表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狭間の世界より  作者: 益次郎
39/42

第三十九話

 少女の両目はなにを捉えるでなく見開いていた。

 その表情は自分の置かれている状況を理解できずに、ただ流されるままなにもできずにいる川面に浮かんだ落ち葉のようだった。

「そういえばまだ俺の楽しみをおしえていなかったな」

 トムはそう言いながら、私を押しのけるようにして首を絞め続けている男の横に立った。

「これだよ――」

 笑みを浮かべながら、トムは若い男の中へと滑り込んだ。

 一体化したのだ。

 一秒。二秒。三秒。

「ふぅぅ。たまんねぇなこりゃ」

 男から出て来たトムは満足そうに息を吐いた。

「なにをしているんだ、お前は」

「見てわかんねぇのか。一体化だよ。教えてやっただろう」

 そんなものは見て分かる。

 私が知りたいのはそこではなかった。この現状のなにを楽しんでいるのか理解できないでいたのだ。

「お前はいろんなものに興味を持つ割には理解力がないな。いいか、俺の楽しみは殺しだよ」

「殺し――」

 そう言っている間に、再びトムは男に入りこむ。

 ――殺し。

 そうだ。

 少女は今まさに、この男に殺されかけているのだ。

 その殺しを実行している男と一体化する――。

 つまり、トムはヒトの中に入り込むことで殺人を犯している感覚を体感し、それを楽しんでいるということだ。

 三秒。

 きっちり三秒でトムは男から出てきた。

 手慣れている。何度もこんなことを繰り返し、トムは三秒という短い時間を自分のものとして、一秒たりとも間違うことなく楽しんでいるのだ。

 トムは私の見ている前で何度も男の中を出入りした。

 三秒入っては出て、再び男に潜りこむ。次第にトムの表情は恍惚としてきて、男の血走った目をとは対照的に殺す瞬間というものを味わいつくそうとしていた。

 そうこうしているうちに男は後ろから抱え込むような態勢を代え、少女の正面に回り、両手で首を締め始めた。

 少女は抵抗する力もなく両手はだらりと垂れ下がり、見開いた目もすでに焦点があっていなかった。

 私はどうすることもできずに、少女が息絶えるの待ち、トムが楽しげに男の中を行き来するのを傍観し続けた。

 ――駄目だ。

 このままではいけない。

 その少女が特別だとは思わない。

 思わないが目の前で行われている光景をただ眺めているだけでは駄目だと頭の中で繰り返した。

 私が何者かも知らずに話しかけてきた無垢な少女の顔が、今まさに苦悶の表情へと変わっていっているのだ。しかも隣にはヒトによる殺人を楽しむ白いコートを来た者までいる。

 ――止めなければ。

 そう思った瞬間、私は男から出てきたトムを突き飛ばした。

 不意を突かれたトムは大きく弾かれて、壁の向うへ通り抜けて行ってしまった。

 オサムはなにもできなかったかもしれないが、試す価値はある。黙って見過ごすわけにはいかない。

 正義感という大仰なものではない。

 私の姿を見せてしまったという罪悪感からくる感情だった。

 なぜそんなこと思うのか、自分でもわからないがこの少女が特別なものに見えるのだ。あの幼い声で話しかけられたせいなのかもしれない。

 私は男の中に入り込んだ。

 そうにかして男の腕を緩めたかった。だが、どれだけ男の指を動かそうとしてもピクリともしない。それどころか少女の細い首を握り絞めるおぞましい感触が私の体に伝わってきた。

