第四十一話
おかしい。
なにかがおかしかった。
個室に座り込んだ私は立ち上がられずにいた。
ほっとしたせいで無意識に座り込んだのだと思っていた。
少女の無事も確認できたことだし、もうここに用はない。彼女を捜している声も近くなってきているし、やがてここにやってくることだろう。あとは向こうの世界に任せるのだ。
私は立ち上がろうとするが。
足に力が入らない。
腕で地面を押し上げてなんとか立ち上がろうとするが、足が自分のものでなくなったかのように自由にならない。踏ん張りがきかないのだ。
「ママー。コホッ――」
少女――さやかはまだ咳き込んでいるが、少しずつ正気を取り戻しているようだ。母親を呼ぶ元気が出てきたのなら安心だ。
足に力の入らない私は地面を這うように個室を出た。向こうのものを伝って立ち上がれないから、頼れるのは床だけなのだ。
足音がこちらに近づいてくる。
ひとり、ふたり――いやもっと多いか。
向こうの連中に見えないのだから気にする必要はないのだが、こんな地面に這いつくばっている姿はあまりにも無様だ。ヒトが来る前にどうにかここを離れたいのだが――。
「――だいじょうぶ?」
ハッとして振り向くと、いつの間にか個室の扉が開いてさやかがこちらを心配そうに見つめていた。
さっきまで殺されかけていたというのに、こちらの心配をされるとは思わなかった。
いや、そんなことより。
「だ、大丈夫だよ。大丈夫だから、君は――君は私を見ちゃいけない」
私の言葉を聞いても構わずさやかはこちらに近づいてきた。
「立てないの? 手伝ってあげる」
駄目だ。これ以上私に構ってはいけない。君は早くこの場所から離れるんだ。そうでないと――。
私の腕を持とうとしたさやかの小さな手がすり抜けた。
「あれ?」
少女が不思議そうに首を傾げた。
そして私の体を触れようとするが、その度にさやかの両手は空を切った。
「おかしいなあ」
「私は大丈夫だよ。早くお母さんのところへ行きなさい。心配しているよ」
「おじちゃんは誰?」
さやかはどうしても私が気になるようだ。
無理もない。白いコートを着た男がトイレの床に這いつくばり、しかも姿は見えるのに触れないのだ。向こうの世界での生活が短い彼女には、目の前にいる私の存在が理解できないのだろう。
私にとっては私の姿が見えているということが問題なのだ。
私を見てしまったことで生命の危機に瀕したのだ。せっかくその危機を脱したのだから、これ以上私に関わってはいけない。
「さやかー。さやかいるのー」
母親の声だ。もうすぐそこまで来ている。
「ほら、お母さんが呼んでる。早く行きなさい」
足だけではない。
腰も腕も――次第に体全体に力が入らなくなってきた。
――一体どうなっているんだ。
私は残った力を振り絞り、洗面台に背中を預けた。不格好なのは変わりないが、這いつくばっているより座っている方がまだマシだ。
「ふぅ――」
体に力が入らないばかりか、息苦しさも感じる。
呼吸など必要ないと思っていたのに、体が急に空気を欲しだしているようだ。
さやかは相変わらず心配そうに私を眺めていた。今まで自分がどんな目に合っていたのかすら忘れてしまったのではないかと、逆にこちらが心配になってしまう。
「おじちゃん、お名前は?」
思わずふふっと笑ってしまった。
どうあっても少女はここから離れてくれないらしい。それにヒトから名前を尋ねられるとは思いもしなかった。
「ありま――有馬だよ」
彼女が満足してここから離れてくれるなら名前なんていくらでも教えてやろう。どうせ二度と会うことはないのだ。
「さやかちゃんっ」
悲鳴の混じった甲高い声が室内に響いた。
母親の登場だ。
さやかも「ママ」と叫んだ。
私が座り込んでいるすぐ横で、心配したのよどこ行ってたのと、母子の感動の再会が行われている。
視界に靄がかかり、頭がぼーっとしてきた私にはその光景もおぼろげにしか見えなかった。
その後ろから数人の男たちが入ってきて、よかったよかったと喜んでいる――のも束の間、奥の個室を覗いたひとりが驚きの声を上げた。
「は、はやく警察を。きゅ、救急車もだ」
一気にトイレ内は騒がしくなった。バタバタと入れ替わり立ち替わりヒトの足音が聞こえる。私の放りだされた両足を何人ものヒトがすり抜けていった。
「一体なにがあったんだ」
制服を着た恰幅の言い警備員が呟いた。
少女は自分の身に起きたことを大人たちに説明できるだろうか。
今は母親に会えた安心感で平静を保っているようだが、ああいった恐ろしい体験は後から彼女の精神を蝕みはしないだろうか。
それにあの男が頭を割られて倒れていることはどうやっても説明できるはずもない。少女が直接見ているわけでもないから、憶測ででしか判断できないだろう。男が意識を取り戻したところで、向こうの世界だけでは解明が不可能な現象が起きたのだ。
「あのね――」
母親に手を引かれ、ここを出て行こうとしたさやかが足を止めた。
私の意識は朦朧としていて、視覚も聴覚も朧げな状態だった。
「――あのおじちゃんが助けてくれたの」
えっと驚いたのは母親だけではな。私も同じだ。少女は私が座り込んでいる洗面台の方を指差した。
「あのおじちゃんって――どの人?」
「あそこに座ってるおじちゃん。なんかきつそうだけど大丈夫かな」
「な、なに言ってるの。誰もいないじゃない」
母親は驚いて辺りを見回している。
――あんたの足元にいるよ。
思わず笑ってしまった。
そうか。
私は彼女を助けたのか。
オサムが何年も何度も失敗し続けたことを、偶然にも私は実行できたのだ。
私はさやかに向かって小さく手を振った。
少女もそれに応えて小さな手を振った。
――行きなさい。
声は出ない。口だけをそう動かした。
「なにを言ってるのかしら、この子は――」
「きっと怖い目にあって混乱してるんでしょう。もうすぐ警察も来るし、病院に行って検査してもらいましょう」
母子が去ったあとは警察やら救急隊やらが目まぐるしくトイレの中を行き来した。
私は薄れていく意識の中で、漫然とその光景を眺めていることしかできなかった。もはやこの場所から出ていく気力も失われていた。
これから自分がどうなるか。
そんなことすらどうでもよくなっていた。
そのときだ。
ふと私の顔のすぐ真横。
目と鼻の先に少女がいた。
私の目の前にしゃがみ込み、じっとこちらを見つめている。
――全くこの子は。私の言うことを聞かない悪い子だ。
私が二コリと笑うと、少女もそれに倣うように笑った。頬にはえくぼが浮かんでいる。
じっと私を見つめる瞳を私も見返した。
視界の定まらない私の目に――。
少女の瞳に映っている私の姿が見えた。
初めて見る自分の姿。
白いコートと黒いネクタイ。座り込んだ私が少女の瞳の中に存在した。
ああ。
――私はこんな顔をしていたのか。
「ありがとう」
その一言を言い残し、少女はその場から離れていった。
お礼を言うのは私の方だ。
君のおかげで私は自分の顔を見ることができ――た。
そのまま。
私は意識を失った。




