴なオーラを纏っていた。


「話が早くて助かる。だが、婚約()()だよ、エカテリーナ・アン・ラングドナ公爵令嬢」


 向かいのソファーに腰掛けるのは、星を散りばめたような黒い短髪と金色の瞳を持った、浅黒い肌の見目麗しい青年だ。長い脚を組み、背もたれに体を預けてリラックスしているようにも見えるが、王者のような風格は見る者を圧倒する佇まいをしていた。


 双方、一見穏やかに微笑んではいるが、瞳の奥は平穏とは程遠い。ぴりぴりと張り詰めた空気が、本当に婚約している者同士なのかと疑いたくなる。


 ヴァーミリオン王国でも十本の指に入る広大な土地と力を持つラングドナ公爵家の一人娘、エカテリーナ・アン・ラングドナは今年十七歳を迎えた社交界の花形だ。その姿は《天花の妖精(てんげのようせい)》と呼ばれる程美しく、愛らしい。性格は勤勉で実直、公爵令嬢だからと言って驕ること無く誰に対しても優しく平等を貫き、周りから慕われていた。 


「理由をお聞かせ頂いても?」

「僕が君をこの場に呼び出し、君が僕に問うてる時点で、答えは分かっているのだろう?」

 

 愉快そうに返された言葉に、エカテリーナの頬がぴくりと動く。

 

 ヴァーミリオン王国王弟シーザー・フォン・ヴァーミリオン。現国王ガルシア・バレル・ヴァーミリオンの実弟にあたり、現在は国王と王都を守る役目を担う守護軍の将軍位に着いている彼は、エカテリーナの婚約者だ。

 色めき立つ容姿とは裏腹に戦場では数々の功績を上げ、人々から《黒獅子》と呼ばれ、畏怖と尊敬の対象とされていた。家柄も血筋も良く、地位も名誉も欲しいまま。文武両道、頭脳明晰、容姿端麗と、神に愛されて生まれてきたような青年……なのだが、若い頃、それこそ少年と呼ばれる時代から女性関係に浮名が多く、派手な交友関係を続けており、《千の愛を持つ男》と言う浮名を持っていた。


 そんな彼と出会ったのは、エカテリーナがまだ十歳の頃だ。当時のエカテリーナは体が弱く、あまり家の外に出てはいけないと父であるラングドナ公爵に言われて、殆どを屋敷の敷地内で過ごしていた。

 その日はまるで昨日のことのように覚えている。庭のガゼボで本を読んでいた時だ。

『初めまして、麗しき妖精の姫君。君の愛らしさに惹かれてやってきた迷い子に、時間を預けてくれないか?』

そう声を掛けてきたのがシーザーだった。

 こんなに美しい男性は初めて見ると、彼の方こそ妖精ではないかと思った程だ。優しい微笑みに、エカテリーナは一目で彼に恋をした。父親と召使い以外の異性と関わったことのない奥手なエカテリーナに対しても紳士的かつ物語に出てくる王子様のように恭しく接してくれる彼に、幼いながらエカテリーナは一気に恋の炎を燃やした。 

 その後、父親からシーザーが婚約候補であると聞かされ、一も二も無く了承した次の日には婚約者になっていたのだから、父親の仕事の早さに今になって苦笑いを浮かべてしまう。

 父の許しを得て社交界に出て、彼の浮名を知ったときは落ち込みもしたが、自分は彼の公式の婚約者であるという思いがエカテリーナを強くした。シーザーも、『女性に関わるのは自分の性分であるから仕方が無いし、愛の女神アルマナに誓って一線は越えていない』と言うので、その言葉を信用していた。


 しかし、半年ほど前からシーザーとの距離が離れているような気がしたのはけして気のせいでは無かった。週に一度は必ずあった手紙や贈り物が二週に一度、三週に一度と段々と減り、今では月に一度あるか無いか。屋敷に訪れる回数も減り、来ても心ここにあらずで短時間で帰ってしまう。

 もしかして新たな恋人と本気になってしまったのではないかと社交界でそれとなく探ってみたが、誰それの寡婦と二人で居た、どこそこの令嬢とダンスをしていた、などこれまでと変わらない噂ばかりで、誰かに入れ込んでいるという話は一切ない。


