第五話
「はざまの――せかい?」
「いいから。とりあえず座れよ」
達磨男は隣を指さし、座るように促した。私は言われるがまま、達磨男の隣に腰を降ろした。尻に固い感触を感じたのは初めてだ。植え込みのコンクリート部分に並んで座った。ずっと立っているか歩いているかのどちらかで、座るという発想がなかった。疲労を感じることがないから休む必要を感じなかったのだ。だが、座ったからといって、体に熱やコンクリートの固さを感じることはない。ただ「座っている」という姿勢だけがそこにあるだけだ。
「それで? どこまで理解したんだ」
理解。
昨日一日でなにを理解しろというのか。分かったことといえば、向こうの世界とこちらの世界は違うということと、無意味に歩きまわるくらいしかやることがないということくらいだ。
「楽しみを見つけろと言われたよ」
「ああ、楽しみか」
達磨男は笑った。
「教えてくれた奴がいたか。で、どうだったよ? あんたもそいつの楽しみを真似できそうかい」
全然だね、と正直に応えた。黄色い車に興味を持てそうもないし、向こうの世界のヒトにひたすらくっついて歩くこともできそうにない。
無理だね、と私は正直に答えた。
達磨男は私の答えにのけ反って笑った。
「面白いね、あんた。正直なところも気に入った。他人と同じことしたってつまらないよな。それぞれ自分にあった楽しみを見つけることだ」
「ここにいる連中はみんな楽しみを持っているのかい」
まあ、それぞれだなと達磨男は言った。
「ついてきな」
そういうと、達磨男は立ち上がり、さっさと歩き始めた。私は黙ってその後をついて行く。
通りはさっきとうって変わって車もヒトの数も増えていた。我先にを先を急ぐ騒がしい光景をよそに、私たちはゆっくりと歩いた。
白いコートとすれ違うたびに、達磨男は親しげに話しかけた。だが、私のときと同様に誰も彼の声に反応するものはいない。そう考えると、達磨男は異質だ。初対面の私に昔からの知り合いにでもあったかのように話しかけてくる。なにか狙いでもあるのかと勘繰りたくもなるというものだ。見ていれば、誰にでも声をかけているようだから、たまたま私に声をかけ、たまたま私がよく話をする相手だったということだろうか。
「ああ。そうそう――」
達磨男はなにかを思い出したかのように立ち止まり、私を見た。
「あんた、名前は?」
「名前――?」
考えてもなかった。
自分のことがわからないのだから、自分の名前が何なのか分かる筈もない。分かる筈もないから名前のことなど思いもしなかったのだ。他人と接点を持てそうにもないこの世界において、名前など必要ないものだと思い込み、考えることにすら及ばなかったのかもしれない。
「あんたにはあるのか。名前」
もちろん、と達磨男は言った。
「向こうの世界みたいに誰かが付けてくれるわけじゃないからな。親も親戚もいやしない。赤ん坊の頃の時代があったのかも分からない。《《誰かさん》》の気まぐれでこんなところに放り出されたんだ。だから勝手に付けてやった」
やはりこの男も私と同じように知らぬ間にこの世界にやってきたのだ。私よりもずっと以前に。
「俺は『トム』だ」
「と・む――」
「いい名前だろう。前に観た映画に出てた俳優からいただいたんだ。なんといったかな。トム――なんとかだ。こう、拳銃をバンバン撃ちまくってな。気に入って一日中映画館に居座っちまったよ」
「映画なんか観るのか」
意外だった。
ここの連中はその辺を漫然と歩き、小さな楽しみを見つけ、それをただ毎日繰り返すだけだと思っていた。どうもこの達磨男――トムは他の白いコートとは違う気がした。
「映画も観るしテレビだって見るさ。情報はなによりも大事だ。中には一日中本屋にいて、立ち読みしてるヒトの横から本を読んでる奴だっているぜ。ただ、本や新聞は直接触れないからな。必ずしも読みたい本を読めないのが珠に瑕だ。その点、映画はいい。好きなもの選んで観れるししかも観放題だ。スクリーンの前で横になって観たって誰にも文句言われない。なにせ俺の姿は見えないんだからな」
それよりもお前の名前だ、とトムは続けた。
「お前だとかあんただと味気ないだろう。せっかくこうして話し相手が出来たんだ。名前で呼び合った方が親しみも違うじゃあないか」
そうか、この男もきっと孤独だったのだろう。他の白いコートは反応も鈍いし、まともな話相手になりそうにもない。今日一日何人にも声をかけて分かったことだ。
なぜトムが他の連中と違ってこんなに社交的なのか分からないが、他の白いコートからすれば変わり者なのだろう。それは他人に見境なく話しかけて回る私にも言えることかもしれないが。
「ありま――」
「はぁ?」
「ありま――有馬だ」
「ありまぁ?」
「そうだ。決めたよ。私は有馬だ」
真っ先に頭に浮かんだ単語だ。よほどあの病院の看板が頭に残っているのだろう。他には考え付かない。これがいい。
妙な名前つけるなお前は、とトムは笑った。
――私は有馬だ。
不思議なもので、自分で勝手に思いつきで付けた名前だが、ただそれだけでこれまで幻のようだった自分の存在がしっかりと確立出来たような気がした。目の前のものに触れない存在でも、私は確かに存在するという安堵がこの世界に放り出された不安を拭い去ったのだ。
「まぁ自分がそれでいいならいいさ。気に入らないと思えばいつでも変えられるんだからな。誰かに強制されて付けられたものでもないし。あくまで個人を確立させる記号だよ。今からあんたは『有馬』ってことだ」
よろしくと差し出された手を握り、私はトムと握手を交わした。
ようやくこの世界に私の存在が受け入れられたような気がした。