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狭間の世界より  作者: 益次郎
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第四十話

 母親は少女を捜していくれているのだろうか。

 今頃迷子の届け出を出し、ガードマンや従業員総出で館内を捜しまわってくれているのだろうか。

 この近くまで来てくれているのだろうか。

 もし来ているのなら、早く彼女を助けてやってくれ――。

 私は目の前の光景を眺めながらそんなことを考えていた。

 少女の変わっていく顔色を見れば、もう時間の問題だろう。

 私の姿を見たという事実は、目の前の光景に繋がっていたのだ。

「じゃあ今日のところは俺がいただくぜ」

 トムが楽しげに言う。

 ――さっさとやればいい。

 私は早くこの場を離れたかった。この少女の数分前のあどけない表情を早く頭から消し去りたかった。

 それに事が済めば男は立ち去り、屍だけがここに残る。その小さな遺体を見つけた誰かが悲鳴を上げ、ここは騒然となるだろう。そして駆けつけた母親は変わり果てた我が子を見て泣き崩れ、嗚咽するだろう。少女をひとりにしてしまった自分を攻め、後悔するだろう。

 そんな光景を見たくない。

 トムが男の中に入っていく。

 最後の力が少女の意識を向こうの世界から解放する瞬間だ。

 ふと。 

 私の中に過った。

 ――一体化したヒトに触れる。

 さっきトムはそんなことを言っていた。

 今、少女を殺さんとしている男に触れないとしても、トムが入りこんだ瞬間なら――。

 トムの言ったことが本当ならば――。

 試す価値はある。

 どうせこのまま少女の死を指を咥えて見ているだけならば、それに賭けてみるのもいい。

 ただ。

 失敗すればトムは怒り狂い、私を消すだろう。きっと今まで彼がやってきたように、無理やりヒトと一体化させられ三秒というルールを破らせるだろう。

 それもいいかもしれない。

 少女に対するせめてもの罪滅ぼしだ。彼女と一緒に世界から消えてしまうのもいい。

 オサムのようにこの世界にしがみつくつもりはなかった。

 こんなにもヒトに対して感情的になるなど、今日の私はどうかしている。ルイがデートをしようなどとヒトらしいことを言い出すから、私の意思もヒトに寄ってしまったのだろうか。

 トムが男と一体化した。

 勝負は一瞬だ。

 三秒しかない。 

 私は手を伸ばし、後ろから男の髪を。

 掴んだ。

 ――掴める。

 触れた。手の中に何本もの髪の感触が伝わってきた。

 昂った手に力を込める。ヒトに触れたという事実が私を興奮させた。

 驚いたのは男も同じだった。

 無理もない。扉は閉じたままなのに、急に背後から髪を引っ張られたのだ。振り向いてもそこには誰もいない。触られているという感覚はあるのに目の前にはなにもいない。私は触れているが、向こうはこちらを視覚として捕えられないのだ。