 では、他の事が気掛かりなのだろうか。

 国内外では天災に見舞われて各地では人も土地も甚大な被害を及ぼしている。また、モンスターと呼ばれる獰猛な獣が増え、人や家畜を襲う被害も増えていた。後者は傭兵や冒険者に対応してもらえているところもあるが、それでも人手は足りていないようで、被害報告は後を絶たない。

 しかしそれらは今に始まったことでは無く、エカテリーナが生まれる前から起きていることで関係の無いように思える。


 そうなるとやはり、考えつくのは女性関係だ。

 もしかしたら社交界とは関係の無いところ、王族や貴族の範疇に留まらない可能性に行き着いた。人を使って探らせてみたが、そこはやはりヴァーミリオン王家に連なる者。なんの情報も得られないまま月日は過ぎ去り、来年には結婚を迎える頃になって、その頃には殆ど連絡が無くなっていたシーザーから王宮に呼び出された時、エカテリーナは来るべき時が来たのだと悟った。

 

「どなたか、想う女性が出来たのですね」

「その通りだ。やはり君は聡明で素晴らしい。淑女の鑑と言われているだけはある」


 予想が確信に変わった。恋に破れた、裏切られショックで一瞬頭が真っ白になった。だが、想定していたことだ。自分でも予想以上に早く立ち直り、シーザーの言葉を反芻してまるで取って付けたような褒め言葉に苛立ちを覚える。彼からからの言葉に嬉しくないと思う日が来るなんて、かつての恋する乙女だった自分には思わなかっただろう。


「まぁ……それは困りましたわね。わたくしとの婚約がどのような意味を為しているものだったかお忘れなのでしょうか?」


 自分とて由緒ある貴族の娘だ。ただ一方的にやられて終わらせるつもりは無い。


「勿論、覚えているさ」


一つ、と白い手袋に包まれた長い指を曲げる。


「近年多発している天災による各地の復興、それに伴う新たな農業政策。魔物の活性化による軍備の拡張。それらに掛かる費用を君の家から多額の援助をしてもらっている事」


二つ。


「現国王の息子と僕の各派閥を名乗る者達による後継者争いの抑制。僕は国王なんかになるつもりはさらさら無いし、常々そう宣言しているのだけどね。僕が臣籍降下し、王位継承権を放棄する旨を明らかにする事」


三つ。


「僕は現ヴァーミリオン王国国王の実弟。君は隣国ヤショダラ帝国の帝王の姪。力をつけつつある帝国との緊張状態を緩和し、両国の友好関係を高める事。この三つだ」


 答えに満足して頷く。そう、エカテリーナとシーザーの婚約には、国に利はあっても害は無い。


「その通りですわ。では、この婚姻がどれ程重要な事かお分かりでしょう?」

「ああ、確かに重要だ。しかし、()()な事では無い」


他者を魅了する微笑みを称えたまた事も無げに告げたシーザーの言葉に、エカテリーナの顔から笑みが消え、固まった。


「……どういう事でしょう?」 

「確かに国にとっては重要で為すべきことだ。だが、その役割を担うのは僕や君である必要がない」

「……仰っている意味がわかりません」


クスクス、と愉快そうにシーザーは笑った。


「分からないのでは無く、理解したくないの間違いでは? もう少し頭の良い子だと思っていたんだがね」


エカテリーナの顔が強張り、赤みが差す。細められた黄金の瞳は揶揄するように紫の瞳を見ていた。まるで獣に睨まれているようだ、と気圧されそうになりながら扇を持つ手に力を込め、勢いよく立ち上がる。


「お言葉を返すようですが、わたくしとの婚約によって諸々の援助が賄われているのでしょう。それが無くなって困るのは王家であり、国民です。また、帝国は血族を重んじる国。帝国王族の血を引くわたくしとの結婚することで起こるかもしれない戦争を回避することができるのです。貴方様はそれを分かってらっしゃないのですか? 国を不幸にしたいのですかっ?」


 語尾が強まった。常に微笑みを絶やさず、争いごとを好まないことから平和の象徴とも囁かれたエカテリーナの憤りは、国を思う父と自身の思いを馬鹿にされたからだ。淑女の姿を脱ぎ捨て、怒りを露わにしたエカテリーナに対し、今度はシーザーがすとんと表情を消す。その瞳は驚いたように丸くなっていた。

 僅かな沈黙。

 シーザーが顎に手をやり、何事か思案するように視線を逸らすが、すぐに戻ってくる。

 

