第四話
朝がきた。
闇がじわりじわりと薄くなっていく。
次第に影が伸びていき、町が目を覚まして行くのがよく分かった。
夜の道を散々歩きまわったが、気付けばまた私はここにいた。『有馬医院』の看板が見えるこの場所だ。
歩道の真ん中に立ち、まだ車の少ない車道をぼんやりと眺めているとなにやら視線を感じた。辺りに人影はない。向こうの世界の住人もいないし白いコートも見当たらない。
――なんだろう。
気になって辺りを見回す。
こんなことは初めてだった。昨日一日いろんな場所を歩き回ったが、視線を体に感じることなどなかった。
ふと視線を下げたとき、こちらを睨んでいるものがあった。
犬。
犬だ。中型の茶色い犬がこちらを見て唸っているのだ。歯を食いしばり、鋭い犬歯がよだれと一緒に口の隙間からのぞいていた。品種はよくわからないが、きっと雑種だろう。首輪をしているし、そこから細長いリードが伸びている。飼い犬なのだろうが飼い主は見当たらない。
回りを見てもその犬が睨んでいるのは私の様だ。黒い瞳は確実に私を捉え、しかも私と目が合っている。
そんな馬鹿なと私は思う。
犬とはいえ、あちらの世界の住人だ。
回りを見てもなにもない。向こうの世界の犬だ。私が見えるはずがない。
私は試しに一歩踏み出した。
それに反応して、茶色の犬はさらに身を固めた。
――反応している?
一歩、また一歩と犬に向かってゆっくりと進むと相手はそれを阻むかのように吠えはじめた。静かな町に似つかわしくない音が辺りに響く。
私は近づきながら両腕を大きく広げ、犬に対して脅かす様な恰好をして見せた。驚いた茶色い犬は飛び上がってどこかへ走り去ってしまった。尻尾を巻いてとはまさにこうことをいうのだろう。
それにしても今のはなんだったのだ。
ヒトには見えないが、動物には見えるということか。
そんなはずはない。
昨日だけでも野良猫はいたし家の庭先に繋がれた飼い犬もいたが、ヒトと同様こちらを見ることはなかった。
あの犬だけが特別だったのか。
「たまにいるんだなあ。ああいうのが」
ハッとした。
いつの間にか私のすぐそば白いコートが立っていたのだ。犬に夢中で全く気が付かなかった。
「動物ってのは、ヒトとは違った感覚を持ってるんだろうなあ」
その白いコートは馴れ馴れしく私の肩に手を置いた。
これまでこちらから話しかけはしても、向こうから話しかけられたことはなかった。しかも他人に触られるのも初めてだ。見知らぬ男になんの前触れもなく触れられることがこんなにも不快なものとは思わなかった。今思えばあの黄色い車を女には無礼なことをしたものだ。
「あんまり見ない顔だな」
私の肩に手を置いたまま、その男は値踏みするかのように私の全身を眺めている。身に着けているのは全て同じものなのに、頭から靴の先まで舐めるような視線だ。
男の容姿はというと髪は額が頭頂部に向かって額を広げるように薄く、顔も体も丸い。それでいて背も低いから、まるで達磨に短い手足が生えたような印象だ。
「いつ来た?」
顔と体と同じように丸い大きな目がぎょろぎょろと動く。
「――昨日」
そう言いながら自然と体を達磨男から離し、肩に乗っている手を遠ざけた。いつまでも宿り木にさせてやるほどお人よしではない。
「ああ、昨日来たばっかりか。そいつは気の毒に」
「気の毒」
「だってそうだろ。この退屈な世界に放り込まれて気の毒以外の言葉があるかい」
笑うと口元の皺が深くなる。
「あんたも退屈してるのか」
男は首を振った。
「全然。俺は楽しんでるぜ。《《あちらさん》》と違ってここはなにも苦労しない。見てみろよ。もうすぐこの道はヒトと車で溢れかえる。朝起きて物を食って、糞を捻りだす。そして時間が来たら豚みたいに眠って、また朝起きての繰り返し。欲のために働いて欲のために身を削って、いつの間にか年を取って死ぬんだ。俺にとっては向こうの世界の方が気の毒だね」
「じゃあ、なぜ私に向かって気の毒だと?」
達磨男は私に近づいて再び肩に手を置いた。この馴れ馴れしさは決して気持ちいいものではない。
「混乱してる顔してるからさ。この世界を楽しんでいないって顔に書いてある」
受け入れろよ、達磨男はさらに腕を伸ばして肩を組んできた。身長差があるせいで、私に乗っかる様な形だ。
「教えてやるぜ。訊きたいことがあるならなんでも。どうせ誰も教えちゃくれなかったんだろ。ここの連中は他人に冷たいからな」
確かに達磨男の言う通りだ。白いコートの連中のそのほとんどが耳を傾けてくれない。ただひたすらまっすぐにどこかを見つめていて、こちらに視線をくれはしないのだ。十人以上話しかけて反応があったのはこの男を含めてたったの三人。そのうちのひとりは向こうから話しかけてきたのだから驚きだ。
「とりあえず――」
達磨男は歩道の植え込みに腰を降ろした。手では触れない植え込みだが、その上に立ったり座ったりはできるのだから不思議なものだ。 どこからどこまでを向こうの世界がうけいれてくれるのか、その基準が未だ曖昧なままだ。達磨男は当たり前のように私の目の前で座ってみせた。相当この世界に慣れていることが分かる。
そして私を見上げながら、口角を上げた不気味な笑みを浮かべた達磨男はこう言った。
「ようこそ。狭間の世界へ――」