第4話 レオパルド・ローネイン4
帝都ティリアス。
政争が日々行われている六芒宮から遠く離れた第7庁舎東別館は、見るからに古めかしく、言ってしまえばボロい外見をした庁舎であった。
兵部省戦務部第四戦史課、そこがレオパルドの平時の職場であった。
床はギシギシと軋み、床材は所々剥がれているところも見受けられる。
レオパルドは後で直しておこう、と剥がれかけの床の位置を記憶しておき、第四戦史課の表札を一見すると、入室した。
「おはようございます課長」
「ん、はよぅ」
レオパルドの上司にあたる課長と挨拶を交わし、自身の席につく。窓際の席で日差しが気持ち良かったり、邪魔臭かったりする席であった。
珍しく朝からいる課長は、白髪混じりの無精髭を擦りながら、新聞眺めている。曰く騎兵将校あがりらしいのだが、その風格を一切見たことがなかった。レオパルドは上席のハンコがほしいときくらいしか話すことはなかった。
妙に早くからいる課長。察するに朝まで酒を飲んで、家に帰るに帰れず、こっぱやく戦史課に居座っていたのだろう。
「おはようございます!課長、主査」
「おはよう」
「……ぐっ」
辺鄙も辺鄙な第四戦史課の一室に元気な声が響く。課長は頭に響いたのか、力強く目を瞑り、頭痛を耐えるような仕草をとり、レオパルドは見向きもせず、とりあえずお座なりに挨拶を返した。
戦史、主には軍事史と呼称されるそれは、軍事に関する歴史を歴史学的に取り扱う。
その領域は戦争史、作戦・戦闘史、軍事技術史、戦略史、戦術史、軍制史、地域史など様々である。軍事史の意義は経験科学である軍事学にとって非常に重大なものであり、軍事戦略、戦術や戦闘技術、軍事技術や軍事制度などには全て歴史的な背景があって然るべきものである、というのがレオパルドの戦史に対する考え方であった。
第四戦史課という名の通り、戦史課は4つあり、第一・第二課は帝国戦史を主に取り扱い、第三課は帝国戦史に限らず、全般的な戦史を範疇としていた。
では、第四課はというと……。
「主査!のりが切れました!」
「……報告せずとも、在庫があるだろうに。そこからとってくれていい」
レオパルドは厚紙にのりをつけては、ボロボロもボロボロな古紙を丁寧に張り付けた。その厚紙を束ねておき、空けておいた穴に黒紐を通し、きつく縛る。
「ようやくケーズ戦史行書が終わった」
次だ次と余韻に浸ることなく、腕をまくり、机から離れると水の貯まった平たい桶に文書を浸す。
古紙に汚れがこびりついたり、古紙同士がくっついたりした場合、単純に水に浸してやり、ゆっくりとそれを剥がしてやる。古紙はわりかし丈夫なもので、数百年経っていようか、状態が良く、乱暴に扱いさえしなければ、水に浸したとて破けたりはしないし、文字が消えるということもない。
汚れを取り除き、古紙同士でくっついている箇所を剥がしにかかる。古紙同士を剥がす作業は水に古紙を浸したまま行う。
「主査、7050から7100までの記録はどちらにありましょう」
「あ~、記録台帳を見てくれ。そこに保管場所も記載されているはずだ」
作業をしつつ、レオパルドはそう指示を出す。されど、意識は文書に集中し、破かぬよう慎重に。
「はい。確認したのですが、見当たらなくて」
レオパルドよりも若いその職員は、言われたことはちゃんとやれるのだが、それ以上はできなかった。まだ、若いから仕方ないのだ、とレオパルドは言い聞かせる。
「それならば、どっかの誰かさんが借りていったのかもしれん。貸出帳簿を確認しなさい」
ああ、と声を溢す職員は礼のために頭を下げ、そそくさと帳簿の確認へと向かった。
「主査!のりがありません」
「在庫棚から取れと言っているだろうに」
「届きません!」
「台座!」
「ありません!」
間髪入れず、元気な声で返答され、悪気はないのだろうが、レオパルドからしてみればひどく癇に障った。