「……驚いたな。それらは、ラングドナ公爵からそう言われていたのかい?」

「? はい、そうですが……」

「……成程。聡い君にしては、随分思い上がった考えをしていると思ったんだ。幼い頃からそう教えられてきたのであれば、仕方がないことだ」

「シーザー様? 一体何を仰られているのですか?」


 一人納得しているようだが、エカテリーナは何のことやらさっぱりわからない。シーザーは前髪をくしゃりと搔き上げ、困ったような溜め息を吐いて口を開いた。

 

「まず、資金援助の件だが。元々、国家予算で賄えているので、諸侯からの援助は殆ど必要としていない。資金援助はあくまで諸侯の自主的なものであり、援助の有無によって特別扱いなどしていないし、これからもするつもりも無い。財務省が各地の経済状況を把握し、無理の無い援助資金をこちらから提示しているので、それ以上の額を出すものなら内密に調査が入る」


寧ろわざわざ領民を苦しめてまで援助しようなどという愚か者には当主交代か領地剥奪をお勧めしている、とほの暗さを覚える微笑を浮かべる。


「君が生まれて間もなく、公爵の方から取り決め以上の額を出したいと申し出てきた。恐らくその頃には既に君を僕に宛がう打算を付けていたのだろうね。調査結果も特に怪しい所は無い。ならばと兄上も許可してしまった。まだ政権交代したばかりで詰めが甘かったのだ、これはまぁ仕方が無い。幾年かして、いい加減僕に身を固めてほしかった兄上は、公爵の婚約の申し出に渡りに船と乗り、殆ど独断で君と僕の婚約が決められた。簡単に言えば、婚約の話は()()()に過ぎないのだよ」


 次に。顔から血の気が退いていくエカテリーナの顔を真っ直ぐ見据えて話を移す。


「確かにヤショダラ帝国は血を重んじる。ヤショダラ帝国現帝王は君の母の弟に当たる人物だが、君の母は駆け落ち同然でラングドナ公爵と結婚をした。今はそのことはお許しになっているようだが……。はっきり言えば、一度は国を捨てた人間を、そこまで重んじるだろうか?」

「え……」


 何もかもが初耳だった。シーザーの言う通り、父からは『我が家からの多額の援助で王家は救われているに違いない。だから国王はお前と王弟閣下の結婚をすんなり認めてくださったのだ』と、褒められた子供のように言っていた。


 エカテリーナは知らないことだが、国への自主的な援助は、孤児や貧民への炊き出しと言った慈善活動のような貴族として当たり前の行為であり、それを表だって口にすることではない。当たり前過ぎて、ラングドナ公爵は今回の婚姻が特別扱いであると勘違いしてしまっていたのだ。


 追い打ちをかけるように、両親の結婚に関する秘密。両親からは『隣国で父と出会い、愛し合って結婚した』と仲睦まじい様子で語られてきた言葉の裏には、国家を揺るがしかねない事実が隠されていたのだ。言われてみれば、父母から隣国の話を殆ど聞いたことが無いし、行こうと言われたことも無い。あちらからの便りが無いことも、今更ながら疑問に思えてくる。


