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狭間の世界より  作者: 益次郎
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第九話

 その日は朝から雨が降っていた。

 気のせいなのだろうが、体をすり抜けていく雨粒がくすぐったく感じるのも奇妙な感覚だ。いっそのこと濡れても構わないから全ての雨粒を体に受け止めてやりたいとも思ってしまう。

 色とりどりの傘の群れの中を私は歩いた。

 あの日から何日経っただろう。

 トムの言う通り、いつの間にか日数を数えることを止めてしまっていた。

 明るくなって暗くなる――いや、暗くなって明るくなるのか。眠らなければ、一日の始まりがどっちなのか分からなくなってしまう。眠ることで一日がリセットされるのだろうが、私にはそれがない。それがないから、始まりが分からなくなり、日数を数えるのがどうでもよくなってしまうのだ。

 まさにトムの言う通りだった。

 日にちを数えることが馬鹿馬鹿しくなってくる――トムの言葉だ。私はその言葉を早くも実感していた。

 そのトムとはここしばらく会っていない。

 彼がマッチ棒のような男を殴った日を最後に姿を見せていない。

 黄色い車を探す女と向こうの世界の女につきまとう男を見かけることはあっても、トムの姿が見ていない。

 私はそれでよかった。

 痛みを感じないからと、他人を突然殴りつけるような楽しみの男とはあまり親しくできそうにもない。ここのことを教えてくれるのはありがたいのだが、それ以上にあの男が不気味だった。あの黄色い歯を見せる笑い方と馴れ馴れしさがどうにも好きになれそうにないのだ。

 かといってあの日以来、誰かと会話できたわけではなかった。

 白いスーツに気まぐれに話しかけてもみるのだが、やはり誰も反応しない。よくよく見れば、私のように他人に話しかける者も見かけないから、私もトムと同様におかしな奴だと思われているのかもしれない。

 それに、これだけウロウロと歩いていても、新人らしい白いコートを見かけることもなかった。

 私と同時期にここへ来たものならば、共感できることも多いだろうと思うのだが、目の前の世界に戸惑っている者に出会えていない。

 数日歩いたことで改めて気付いたのだが、こっちの世界は向こうの世界と違って極端に人数が少ない。掃いて捨てるほどヒトのいる向こうと違って、こちらでは下手をすれば白いコートを見かけない日もある。

 もしこちらが死者の世界ならば、もっと白で溢れていることだろう。あちらの世界では一必ずといっていいほど誰かが死ぬ。様々な事象で一遍に何十何百とヒトが死ぬことがあったならば、こちら側にどっと白いコートが流れ込んできてもおかしくない。そうならないということは、きっとここは死者の集う世界ではないのだろう。

 生者の世界が向こうの世界ならば死者の世界はきっと私の見えない世界にあるのかもしれない。

 私は立ち止まり振り返った。

 どこかで私のことを死者が見ている様な気がした。

 今、私が向こうの世界を見ているように、私の見えない世界からこちらを見ているのだ。

 やはりトムの言う通り、ここは生者と死者の世界の間にある世界――「狭間の世界」ということだろうか。

 だとすると。

 私はラインの上に立っているのか。

 左と右、どっちに落ちるかで目の前にある生者の世界に行けるか死者の世界に落ちるのかを決めるラインの上に。

 出口はそこにあるのかもしれない――。 

 歩きながらそんなことを考えていた。

 あの黒髪の女の言うような「楽しみ」を見つけることよりも、如何にしてここから出るか、そちらの方が私にとって優先すべきことだ。

 トムのように長時間ここに縛られるのは御免だ。

 見上げると『有馬医院』の看板から雨水が滴り落ちている。

 ――またここだ。

 この場所になんの意味があるのだ。

 気が付くと決まって私はこの場所にいる。自分から進んでこの場所に来るわけでもないのに、自然と足がここに連れてくる。一日に一度はここへ来ている様な気がした。

 来たからといって、これといってなにかが起こることもなかった。いつものように白い壁の建物が私の目の前にそびえ立ち、これ見よがしに看板を視界の中に突き付けてくるだけだ。

 そういえば。

 トムはこの病院のことを言っていなかったか。

 この建物の上の方を見て「あいつには近づかない方がいい」とかなんとか。「狂う」とか言っていたような気もする。

 思えば何度もこの病院の前に来ているというのに中に入ったことはなかった。壁だろうが鍵のかかったドアだろうが、私に入れない場所はない。こんな体だ。そんな場所もすり抜けられる。

 なのに、この建物には入ったことがないのだ。何度も来ているのに。何度も看板を見て気になっているのに、だ。

 ――トムにあんなことを言われたからか?

 いや、違う。

 逆だ。

 トムがあんなことを言っていたことを覚えていたなら逆に興味を持つはずだ。単に忘れていただけだ。

 いや。

 気にしない様に心掛けていただけか。

 なぜかは分からない。

 自然と私の意識がそうさせていただけか。

 なんのために?

「知ったことか」

 私は一人で吐き捨てた。

 考えることはここでは意味を為さない。

 答えがないからだ。

 どれだけ考えたところで誰かが答えを教えてくれるわけではない。答えのような形をしたものがそこにあるだけだ。

 一歩足を踏み出した。

 有馬医院の入り口には診察中の札が下げてある。自動ドアのガラスの向こうにはヒトの影がいくつも見えた。

 なにがあるか見に行ってみよう。どうせやることはないのだ。

 そこになにがあるのか。

 狂ったというそれを見に行ってみよう――。

 

 

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