 よほど恐ろしかったのだろう。男は髪を掴まれたままキョロキョロと訝しげに辺りを見回した。

「おい、なにしてる?」 

 男の顔にトムがだぶった。ヒトの顔からトムの顔が半分だけ覗いているという滑稽な様だ。

 ――顔半分出したら三秒ルールはリセットされるのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら。

 私は男の髪を引っ張り上げ、そのままありったけの力を込めて顔を壁に打ちつけた。

 ガンッという音とともに、「ぎゃっ」という声が響いた。

 男の手が少女の首から離れた。 

 男は見えない力に壁に打ちつけられた痛みと混乱でパニックになっている。さっきまでの狂気に満ちた目は恐怖が溢れていた。

「て、てめぇ、どういうつもりだ」

 トムの声が震えている。床の体を通じて痛みを感じ取ったのだろう。これまでの調子づいた態度の中に戸惑いが混じっている。

「痛い――か?」

 自分で発した声は驚くほど冷静だった。

 ヒトの痛みを共有した感想を知りたかった。こんなときまで私の知りたいという欲求が働いた。

「あ、ああ。こいつはひどい感覚だ。今まで感じたことがねぇよ。だから――」

 うずくまっている男の背中からトムが出てこようとした瞬間。

 再び男の髪を掴んだ私は。

「お、おい。よせ――」

 強張った顔をするトムを無視し、白い便器に向かって男の額を――。

 ゴンッ――。

 鈍い音とともに、赤い飛沫が白い便器と辺り一面に飛散した。

「ぎゃあああっ」

 男とトム。ふたつの叫び声が大きくこだまする。

 便器を抱え込むように倒れこんだ男はぴくりとも動かない。男の顔の下には血だまりがみるみるうちに広がり、それが便器をつたって床に落ちた。

 男の背中からトムの腕が飛び出した。醜く歪んだ指がその痛みを物語っている。

「だ――だすけでぐれ。俺が――俺が悪――かった」

 トムの顔が半分だけ見えた。どうにかして男の体から這いずり出ようと必死にもがいている。

 本来なら自分がヒトの体から出ようと思えばすんなりと出ることができるはずだが、男の体を通じて感じた痛みが邪魔をして体が言うことを聞かないのだろう。まるで溺れているヒトが助けを求めているようだ。

「た――のむ。て――手を――」

 私は首を振った。

 無様だ。

 トムが私に初めて見せた無様な姿。

 この世界を我がもの顔で闊歩していた男の面影はそこになかった。

「悪いが三秒だ」

 目から上だけが出ているトムの頭を。

 ゆっくり。

 ゆっくりと。

 男の中へ押し込んだ。

「よせ、よせ。やめてく――」

 ずずず――とトムの顔が沈んでいく。

 目は見開き、目玉が左右にぎょろぎょろと動いた。懇願するような目はやがて見えなくなり、頭部だけが島のように男の背中に浮かんでいる。

 ――当然の報いだ。

 こうやって許しを乞う同族たちをこの男は沈めていったのだ。どれだけの人数をやったのかは知らないが、決して許される行為ではない。

「あんたもじっくり味わえ――」

 私は最後に残っていた頭部を掌で強く押し込んだ。

「いやだ。い、いやだぁ。たす――げ――」

 トムの激しい断末魔が響いた。その苦しみ悶える声が、男の中でもがき苦しむトムの姿を容易に想像させた。

 苦悶に満ちたその叫び声は私の全身をも震えさせた。耳を塞ぎたくなるような声は長く続いた。消滅の際の苦しみが激しいものだと聞いてはいたが、これほどまでとは思わなかった。

 少しばかりトムが気の毒に思えたが、彼のこれまでの行いが返ってきただけのことだ。

 そして。

 やがてトムの声は男の中から聞こえなくなった。

 消滅。

 はじめて見る白いコートを着た者の消滅。

 あまり気分のいいものではなかった。少女を助けるため、これまでのトムの行いに対する償い――自分にそう言い聞かせた。

 そしてトムが吸収されてしまった男は突っ伏したままぴくりとも動かない。呼吸をしているようだから死んではいないようだ。犯罪者とはいえ、ヒトと同族を同時に殺したとなれば寝つきが悪い。息があるのは幸いだ。ただこの出血だ。おそらく便器に打ちつけた額はばっくりと割れてしまっているだろう。あとはヒトの世界が治療なり償いなりをさせるだろうから、放っておいても構わないだろう。

 私の興味はすでに別のものに移っていた。

 あの少女は。

 男の手を離れた少女は個室の脇にもたれかかっていた。

 息は。

 「ゴホッ」

 強く閉ざされていた酸素を必死に吸いこもうとしている。

 ――よかった。無事だ。

 私は胸を撫で下ろした。

 なんとか間に合った。首元に絞められた痣が痛々しく残ってはいるが、一命は取り留めたようだ。

「――ちゃん。さやかちゃん」

 遠くでヒトの名前を呼ぶ声が聞こえる。

 その声は少しずつだがこちらへ近づいているようだ。

「――は、は――い」

 少女がまだ開かない喉の奥から声を振り絞った。必死に返事をしようとしている。

 ――そうか。君はさやかというのか。

 ほっとしたせいか、私はその場に座り込んだ。 

 私はなにをこんなにも疲れているのだろう。

 疲労など私には無関係なはずだ。

 それなのに。

 私の体は芯が折れてしまったように完全に脱力してしまった。

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