「そん、そんな……嘘です。わたくしと結婚したくないから、嘘偽りを申しているのでしょう……?」

「どうやらそのことも伏せられていたようだね。なんと哀れな子供だろうか、君は」


 鋭さを潜め、憐れむような色がシーザーの瞳に浮かぶ。その瞳に嘘偽りが無いことは、婚約者として共にしていた七年間で学んでいた。


がん、と頭を強く殴られたような気がした。へたり込むようにソファーに座る。


負けた。そもそも、勝負などできなかったのだ。用意されたカードは全て偽物だったのだから。

そうとは知らないとはいえ家族の言葉を鵜呑みにし、疑わなかった思い上がりも甚だしい自分が彼の隣に立てる訳もない。


だけど、シーザーを想う心に偽りは無かった。

テーブルに視線を落としたエカテリーナは、震える唇でシーザーに問い掛けた。


「……わたくしを、愛してはおられなかったのですか……?」

「エカテリーナ」


呼び掛けてくれた名前は、慈愛と優しさに満ち溢れていた。その声の暖かさに、歪む視界を愛しい婚約者に向ける。

ただ一言でいい、愛していた、という言葉を聞きたかった。


だが、現実は非常である。


「その点においては本当にすまなかったと思っている。正直に言えば僕は結婚に興味ないし、するにしても相手は誰でもよかった。だから独断で決められたとはいえ、面倒ないざこざに巻き込まれない内にさっさと婚約してしまおうと考えた。しかし、二十を越えた男の相手がまさか十歳になったばかり子供だったとは誰が思うだろうか? 世間では女好きとして通っているし、僕もそれを認めるが、流石に年端も行かない子供を愛せるわけもない。だが、幼い頃から美しかった君だ。大人になればさぞや美しくなり、僕もそれなりに愛せるだろうと考えた。だから婚約を受諾して、それなりの対応をしてきた。そしていずれはちゃんと結婚をしようとも思った」

 

 だが。


「成長していく君を見ても、女として見ることはできなかった。僕にとって君は妹のようで、家族に対する愛情しか生まれなかったんだ」


 悪びれた様子もなく、淡々と語られた言葉は、エカテリーナを絶望の底に落とした。まさか婚約者としてどころか女としても見られていなかったとは思わなかった。自分は精一杯、彼の妻になる努力をしていたと言うのに、彼にとっては小さな子供の背伸びにしか見えなかったというのだろうか。

恥ずかしさのあまり、全身が熱いのか寒いのかも分からないが体がぷるぷると震え出す。


「だから……わたくしが、子供だから婚約を破棄なさると言うのですか……?」

「確かにそれもある。が、それだけじゃない。年の差婚も()()()()()()()結婚も昨今では増えているし、僕自身年齢にも感情のない結婚にもこだわりは無い。いや、無かったんだ」


 シーザーの視線はエカテリーナを見ているのに、どこか遠くの、知らない誰かに想いを馳せるように表情を和らげれる。

 エカテリーナは、愛しい婚約者のそんな顔を見たことが無かった。蕩けるような甘い顔だが、それを向けられているのは自分であって自分ではない事実に見たくない、聞きたくないと思っても、耳を塞ぐ為の腕は鉛になったように重く、瞼も閉じることを忘れたかのように下りてこない。


 そんなエカテリーナにとって、断罪されるよりも重く苦しい言葉が降り注がれた。


「僕は、【真実の愛(アルマナの恵み)】を知ってしまったんだ」


 【真実の愛(アルマナの恵み)】。

 それはヴァーミリオン王国に伝わる聖典に記載された聖句だ。

 愛の女神アルマナより与えられた愛は何よりも尊く、男女がこの恵みにより結ばれれば幸せと繁栄がもたらされる。故に、ヴァーミリオン王国では恋愛結婚が重視され、例え身分差があろうとも【真実の愛(アルマナの恵み)】であると聖アルマナ教会の聖女の前で宣言すれば結婚が認められた。

 現に、現国王の正妃は平民の出であり、紆余曲折を経て結婚して二十年近く経つが今尚仲睦まじく、理想の夫婦像として国民から人気がある。

 勿論長い歴史の中には【真実の愛(アルマナの恵み)】を悪用する者もいたのだが、そんな彼らには子孫を残せなくなるという女神の罰が降ることになるのだった。


 聖句まで出されては、エカテリーナにほんの僅かな望みも存在しえかった。

 完全なる敗北である。

 それを認めても、ポロリと落ちる涙は止めることはできなかった。


「済まない、エカテリーナ。泣かせてしまったのは僕だが、その涙を拭うことも止めることも僕にはできないんだ」

「ええ、分かっています。分かっていますとも。これはわたくしの想いを流しているのです。止められては、貴方への想いをこの身に残してしまうことになるのですから、拭わなくて結構です。どうぞお気になさらず」


 ポロポロ、ポロポロと真珠のような涙が頬を伝っていく。シーザーは目を逸らさなかった。それが罪で有り、受けるべき罰であるかのように。


「シーザー様、一つ、お聞かせくださいませ」

「なんだい?」

「≪千の愛を持つ男≫と呼ばれた貴方の愛を射止めたのは、一体何処の何方様なのでしょうか?」

「……そうだね。君には知る権利はあるし、もしかしたら手掛かりを得られるかもしれない」


……手掛かり? 