 堪らず私は男から飛び出した。

 飛び出した先に。

 トムが立っていた。

「諦めろ」

 言葉を聞き終えるやいなや、私の視界は大きく揺れた。

 今度はトムに殴られた私が個室から飛び出してしまった。痛みはないが衝撃は伝わる。私は床に倒れこんだ。

「なにをやっても無駄なんだよ。もう始まったものは止められない。あのガキはもうすぐ死ぬんだよ。お前もわかってるだろ。話しかけられるなんて稀だぜ?」

 床に倒れこんだトムが私を見下ろす。

「諦めて見てろ。お前を見たからあのガキは死ぬ。見届けてやれよ」

 そういうと、トムは私の髪を掴み引きずったまま個室に入った。

「あとどれくらい持つかな。俺は楽しませてもらうぜ」

 トムが再び男の中に入り込もうとした瞬間。

「止せっ」

 咄嗟に身を起こし、私はトムに飛びかかった。

 揉み合いになりながら個室を飛び出し、トムに馬乗りになった私は夢中で殴った。

 一発。二発。

 トムを殴ったところで少女を助けられるわけではないが、彼の行動を黙って見ているわけにはいかなかった。

 三発。

 初めて他人を殴ったが、どれだけ殴っても拳に痛みは感じない。手になにかが当たっているという感触だけだ。

 四発目――。その拳を下ろそうとした瞬間だった。

「お前も無駄なことが好きだな」

 トムが私の拳を片手で受け止めた。

「ガキは助からないし、殴っても痛みを感じない。無駄なんだよ、なにもかも。ただ――」

 そう言いながら、トムは受け止めた私の腕を引っ張り体を滑らせて身を起こすと、私の背後に回った。そして掴んだままの私の右腕を背中側に折って、関節を逆に曲げた。

 一瞬の出来事で虚を突かれた私はされるがままだった。不思議なもので関節の痛みは感じないものの、身動きがとれない。がっちりと腕をトムに固められてしまった。

 この手際のよさ――。この男はこういう状況に慣れているようだ。

「たまにいるんだよなあ。こうやって無駄な抵抗をする馬鹿がさ。そういう奴はみんな」

 消えてもらったよ、とトムが耳元で囁いた。

「やっぱり噂は本当だったんだな。あんたが同族を消して回ってるっていうのは」

「全く呆れるよ。ここの連中は無関心を装いながらそういう噂には敏感になりやがる。どうしようもない連中ばかりだ」

「彼もなんだろ? あんたがいつも殴っていた彼もあんたが――」

「お気に入りだったんだがな、あいつは。いい暇つぶしの道具だったよ。でも道具が反抗しちゃいけねぇよな」

「反抗だって?」

 どれだけ殴られても無抵抗だったマッチ棒の男がなにをしたというのだ。

「俺は警告したんだよ。有馬に近づくなって。どういうつもりか知らんが、やたらお前を気にしていたんだよ、あいつは。それでとうとう接触しやがった。俺の警告を無視したわけだな。そんな道具はもういらないってことだ」

 なんて奴だ。

 マッチ棒の男とはあの忠告を受けたとき、たった一回だけの接触だった。そんな些細なことでこの男は同じ世界の住人を簡単に消してしまったのだ。

 なんとか腕を振りほどこうと試みるが、トムの力とその固め方で身動きが取れない。

「そんなことより楽しもうぜ。早くしないと終っちまう」

 トムに押されるようにして、再び個室の中に入った。

 相変わらずの光景が目の前では続いていた。

 少女の顔色は青白く、必死に呼吸しようとしているが男の両手で閉ざされた気管がひゅうひゅうと乾いた音を立てるだけだった。

「そろそろ終幕だな、こりゃあ」

 よく見てろ、とトムが私の体を押した。

 ――見ていられない。

 目を背けた私にトムが言う。

「いいか。今日だけは見逃してやる。お前が俺にしたことは本来なら許されることじゃない。俺を殴って無事でいられたのはお前だけだ。なんでお前だけを許すかわかるか?」

 ――そんなこと知ったことか。 

 私は首を横に振った。

「俺はお前を気に入ってる。お前の好奇心は貴重だ。この世界の連中は自分で物事を考えない阿呆ばっかりだ。だからあんな病院の上で閉じこもってる奴に話を聞きに行く。あんな奴に助言してもらったところでこの世界は楽しめない。この世界を本当に楽しんでいるのは俺だ。この世界でしかできない楽しみを俺は知っている。気に入らない奴を消す力も知識も俺は持っているんだ。つまり――」

 

 俺はこの世界の神なんだよ――。


 狂ってる。

 本当に狂っているのはオサムではなかった。狂っているのはこの男だ。

 自分の存在を履き違え、勝手に悦に浸っているのだ。

「いいか、有馬。俺はお前の好奇心を買ってる。この世界にはまだまだ俺の知らないことがあるかもしれない。一緒にこの世界を俺たちのものにしようじゃねぇか。知識がこの世界を統べる力になるんだ」

 本気で言ってるのかこの男は。

 俺たちの世界という発想自体馬鹿げてる。こちら側の世界は向こうの世界の付属品でしかない。それが私の考えだ。どれだけ知識を得たところで統べるなどもってのほかだ。

 そんなものは絵空事だ。

「もうすぐガキは死ぬ。その瞬間を狙って男の中に入るんだ。それが堪らなねぇ。今日は特別に体験させてやろうか」

 そう言うとトムは手をほどき、ようやく私は解放された。

「私はいい。あんたがやってくれ。私は次の機会にやらせてもらうよ」

 私の言葉にトムは満足気に頷いた。

 私が完全に落ちたと思ったのだろう。

 私はもう自分の配下に入ったのだと――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