第八話
「さて――」
トムは立ち止まり、得意げに私の方へ体を向けた。
車の往来の激しい場所を抜け、私たちは住宅街へと入っていた。ブロック塀と同じような四角い家が立ち並び、まるで迷路のようだ。人気も少なく、時々昼寝をしている庭先の飼い犬が耳を立ち上げてこちらを見た。私たちの存在に気付いたか。そこになにかがいる、と。
「ひとつ面白いものを見せてやろう」
そう言うと、トムは道の先を指さした。
その先にはひとりの白いコートの男が立っていた。背が高く体が細い。手足が長く、姿勢よく背筋を伸ばした姿は、まるでマッチ棒を立てているようだ。
「見てろ」
トムはそう言うと、つかつかとそのマッチ棒のような男の方に向かって歩いていった。マッチ棒はこちらに背を向けて歩き始めている。その歩幅よりも短いサイクルでトムは彼を追った。脚の長さに差があるのか、マッチ棒がゆっくりと歩いているのに対し、トムは小走りにならないと追いつかなくなっていた。
――知り合いなのか。
なにをするのだろうとトムの背中を眺めていると。
それは突然だった。
なにを思ったのか、トムがマッチ棒の肩に手をやり、彼がはたと足を止めて振り向いた瞬間、右の拳で相手の頬を殴りつけたのだ。
「あっ」
驚いて思わず声を出してしまった。
不意を突かれたマッチ棒は当然、もんどりうってその場に倒れこんでしまった。トムは唖然とする私の方へ笑顔を見せている。子供がお気に入りのおもちゃを買ってもらったかのような満面の笑みだ。
――なにを考えてるんだ。
相手はトムよりも頭二つ分ほど大きい。喧嘩の腕前は知らないが、いきなり殴られれば揉めるのは目に見えている。相手だって殴られて黙ってはいないはずだ。私は慌ててトムの方へ駆け寄った。
「なにを考えてるんだ」
「見ての通りさ」
「それがなんなんだと言ってるんだよ。おい、大丈夫かあんた――」
私は倒れているマッチ棒に声を掛けた。トムはニヤニヤと笑っているが、もし反撃しようと構えられたなら止めなければならない。完全にこちらに非があるのだから謝るのは当然だ。
「いきなりすまない。悪気はないんだ」
慌てる私をよそに、マッチ棒は顔色一つ変えずすくっと立ちあがったかと思うと、トムの方を一瞥することもなく、何事もなかったかのようにそのまま歩きだしてしまった。殴られた頬は腫れもしていないし、あれだけ派手に転んだというのに血も流れてはいなかった。
「おい、ちょっと――」
「いいから。放っておけよ」
トムの方は全く悪びれた素振りも見せない。なんだか腹が立ってきた。この男のために頭まで下げたというのにだ。
「あんた、どういうつもりだ。いきなり他人を殴るなんてどうかしてる。もし、彼が怒って殴り返してきたらどうするんだ」
憮然とする私を見ても、トムは腕を組んで笑っていた。
「あいつが俺を殴ろうとしたか?」
「たまたまそういう男だっただけだろ。もしあれが――」
「もういいよ。大丈夫だって」
「大丈夫って――なぜ分かるんだよ」
「ここに来たばかりなのに随分あちらさんの感覚が染みついてるんだなお前さんは。感じないんだよ。痛みを」
「感じない?」
「そう。俺たちは痛みを感じない。あいつにとっちゃ俺の拳なんて風が吹いたくらいの感覚なんだよ。いや、感覚が無いんだからそれすらも感じないか」
「でも倒れたじゃないか」
「まあな。勢い余ってってやつだ。でも、殴られた頬も倒れて地面に打ちつけた体もなんともないんだよ。俺が勢いよくぶつかってしまったんだ、くらいの感覚さ」
いくらなんでも都合が良すぎる介錯だ。
痛みを感じないからといってあんなことされれば、普通は腹が立つはずだ。こんな憎たらしい小男ならなおさらだろう。しかし、マッチ棒男は確かに何事もなかったような様子だった。
私が話しかけても誰も相手にしてくれなかったように、殴られようが蹴られようが接触されても相手にしないのがこの世界の住人なのだろうか。
「よく覚えときな。ここの連中は、無駄に他人と触れあうのを嫌がる。いや、嫌がるというか触れ合いを避けると言った方がいいかな。だからなにをされても顔色一つ変えやしない。まあ、個人差はあるがな」
「私やあんたが特殊ってことか」
「まあな。俺はあいつがなにをされても無反応なのは知ってんだよ。これだけ毎日歩いてたら顔も覚えるもんさ。だから通りで見かけたときは、ああやってちょっかい出して遊んでやってるのさ。そして時々あんたみたいな話の分かる奴も現れる。こうやって会話できるってのはまた別の楽しみだ」
トムは笑みをさらに濃くした。
「私を殴るのは止してくれよ」
わかってるさ、とトムは白い歯を見せた。
「いつもあんなことしてるのか、あんた」
「時々な。毎日毎日歩いてばっかりもつまらないだろ。退屈しのぎさ。たまには殴りかかってくりゃあそれも楽しいんだが、そうはならないから仕方ない。とにかく――」
俺たちは痛みを感じないんだ。
トムはもう一度言った。
「あんたの楽しみということなのか。あれが」
そう尋ねると、トムは声をあげて笑った。私にはその笑いがなにか他のことを含んだ、不気味な笑みにも思えて仕方なかった。