古紙を剥がす作業から手を引き、適当な布で手を拭くと、声の主の元へ。
「アンナ、君に記憶力があるのであれば問いたいのだが、良いかね」
「はい、主査!」
アンナと呼ばれた小さな、少女と言っても差し支えなさそうな女性は、本物の軍人であるレオパルドからしてみれば、ひどく下手くそな敬礼を披露して返事をする。
「1ヶ月くらい前にも、同じやり取りをしていたと記憶しているのだが?」
「はい、以前も私が届かない位置にのりがあり、主査のお手を煩わせたかと」
「なるほど、記憶は確かなようだが、それならその続きも覚えているな」
「はい、それなら低い場所に置いておけと主査からご指摘を受けました」
「……ならば、なぜに高い位置にのりの在庫が?」
「忘れてました!」
「……今スラスラと1ヶ月前のことを答えられているのにか?」
「はい!忘れてました!」
悪びれることなくハキハキと答えるアンナに、こめかみの辺りの引くつきを感じるレオパルドは、怒りをため息に変えて吐き出した。
「はぁ、記憶がいいのか、悪いのか」
「えへへ」
何を勘違いしたのか、アンナは頬をポリポリと掻くと笑みをこぼした。
「……」
とやかく言うことに体力を奪われては敵わん、とレオパルドはのりの在庫が入った箱を下ろした。
「ありがとうございます!」
本当に嬉しそうにニコニコと笑顔を振り撒くアンナに、レオパルドは毒気を抜かれ、先程とは別のため息を吐く。
「今後このようなことがないように、ここに置いておくぞ」
身長が足りていないアンナでも取り出せるよう、一番下の棚に置き場所を変更し、その位置をしっかり確認させたところで、第四課の職員がぞろぞろと部屋から出ていくのを感じ、昼飯時であることをレオパルドは察した。
レオパルド・ローネイン、兵部省戦務部第四戦史課主査。
主な職務内容は戦史関係の書物の保管・管理、その他雑務である。
「1日の活力は食事から!食事は大事ですからね!」
「半日過ぎているがな」
「……あはは」
間違いではないのだが、しっくり来ないのは確かであった。
レオパルドは、静かにゆったりと昼休憩を過ごすのを最上としていたが、その最上の時間を過ごせる確率は五分五分だった。
アンナが付きまとうこと多数、おしゃべり好きな彼女が付きまとっては、当然最上の時間など夢のまた夢である。
今日は第四戦史課の気弱な新人職員のマルクもついてきた。おしゃべりが過ぎるアンナと二人っきりなど、なるべく避けたいレオパルドはマルクを誘った。
マルクとしては、厳格な性格ながらも頼りになる尊敬できる上司から誘われれば、一も二もなく付いて行った。アンナのことは苦手にしていたが……。
いつもの店につくと近場の席につき、店員を呼ぶ。
「サンドイッチと何か汁物がほしいのだが?」
「グリーシュなんていかが?」
牛肉、ラード、パプリカ、玉ねぎなどから作られる料理で、一般家庭でもよく食べられている。軍隊でも兵站がしっかりと確保できていれば、出されることもある馴染みのある料理だ。
「それで」
「あ、私も」
「私はそれにキルシュもつけて下さい」
「昼間からよく食べるな」
呆れを感じてそう溢す。マルクも同意見なのか頭を縦に振った。
「キルシュは別物ですし、お昼はよく食べないと」
「朝昼晩関係なしに食べてるだろ」
食べない女性より食べる女性の方が好ましく思うのだが、食い意地が張り過ぎなのは別である。そして、食べ方が汚い。
「……実家はひどければ、水みたいな粥ばっか食べてた頃もあったので……食べれる時に食べないと精神が働いてしまって」
たははは、と照れくさそうな、申し訳なさそうな笑みを浮かべるアンナ。
「……すまん」
「あ、いや、えあ、うぇぇっ!」
無遠慮だったかと、軽くでも頭を下げるレオパルドに、アンナは慌てふためき、意味もなく手をあれやこれやとばたつかせた。
