第三十八話
通路へ入り右へ曲がると、そこには両サイドに三つずつ、計六つの個室があった。その手前には洗面台があり、大きな鏡が設けてある。鏡には誰も映っていない。もちろん、私の姿も。
六つの個室のうち、五つの扉は開いている。一番奥の右側の扉だけが閉じた状態だった。
ヒトの排泄行為などに興味はないが、私は扉の開いている個室を手前から覗いてみた。扉が開いているのだから用を足しているヒトは当然おらず、そこには白い洋式便器が鎮座しているだけだった。
ひとつ、またひとつと開いた扉の中を確認していく。
すると。
ヒトの気配がする。
私の勘違いでなければ、ふたりのヒトがここへ入っていった。
見落としがなければ、ふたりとも出てきていないはずだ。ここの奥にあった立ち入り禁止の扉の方へ行っていなければ、ここへ来ていることに間違いない――はずだ。
一番奥の扉の前で耳をそば立てる。
気配が――ある。
こそこそと声が聞こえる。
男だ。
――ここは女性専用だろう。
男の声が聞こえること自体おかしいはずだ。向こうの世界のルールではそうなのだ。
私は唯一閉じられている扉をすり抜けた。
そこには。
男がひとり、ドアの方に背を向けて立っていた。顔つきから判断するにまだ若い。二十代後半、いや前半、下手すると十代後半か。とにかく若い男だ。
その若い男は口元に人差し指を立ていて、もう片方の手は下に伸びている。
伸びている手の先には。
少女の小さな頭。
――見つけた。
赤いスカートにピンクの靴のあの少女だ。少女は蓋の降りた便座にちょこんと腰かけていた。両足は床から浮いていて、その姿が少女の幼さを表している。そして若い男の大きな掌が、その少女の口元を塞いでいた。少女の目は恐怖と戸惑いが同居していて、目玉が上下左右に忙しなく動いていた。
混乱しているのだ。
それもそうだろう。本来はこの小さな個室に入るのはひとりだけだ。だから「個室」というのだろう。しかも目の前にいるのは自分の倍はあろうかという大きな男。二重三重にあり得ない状況に、少女はどうしていいのかわからないのだ。
「すぐ終わるからね――」
一体なにが終わるというのだろうか。
男はポケットから小さく薄い物体を取り出した。携帯電話というやつだ。ヒトという連中はこの道具をひっきりなしにいじっている生き物だ。その携帯電話を取り出し、少女の口を塞いだまま、片手で器用に操作し始めた。
「写真撮るだけだから。あとでお礼にお菓子あげるからね」
優しく語りかけてはいるが、鼻息は荒い。興奮しているのか焦っているのか、とにかく若い男の眼は血走っていた。
「あーあ。たまにいるんだよなあ、こういう奴が」
はっとして振り返ると、隣の個室とを隔てている壁からトムが首だけを出してその光景を眺めていた。
「ヒトってのはいろんな趣味の奴がいるからな。だから観察していても飽きないもんだが、こりゃ珍しいもん見られるかもな」
トムはくくくっと気味の悪い笑みを浮かべた。この奇特な光景を楽しんでいるのだ。
「珍しいものってどういうことだ?」
カシャリ。
カメラのシャッターを切る音が聞こえた。
「このガキ、お前が見えたんだろ? つまりはそういうことだ」
そういうことだって?
カシャリ。
衣擦れの音とともに再びシャッターを切る音だ。その音に混じって、鼻を啜る音も聞こえる。私はトムの方を向いているから、背後でふたりがなにやら動いている気配だけは感じていた。
「ついてるな、有馬。今日はとんでもない当たりだぜ」
トムを視線から外し、再び少女の方へ視線をやると、若い男は少女を立たせ、赤いスカートを捲り上げていた。
「なにやってるんだ、こいつは」
男の行動を理解できない私は吐き出すように言った。
「いっただろう。いろんな趣味の奴がいるって。俺たちと一緒さ。俺たちもそれぞれ他人には理解できない楽しみを見つけてるだろう。こいつにはこういうのが楽しみだというだけの話さ。俺たち白いコートを着た連中となにも変わりはしない」
相変わらず口を塞がれた少女の手足は震え、目には涙が浮かんでいた。さっき聞こえた鼻を啜る音は少女の泣いている音だったのだ。
ヒトの行動自体、これまでなにも感じることはなかったが、今目の前で行われている光景は異常だと感じた。今までにない感情だ。
――止めなければ。
なぜそんなことを考えたか自分でもわからない。
今までなら放っておいただろう。ヒトがなにをしていようが、私の興味を引くことがなければ関係ないことだった。
なぜか。
なぜか今日に限っては、この若い男の行動が不快で、少女が不憫で堪らない。
まず止めたいという考えが私の頭を支配していた。
「おいおい、止めようとか考えているんじゃないだろうな」
私の考えを見透かすようにトムが言った。
「馬鹿なこと考えるなよ。どうせお前にはなにもできやしないんだ。男をガキから引き離すことなんてできやしない。お前の知り合いがずっと昔から試し続けてきて、結局なにもできなかったんだからな。新米のお前がどう努力したって無駄なんだよ」
知り合い――オサムのことか。
オサムはこんな気持ちを持ち続け、何度も試し何度も失敗し続けてきたのか。それを何十年も繰り返し続け、結局諦めてしまったのだ。
だが。
そうだとしても私はこの男を止めたかった。
いや、少女を助けたいと思ってしまったのだ。
そのとき。
コツコツと靴が床を叩く音が近づいてきた。
その音に真っ先に反応したのは若い男だった。男は体をさっと動かし、少女を後ろから抱きかかえるようにして、今度は両手で口を塞いだ。さらに両足で少女の足と腕をがっちり身動きが取れないようにと抑え込んだ。
私もそれにつられて息を呑む。トムはその光景を壁から首だけを出して笑っていた。
遠くで扉が閉まり、カチャリと鍵を閉める音がした。
その空間はヒトがいるというのに奇妙な静寂が包んでいた。そこだけ時間がゆっくり流れているような違和感だ。
少女を抑え込んだ男の額にはうっすらと汗が滲んでいる。早く立ち去れと言わんばかりに目を見開き、息を殺して時が過ぎるのを待っていた。
コンッ。
鈍い音がした。
小さな音だったが、その奇妙な静寂を破るには十分だ。
その音は今入ってきた誰かの出した音ではない。
音の主は。
少女だった。
男の足で固められたほんのわずかな隙間を縫って、小さく細い指を使って便器を叩いたのだ。
誰かもわからない別の個室にいるヒトに向かっての、少女の力を振り絞ったSOSのサインだ。
――今の音で気づいてくれ。
――この空間の異質な空気を感じ取ってくれ。
そう願ったが。
トムの笑みはさらに増し、目には歓喜が浮かんだ。
男の方へ目をやると。
男は片手で口を塞ぎながら、腕を使って少女の細い首を絞めつけてしまっている。
――なんてことだ。
少女の渾身のSOSのサインは、男の凶器を駆り立たせる最悪のスイッチとなったのだ。
「始まったぜ」
その光景を見て、満面の笑みを浮かべたトムが壁をすり抜け、こちらの個室へ入ってきた。
「やっぱり始めやがった。こいつを待ってたんだよ、俺は」
男の行動とトムの行動を理解できずにいた私はその場に立ち尽くし、再び靴が床を叩く音が遠のいていくのを聞くことしかできないでいた。