不思議な単語を聞いて、はたっと首を傾げる。

そんなエカテリーナに気付かず、シーザーは瞼の裏に愛する者を思い浮かべているかのように目を瞑って天井を仰いだ。


「髪は多分こげ茶」


多分?


「瞳はよくわからないけど、恐らくブラウン系。だが、とても強い眼力の持ち主だった」


恐らく?? 強い眼力???


「年の頃は二十代前半。体付きはがっしりとしていたかな」


前半???? がっしり?????


「嵐の中でもよく響き渡る大きな声は歌うように高かった」


嵐の中でも響き渡る大声??????


「それから、子供を両脇に抱えても尚ありあまる俊敏さと腕力、体力を保持していた」


最早エカテリーナの想像の範疇を越えていた。頭上は疑問符だらけだ。

何やら曖昧かつ女性に対して失礼なワードが出てくるので、いつの間にやら涙も引っ込んでしまっている。


「……あの、閣下? その方のお名前や住んでいる場所などは……?」

「それが困ったことに、全く分からないのだよ」

「……は?」


あっさりとした物言いに、はしたなくも淑女の礼儀を忘れ、エカテリーナは間抜けな顔で口を開けた。

分からない。分からないと言ったか。

口にするだけで何かしらの影響があるという聖句を口にしたというのに、相手が何処の誰かも分からないと言ったのだろうか、この男は。

 

 シーザーが悩ましげな吐息を零し、芸が掛かったように組んだ手に額をつける。


「彼女に出会ったのは半年前。とある領地に視察に出た夜、嵐に見舞われた僕たちは山村の人々を避難させていた。しかし、視界は悪く、避難を呼び掛ける声もなかなか届かない。避難は遅々として進まず、焦り始めたそ時に彼女が現れた。嵐などものともしない声で人々に呼び掛け、俊敏に動いて人々に場所を示し、転んで泥だらけになってもすぐに立ち上がり、怯えて泣く子供たちを両脇に抱えたかと思えば、動けなくなった年寄りを背負っていた。人々が全員無事だったのは彼女のお陰といっても過言ではない。僕は最後に残った彼女に声を掛けた。君も避難しろ、と。だが、彼女は言った。一字一句覚えている。『まだ避難出来ない人が居るかもしれない。一度村に戻る。あんたは土地勘無いようだからここは私に任せて、さっさと避難しろ』とね」


 女とは思えない口調だ。いや、その前にその話が本当なら、本当に人間だったのだろうか、その人物は?


「勿論僕は止めたが、彼女は僕の腕からするりと逃げ出してしまった。あの腕を掴めなかったことは今でも後悔している。嵐が止んでも彼女は戻ってこず心配していたが、どうやら僕の知らない間に戻ってきて、嵐が止んだ後迎えの者に連れられて早々に立ち去ってしまっていたらしい。村人に聞いても彼女のことを知っている者は居なかった。ただ、彼女の迎えの者が、彼女のことを『お嬢様』と呼んでいたという。つまり、彼女は良家の人間であることが判明したんだ」

「えーと。あの、閣下?」

「ああ、愛しい人。君は一体どこにいるのだろうか? これが女神の思し召しであるのなら、もう一度彼女に会える筈。しかし、彼女に会えない時間が存在するというだけで胸が締め付けられるように苦しい。これは妹のように可愛がっていたエカテリーナを苦しめた罰なのだろうか?」

「え? ああ、そうかもしれませんね。私も似たような時間がありましたし」

「そうならば、僕は君に誠心誠意謝罪しよう。そうすることで、いつかは女神の怒りが解ける時が来るかも知れない。彼女に会い、結ばれる為なら僕は七難八苦を受け入れよう。どうか、女神アルマナよ。僕に救いを与え給え」


 半ば投げやりなエカテリーナの言葉にも、シーザーは淀みなく真摯に受け止めて天を仰いでいる。

 エカテリーナの知っているシーザーは、理知的かつ現実的な思考の持ち主で、いつも余裕綽々な甘いマスクで人を誑かす色男だった。それが目の前いるのは恋の苦しみに酔っている詩人のようで……正直、芝居ががったそれらに幻滅した。


 恋に堕ちた人物が、こうも恐ろしく、気持ち悪いものなのか。

 