実を言うと、レオパルドとアンナは多少の縁があった。彼女、アンナの実家は北ノードル、元はローネイン家の領土であり、レオパルドが継いだ後は、ダルトン家の直轄領となっていた。
とは言え、本領から飛び地として位置する北ノードルは、代官をたてての領地経営となった。その代官の上には、表向きはゲオルグが統治者として存在していたが、実際はレオパルドが最終的な領地経営を行っていた。
無論、まだ若く領地経営の初歩も知らず、また幼年士官学校にも通い始めた頃でもあった。慣れないこと尽くしで、領地経営の大半を代官らに任せきりだった。養父から推薦された代官を信頼してのことだったが、それが誤りであった。
代官はレオパルドを騙し、税金を横領していた。それと合わせて、あろうことか大胆にも過分に税を徴収もしていた。
それにレオパルドは気付かなかった。知識が無さすぎたのもあったが、あまり関心を寄せていなかったので、最終的な確認もお座なりだった。
結局その不正を突き止めるに至ったのは、アンナの父親のおかげであった。アンナの父、フランクは領主が代わり、何かと理由をつけては税金を徴収していった状況を怪しみ、記録を密かに残し、それをレオパルドに告発しようとし、失敗した。寸前で代官にバレたのだ。
しかしながら、元より怪しんでいたゲオルグによって、フランクの身柄までは確保できなかったが、その記録を入手できたことにより、代官の不正が暴かれた。
不正の発覚は、フランクの功績によるものが多かった。代官によって痛め付けられたフランクは、右半身の麻痺が著しく、農作業が出来うる状態ではなくなったものの、不正の発覚に一役買ったフランクの家には、その功績から褒賞金と5年間の免税措置が与えられた。
第一の働き手であるフランクを失いつつも、とりあえずは事なきを得たのだが、それも長くは続かなかったのだ。
「俺の不始末であったのに……不躾だった」
「いえ、そんな、ほんと、わ、私こそすみません。よく、皆に言われるんです。場を弁えないというか、場を白けさせるというか……はい」
しゅんとしてしまい、いつもの溌剌さはなりを潜めてしまった。
「いや、君は……父君に似たのだ」
一度言い淀むも、レオパルドは続けた。
「父君、フランクもそうであった。そうでなくてはあの不正は明るみにはならなかっただろう」
半ば暗黙の了解になりかけていたであろうことに、フランクは自らを省みず、危険に飛び込んだ。ひどい言い方をすれば正しく彼は弁えなかったのだ。
「アンナ、君のそれは美徳なんだ。時には過ぎたことを言ってしまうかもしれないが、口にしない者より幾倍も良いことだ。悪しきことに対して皆が考えた気だけになって、それを是と唱える時に、声をあげられるような人間になってほしいものだ」
レオパルドがアンナに関して言い終えると、それを狙ったかのように料理が運ばれてきた。
「まあ、いただくことしよう」
盛られたサンドイッチを手に取り、口に運びかけるが、微動だにしないアンナとマルクを訝しみ、食事の手を止めた。
「……なんだ?」
「あ、いや」
「まあ、その、鉄面皮どころか『巡る血潮は潤滑油』とさえ言われた主査も、なんというか、自分で言うのもおこがましいですけど、人を褒めるんですね」
言い淀むマルクの代わりに、そんなことを言うアンナを見て、サンドイッチに挟まれたレタスが落ちかけている事実に気付かぬまま、ポカーンとした。とりあえず、サンドイッチは皿に戻した。
「……私は短期間だが、教育武官として士官候補生に教えたこともある。恩師からは、『手本をみせて、実際にやらせて、その途中途中、言って聞かせて、結果如何によらず褒めてやらねば、人は動かぬ』と教えられた。それを実践したに過ぎん」
時間がないぞ、食え食えと恥ずかしさをごまかすためにも、サンドイッチを再度口に運んでいく。
幾ばくかの間を置くとアンナとマルクは顔を見合せ、レオパルドから見て大分変な笑みだった。