 なんだか、百年の恋も冷めたような気分だった。


 人間なのかも分からない相手に、エカテリーナは酷く同情して、女神アルマナに名前と知らない彼女の幸せを祈った。


※※※※※※※※※※


「ぶえーくしょおーい!! あ"ー……」


 寒風を身に受けた途端、揺れた焦げ茶の髪が鼻を擽り、ドロシー・グリエッタは口元も声も押さえることなく盛大なくしゃみを放った。


「グリエッタ一の健康優良児として名を馳せている私が、鼻を擽られたとは言えくしゃみをするとは……天変地異の前触れだろうか」


 ぐしぐしとむず痒い鼻を擦りつつ、天を仰ぐ。赤茶色の瞳は晴れ渡る青い空を映し出すと同時に、木々の紅葉の終わりを告げていた。寒さは感じるが寒気はない。というか、生まれてこの方風邪一つ引いたこともないので元々病気の類を疑ってはいなかったが。


 ヴァーミリオン王国最北端に位置するグリエッタ領には、他の領地よりも一足早い冬が訪れていた。


 王国で最も小さな領土を所有するグリエッタ領は、夏は涼しく過ごしやすいが、冬ともなれば雪に包まれる厳しい環境下に置かれる。寒さの訪れは早く、暖かい次期は短く。故に実入りは小さく、領主であるグリエッタ男爵家も自分達の生活に追われる、自他共に認める貧乏男爵生活を送っていた。


 ドロシーはそんな家の長女であり跡取り娘であるのだが、先述の通り貧乏男爵家の収入は皆無に等しい。そこでドロシーは、冬はベッドの住人になる病弱な父と、父の世話をする口煩い義母、義母の連れ子である美しい義妹と賢い義弟、そして少動物系メイドの五人を養う為に家を飛び出して冒険者ギルドに名を連ね、依頼によって生活費を稼ぐ暮らしを十代前半の頃から続けていた。


 そんな生活を送っていれば、貧弱な体は服の上からでもわかるほどしなやかな筋肉がつき。

 焦げ茶の髪は短く切られて、格好も合わせてぱっと見男のようで。

 年齢は婚期をとっくに逃した二十代を迎え。

 女だからと世間に舐められても貴族に思われてもいけないと平民の所作を覚えたら令嬢らしさはすっかり抜け落ち柄は悪くなり。

 最早社交会に戻ることなど不可能なまでに、立派な冒険者に陥っていた。


 そんな彼女の人生目標は、義妹弟を立派な貴族として育て上げ、貧乏男爵家の援助をしてくれる心優しい伴侶を見つけてもらうこと。自身の幸せなどは二の次である。


 春から秋にかけて請けまくった依頼で溜めた金銭を持って、自領への帰路を歩く。申し訳程度に舗装された凸凹道は他領に通じる大街道に繋がっているのだが、人の通りが殆どないことを示している。


 昔の王家はそんなグリエッタ領を憐れんでか、普通よりも多分に少ない税収を提示してくれていたお陰でなんとか現在も王国の領地として存在している。が、正直、あっても無くても困らないであろうことは明らかだ。 


 では何故国に没収されていないのかと言えば、グリエッタ領は寒さの恩恵かモンスターも殆どおらず、王都に耳に入れるような大事はここ数十年……否、恐らく百年単位で起きていない。根が真面目な家系なので、どんなに生活が苦しくても国に税を納める実直さも持ち合わせているので、調査の手が及ぶこともない。


 つまり、何もなさ過ぎて王家からその存在を忘れている可能性が非常に高いのである。


 故に、人々……グリエッタ領や近隣領に住む人々は、グリエッタ領のことをこう呼ぶ。


 【忘れられた領地】、と。


 だが、ドロシーはそんな故郷が嫌いではない。

 過酷な環境下とはいえ、暮らす人々は慣れたものでみな強く逞しいし、助け合いの精神に溢れた温かい心の持ち主だ。

 貴族たちのように見栄や意地を張り、腹の中を探り合い、他者を蹴落とそうとする醜い争いを巻き起こす輩など関わりたくない。

 まるで王国の中にある独立した国のように、自由気儘に生きることの出来るグリエッタを心から愛していた。


 きっとこれからもご先祖様たちと同じく社交会に関わらないで生きていくのだろうと、無意識に思っていたドロシーの実家に、王家からパーティーの招待状が届いているのを、彼女は知らない。


 貧乏男爵令嬢であったドロシーが、王弟閣下に望まれるのはもう少し先の話。

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